2015年12月20日日曜日

直滑降 [オーストリアスキー教程1957]



[オーストリア スキー教程 1957]


P. 12〜14


2. 直滑降


直滑降の姿勢は無駄な力を使わず、しかもいかなる動きにも即応しうるものでなければいけない。力の浪費を省くこと、および広い視野をもつという二つの要求をみたすのであるから、直立に近い高い姿勢となる。膝から下(脛)をよく前におし倒す。脛を前におし倒すと、解剖学的理由によって、足首の関節はしっかりひきしまり、もちろんスキーの操作も確実になる。また、正しい前傾姿勢をとるために必要な準備ができることにもなる。膝と腰はバネをたくわえ、また、あらゆる動きに即応するため軽くまげる。

横から見て、すくなくともスキーの上に垂直に立ち、また、いかなる変化にも応じて体を動かせるような印象をあたえる姿勢であるべきである。この「斜面に垂直」な姿勢にあっては、踵よりも親指のつけ根のほうにいくらか余計に体重がかけられねばならない。つまり、雪の状態が許すかぎり軽い「前がかり気味(Vorlagetendenz)」の姿勢をとるのがよい。両足は前後せずに殆ど揃え、両方のスキーに均等に荷重する。雪が深かったり、また変化のある場合には、多かれ少なかれ、その状態に応じて体をうしろにかける(Rucklage)とともに、足を前後して支持面を前後に伸ばすことが必要である。こうすれば、前にだしたほうの足で、いわば探りを入れることになるので、前からのショックにたいして確実さをますことができる。このような場合には、もちろん、うしろ足により多く荷重する。しかしながら雪の状態がよくて楽に回転しうるようなときには、両足を前後に開いていると、状況に即応して機敏に動作をおこす妨げとなる。

左右のスキーは、できるだけ揃えて細いシュプールで滑るようにすべきである。両足を揃えて細いシュプールで滑れば体の動きもまとまりがよくなり、また滑降の落ちつきと確実さをもたせるのにも都合がよい。氷化した雪のときには、必要に応じてシュプールを幾分ひろげたほうがよい。いくらか左右の間隔を広くしても膝をぴったりつけていれば、氷化したバーンにおいても軽くエッジを立てることができるから、十分な確実さを得るのにたいへん都合がよい。

腕は肘を軽くまげて楽にたもつ。腕はいつでも楽に無駄なく動かしてバランスをとり、またとっさの場合に応じて杖をつける用意がなければならない。共通した欠点は、両手を体側に力んで押しつけたり、両腕を不必要にひろげたりすることである。だらりと投げだしたように肩をさげ、ぶらりと腕をたらし、杖をだらしなくひきずるようでは、とうていとっさに体を動かすことはできない。しかしながら、滑降姿勢に最も多く見られる欠点は、胴体を前に突きだした姿勢で、こうした姿勢をとると両脚も硬直してしまって、尻もうしろに突き出ることが多い。

「基本姿勢」としては、シュプールの幅せまく、前がかり気味な、いつでも新たに動作をおこしうる、かなり直立に近い姿勢の習得をめざすべきである。この基本動作は、もちろん滑降の状況によって変わるものである。例えば傾斜のゆるい氷河などで長く真直ぐに滑降する場合には、無造作に体をゆるめた楽な「休息の姿勢」でよい。また雪が深かったり、変化のあるときには、後傾した、いわば何か待ち構えるような「防禦姿勢」をとらざるを得ぬことが間々ある(空気の抵抗を少なくするために深くかがんだ、したがって疲れることの多い姿勢で滑ることがあるが、これなどは、そのときそのときの事情と目的に応じてとられる例外的な姿勢の一つといえよう)。


斜面が急になる場合


これには、--とくに基礎訓練中は-- 身を沈め、姿勢を低くしながら前傾して通過するのがよい。こうすれば斜面に垂直な体勢をたもちうるので、雪面から浮きあがるようなことはない。上達した者は、良好な状態のときには、ただ直立した上体を前に傾けるだけで、この斜面に垂直な体勢をたもってゆける。


斜面がゆるくなる場合


これは、いま述べた斜面が急になるのとちょうど反対の場合で、体をのばして高い姿勢をとればよい。しかし、決して後傾に陥るようなことがあってはならない。すなわち、前、上に立ちあがるのであるが、急に平らになるようなところでは、どちらか一方の足を前に踏みだしてもよい。

逆斜面(のしあげ)の傾斜がしだいに緩くなる場合と同じである。ここでもいくらか低い姿勢から伸びあがってゆけばよい。こうすれば、押しつぶそうとする勢にたいして最もよくもちこたえられる。


大きな波形ののしあげ


さきに述べたものと同じ要領で、波ののしあげのところで体をのばす。だが、その頂点に達する前に適当な時期に低い姿勢になって前にかかり、斜面が急に落ちこんでもスキーをしっかり踏みおさえる用意をしなければならない。


小さい波


大きな波のときには、重心は、斜面に垂直な状態をはっきりと保ちつづけてゆくが、小さい波をいくつも越えてゆくときは、できるだけ同じ高さを保ちつづけてゆくようにする。

すなわち、波の谷では意識的に脚を(伸ばして)下におしつけ、また波の頭では下から突きあげられるままに脚をかいこんでゆく。このように、地面の凹凸を除去しながら乗り越えてゆくことは、後傾に陥らないために重要である。

上に述べたような地形を乗り切るときには、脚をちぢめて低い姿勢をしなければならないが、これは決して上体を前に突きだしておこなってはならないのであって、必ず脛を前に倒し、それに応じて膝をまげること(膝の前圧)によっておこなわねばならない。上体はできるだけ真直ぐにたもつ。


跳躍


跳躍は勢いよく跳ねのびることによって急にスキーが地面から離れ浮くことである。瘤のようにふくらんだところ、あるいは急に落ちこんでいるようなところは、このように空中に飛びだすのに適している。のみならず、このような地形のところでは別に飛びだそうとしないでも、ひとりでにスキーが雪面から浮くものである。スキーは空中にある間、平行に、左右ぴったりくっつけておかねばならないし、また、すぶに着地するのであるから、スキーのテールは決して下げすぎてはいけない。体は踏み切った瞬間にも、また飛行中も、ぐーっと前にだすようにしてゆかねばならない。脚は伸ばしたままでもよいが、しかし、空中を飛行する間、脚をちぢめてひきつけるほうが確実安定だとするものが多い。着陸は、一度ちぢめた脚を下に伸ばして、スキーをしっかりと踏みつけておこなう。着地のショックはスキーを前後してテレマーク姿勢に入って抜くのが有利である。着陸を滑らかにおこなうためには、必ず空中を飛んでいるあいだ前傾を十分にとり、したがって体は着地する前に適当に斜面に垂直な状態をたもっておかねばならない。述べる必要もあるまいが、前傾をしすぎたり、スキーの先を下げすぎると、頭から突っこんで危険な転倒をすることがある。長く飛ぶときには腕をまわしてバランスをとる。




2015年12月17日木曜日

歩行、滑走、方向変換 [オーストリアスキー教程1957]



[オーストリア スキー教程 1957]


P. 9〜12


1. 歩行、滑走、方向変換


スキーには自分の力を使って前進する場合と、重力によって滑り降ってゆく場合がある。

スキーをはいて平地を歩くときには、足を雪面からあげないで滑らせながら前におしだしてゆく。腕はふつうに歩くときと同じように脚の動きと反対に動く。杖を持っているために腕の動きは特にゆっくりとなるが、この腕の動きは進んでゆく方向からはずれないよう、正しくおこなわれなければならない。

杖を正しく握ることは、杖を使ううえに大切なことである。杖の頭についている握りの革の輪に下から手を通し、その革が掌のところにくるように握る。革の輪は手首にぴったりくるようにする。握ってみて杖の頭がちょっと上に出るくらいが丁度よい。杖で押して歩行を助けるが、前にだした杖の石突を後にむけて前にだしたスキーの締具の近くにつく。歩くときには、胴体はできるだけゆったりとたもち軽く前に傾ける。

滑走には靴の踵がよくあがる締具が必要である。歩行と滑走のちがうところは、滑走では後脚で蹴り、杖で強く押し、前に出したスキーに乗ったままかなり長く滑る。これが歩行とちがう点である。後脚で蹴り、杖で押す前に、足首、膝、腰をいくらか折りまげて体を沈める。

これらの各関節をさっと伸ばすことによって、体重およびキックの力は前にだした脚に移される。しかし、この前脚(膝)をあまり深く折りまげてはいけない。というよりも、前脚は軽くまげてひきしめたままたもち、運動エネルギーが無駄なく滑走運動に変るようにする。脚を前に押し出すときにはかなり伸ばして、踵に荷重する感じをもつようにするのがよい。

前に滑りつづけているうちに後脚をひきつけ、さらに前にだしてつぎの一歩を踏みだしてゆく。

初めの滑走運動が終らないうちに、つぎのキック、杖の突き放し等をおこなって、なめらかに前に滑ってゆく。スキーは雪から離れないが、強く走るときにはキックするとき、スキーのテールが雪面からすこしあがる。脚で蹴るときは必ず反対側の腕で強く杖を突いて助ける。杖を押すとき、最後に手首をよくきかせる。したがって手はとくに杖を突きはなすときには杖をかたく握りしめないで、手革だけにたよって最後には親指と人差指だけで持つくらいにする。こうして、はじめてうしろに押す腕は完全に伸ばされるのである。杖は突きはなしたら横に振りまわさずに体の近くを通って前にだす。前にだした腕はさらにうしろに押すことができる。突いた杖はずっと押しつづけるが、最後には力を強めて勢よく突きはなす。走って(滑走して)いるときには、体は前にのしかかって前傾する。キックする瞬間には胴体とキックする脚は前に傾いた一直線をなし、腰(の関節)ものびて運動エネルギーが正しく直線的に移動するようにする。

キックした直後、腰(の関節)が曲っていては、この運動エネルギーを完全に使いきることができない。

スキーがあまり滑りすぎると脚の力を使ってキックをきかすことができないので、腕の負担が大きくなり疲れやすい。したがって、場合によっては適当にワックスを使って摩擦を多くすることも必要である。上り気味になるにつれて滑走する歩幅はせばまり、逆に下りになると、踏みだした一歩の滑走距離はかなり長くなる。


両杖推進


これは走っている間にさしはさんで用いたり、平地やいくぶん下り気味のところでスピードを高めるのによく用いられる推進法である。両足をそろえて、両スキーに均等に荷重する。両杖を同時に(石突を後にむけて)突くとき、体をかなりのばしたまま、グーッと前へなげたおし、膝を徐々にまげながら突いた杖で強く押しきる。このとき腰を前におしだしてゆくことも忘れてはならない。杖で押している間を、できるだけ長くする。すなわち、両腕をよくうしろにのばして最後には掌(手)を開き、手革にたよってぐっと押し切るようにする。押し切ると同時に、体は再びのび、腕は新たに体の近くを通って(横に振りだすことなく)前にだされる。杖を押し切るとともに、一方の足を踏みだすこともある。

こうして、杖を押し切るとともに一歩踏みだせば、すぐに実用性の多い「二段滑走」に移ることもできる。すなわち、歩行の要領で一歩踏みだすとともに両腕を前にだして杖をつき強く押し切り、さらに、つぎの一歩を踏みだし滑ってゆく。この二歩ないし二段滑走およびその他の滑走法、すなわち三段滑走、四段滑走等について詳しく述べるのは、長距離走法の専門技術に属するから、ここでは省く。


直登行


傾斜の緩いときには、前に踏みだしたスキーを雪面からあげずに、垂直に重みをかけて踏みつけることによって、このスキーと雪との摩擦を大きくして後すべりを防げる。これだけでは十分でなくなったら、前にだしたスキーをもちあげて(雪面から離して)、必要に応じて強くたたきつけてゆけば摩擦を強め後すべりを防げる。強く叩きつけるとともに反対側の杖で支えて一歩一歩のぼってゆく。しかし、あまり腕を使って疲れるようなときには、コースを斜めに、傾斜をゆるくとって登るか、または別の登行法(開脚登行、階段登行)を用いたほうがよい。


開脚登行


左右のスキーの先を大きく開き(後端は閉じて)エッジを立てる。斜面が急になるにつれて、スキーの先開きを大きくし、エッジングを強めてゆく。内側のエッジを立てるには、膝を内側へおしつけてゆく。足首だけをまげてエッジを立てようとしてはいけない。開脚登行をするときには、杖をよく使って体を支えることが大切であるが、この登行法は短い登行にかぎって用いらるべきである。


階段登行


階段登行は横向きになって登る方法で、スキーは最大傾斜線にたいして横にする。階段登行は、とくに狭いところで、短い、急な斜面を登るのによい。山側(上)の足を足の裏全体で踏みしめられるように、山側(上)のスキーをいくらか前にだしておくことが必要である。

山側のエッジを立ててスキーのズリ落ちを防ぐ。とくに重要なのは、膝を山側におしつけることであるが、これと同時に、谷スキーに体重をよくかけ上体を谷側にねかして調子をとることが大切である。斜面が急になり、雪がかたくなるにつれてエッジングを強めてゆく。

階段登行には杖をよく使わなければならないが、とくに谷側の杖で体をよく支えることが大切である。


斜階段登行


真横に階段登行を続けると疲れが大きいが、斜め前に進みながら階段登行をしてゆくと疲れは少ない。スキーは前と同じように水平にするか、わずかに上にむける。谷側の杖で体をうまく支えると、この斜め前への登行は楽になる。


シールを使って登る方法


長く登り続けるときにはシールを使うのが一番よい。歩き方はふつうの歩行と同じであって、シュプールをうまくつけてゆけば、それだけ無駄な力を使わないですむ。登りのよいシュプールは、変化ある複雑な斜面をいつも同じような傾斜で登っているものである。

大人数の隊を組んで登るときには、先頭の者はしんがりの者が後すべりして困らないように、緩いシュプールをつけてゆくべきである。大勢で踏んでゆくと、最後の者が通るときにはかなりつるつるに踏みかためられてしまうから、先頭の者はこれを計算に入れて、シュプールをつけてゆかねばならない。また多人数のときには、各自がのびのびと歩けるように、前の者のスキーの後端とつぎの者のスキーの先端との間を約スキーの長さくらいあけて、それ以上間隔をつめないようにする。また先頭の者は、後の者が困ることのないよう、あまり幅の狭いシュプールをつけるべきでない。登りのよいシュプールをつけるためには、地形、斜面を正しく判断することが必要であるし、急になったり、ゆるくなったりしないように常に一様の角度(傾斜)をたもって歩く感覚が必要であるから、この判断力と感覚の養成を主な目標とすべきである。


停止中の踏み換え


踏み換えのときは、向きを変えようとする方向にたいして内側のスキーを新方向に踏みだし、外側のスキーを揃えてゆく。踏み換えはスキーの後端を中心にして先を開いておこなってもよいし、またスキーの先端を中心にして後端を開いておこなってもよい。早く方向を変えるため実際には同時に二つを併用することが多い。かなり急な斜面で向きを変えるときにはキックターンを使う。もちろんキックターンは平地でも使える。


キックターン


キックターンを最も確実に、したがって特に初心者に都合よくおこなうには必ず三つの点を支持点として用いることがある。すなわち、常に左右二本のスキーで立って一方の杖を突いているか、または左右両方の杖をつき片足で立っているかするわけである。

スキーを水平にたもち平行に揃えて立って、まわる方向にたいして内側になる杖を内側スキーの後端ちかくに突き、外側の杖は外側のスキーの先端ちかくに突く。こうして二本の杖を実際に支えとして使わなければいけない。つぎに内側のスキーを膝を伸ばして爪先を上にむけて蹴りあげ、このスキーが垂直になり後端が軽く雪にささるようにする。こうして軽く雪に突いておくと、つぎに楽にこのスキーをねかして向きを変えることができる。雪面にねかし、もう一方のスキーと平行にぴったり揃える。ぐちに外側の杖を内側スキーの先端からすこし横に離して突く。さらに外側スキーを、膝をごく軽くまげ爪先を上にあげ気味にして、最初に向きをかえたスキー(内側)に平行に揃える。

斜面でキックターンをおこなうときには、最初と終りにスキーを平行におくことが絶対に必要である。また山側のスキーを蹴りあげて向きをかえたほうが、わずかながらも高さをかせげるからよい。


滑降中の踏み換え


これは滑りながら一歩ずつ横に(先開きにして)踏みだしては揃えて方向を変えてゆく方法である。これは、ゆるい斜面であまりスピードの早くないとき、あるいは斜面から平地に入ってからおこなうのが特によい。ふつうの回転を阻むような雪(例えば、ブレイカブルクラスト、--表面が凍ってカラを張って乗ると落ち込むような雪)のときには、方向変換の最も確実な方法となることがしばしばある。平地を走っているとき、おそい滑降中または斜面から平地に入ったときなどには、外側のスキーで強く蹴って滑降速度を高めることができる。一般に、この踏み換えをおこなうときには、ただ消極的に滑るのではなく、むしろ積極的に勢よく外足で蹴ってゆかなければいけない。

行い方:外側になるスキーに全体重をのせる。蹴る準備をするため、膝をまげ腰を落して低い姿勢になる。とくに足首をよくまげ脛を前におしねかせることが大切である。同時に、内側のスキーを雪面からもちあげ、スキーの先端をあげ気味にしてその先を外にむける。しかし左右二本のスキーの端後がはなれず揃っているようにする。新たにむかう方向にたいして外側のスキーの内エッジで強く押し蹴って、新方向に踏みだした内側のスキーにぐっと膝を前に押しだしながら乗ってゆく。体重のぬけた外スキーを直ちにこのおろしたスキーに体重を移しのせてゆく。外スキーで押し蹴るときに、同時に外側の杖で強く突き押すか、または両方の杖で押してスピードを高めることができる。


スケーティング


滑降速度を高めるこの方法は、主に緩斜面で用いられる。滑降中の踏み換えと同じように、足首を強くまげて一方のスキーに体重をかけ、他方のスキーを雪面からすこしあげて、そのスキーの先を適当に外にむける。つぎに体重をかけたほうのスキーの内エッジで強く蹴り、先を開いたスキーに強く、しかし短い一歩を踏みだして乗りうつる。体重のかけられたスキーで滑っている間、足首をかなり強くまげ、膝と腰を軽くまげている。蹴ったほうのスキーを直ちに雪からもちあげ、滑っているスキーにたいして鋏形にたもつ。滑りがとまらないうちに膝を内側におしつけて滑っているスキーの内側エッジに乗り、これで蹴って新たに前とは逆のほうの斜め前に踏みだしてゆく。シュプールはスケートのように杉あや模様をえがいてゆく。蹴って踏みだすたびに、一方ないしは両方の杖で押してさらに勢をつけてゆく。


最大傾斜線への踏み換え


この斜面に横に(スキーを水平にして)立っていて最大傾斜線にむかってゆく方法は、ふつう「滑りだし」といわれ、初心者もおこなうが、また上達者も背に重い荷を背負った場合におこなうものである。荷のあるとき最も確実におこなうには、山側スキーのテールを開きだす方法がよい。つまり、水平におかれている谷スキーに全体重をかけ、谷側の杖をバッケンの下方約一歩くらいのところにつく。さらに、これとならべて同じ高さのところに肩幅くらいの間をあけて山側の杖をつく。

つぎに山側のスキーを、先端を中心にテールを開きだし、最大傾斜線までむけ、体を二本の杖で支えて谷側スキーを山側スキー(下をむいている)に平行に揃えておく。二本のスキーを完全に最大傾斜線にむけるには、かなり大きく踏みかえなければならない場合もある。杖で押して滑りだす。


跳躍して滑りだす方法(最大傾斜線にむかって)


スキーを水平にして斜面に立った姿勢から、スキーを平行に揃えたまま跳躍して最大傾斜にむかうのも滑り出しの一つの方法である。谷側の杖を谷スキーの締具のうしろに突き、山側の杖を山側スキーの締具の前につき、この杖に乗り切って跳びあがり、スキーを谷へむけてゆく。



→ 直滑降




2015年12月16日水曜日

技術解説 序言 [オーストリアスキー教程1957]



[オーストリア スキー教程 1957]


P. 8


技術解説

序言

初心者の滑り方も、根本的には熟達者と同じ運動特徴を示すべきであり、初心者はただ身のこなしが未熟であるにすぎないのであるから、以下の技術解説においてもスキー術の普遍的な基礎となる技術について述べることにする。

スキーの指導組織の発達した今日、いつ、どこへ行っても原則的には同じ技術が習えるようになっていなければならない。つまり、場所が異なり、別な教師についても、初めから習いなおすことなく、直ちに、さきへ進みうるようになっていなければならない。こうしておけば、個人的な特徴はスキー生活を続けるうちに自ら現われてくる。しかし、教える事柄そのものは、たいして相違あるものであってはならない。相違ありとすれば、同じ教材を生徒に応じて、どのように、どの程度におこなわせるか、つまり適用上の相違のみでなければならない。

滑降技術の今日の発達段階の重要な特徴は --技術全体を一貫しているものだが-- 踵を意識的に外へおしだして、これを回転の原動力とする姿勢にあり、これが最も広くおこなわれている。この技術の著しい特徴となっているのは、膝を柔軟にはたらかせること、脚と(腰から下)の動きにともなって必然的に生れてくる胴体の反対運動 -すなわち、上体を回転する方向とは逆にむけること、および外傾することにある。この軽快な脚さばき、ないしは、動きによる技術(Beinspieltechnik --米国では "below the belt action" -- 腰から下の動きといっている)は初心者でも正しい指導をうけさえすれば、高度の技術をめざしている上達者と全く同じように、満足すべき成果をあげうるのである。

この脚と腰のはたらきと最も緊密に関係しているのは前傾姿勢である。前傾といっても、これは決して脚の自由な動きを束縛する、あの極端な「締具によりかかったような姿勢」のことではない。正しい前傾は、踵をおしだして回転力を正しくはたらかしうるように、スキーのテールを調子よく軽くしうる姿勢であればよい。

両脚をぴったり揃えて使うのであるから、スキーも必然的に細く揃えて操作させる。ひとたびスキーをぴったり揃えて操作することを覚えてしまえば、広く開いて滑るより遥かに安定確実である。

さらに、この脚のうごきによる技術(Beinspieltechnik)の著しい特徴は、直立に近い姿勢、立ち上り沈み込みをきわめて楽になしうる姿勢にある。自由に、しかもいとも軽快に体を動かしうる姿勢で、ほんとうに名人のような気持で滑れるのであるから、スキーを習いはじめるその日から、この理想に近づいてゆけるのである。

このように滑るには、腕の保ち方、およびその動きも調和あるものでなければならない。型にとらわれたり、わざとらしさのために自然な動きを阻まれるようであってはならないのである。

つまり、腕は体全体の動きにともなって無理なく、無駄なく、とらわれなく全体のバランスをたもつように動くべきである。

以下に述べる技術解説は、生徒の滑り方がよいか悪いかを判断するのに大いに役だつであろうし、また同時に、自分の技術を矯正してゆくうえにもよき参考となろう。



→ 歩行、滑走、方向変換




2015年12月15日火曜日

オーストリアスキー教程(1957)[目次・序言・あとがき]



オーストリア スキー教程(1957)

昭和32年12月25日発行
定価500円

編者 クルッケンハウザー
訳者 福岡孝行
発行者 相島敏夫
発行所 法政大学出版局



目次


序言

技術解説

技術解説 序言

1. 歩行、滑走、方向変換
2. 直滑降
3. 斜滑降
4. 横すべり
5. 山まわりクリスチャニア
6. プルーク、プルークボーゲン、シュテムボーゲン
7. 谷まわりクリスチャニア


指導法

Ⅰ. 基礎訓練

指導法についての一般的注意

A. 走ること
1. 滑歩
2. 滑走
3. 登り
4. 方向変換

B. 最大傾斜線の滑降
1. 直滑降
2. (ジャムプ)

C. 山まわり回転(クリスチャニア)
1. 斜滑降
2. 横すべり
3. 山まわりクリスチャニア

D. ボーゲン
1. プルーク
2. プルークボーゲン
3. シュテムボーゲン

E. シュテムクリスチャニア
1. 山まわりシュテムクリスチャニア
2. 谷まわりシュテムクリスチャニアの基本型


Ⅱ. 仕上げ

仕上げについての一般的注意

A. つぎのことを磨き上げ洗練してゆく
1. 滑走と登行
2. 直滑降とジャムプ
3. 斜滑降
4. 横すべり
5. 山まわり(停止)クリスチャニア

B. 谷まわりクリスチャニア
1. シュテムクリスチャニア(開き出しが少ない)
2. 純粋クリスチャニア
3. 連続小まわりクリスチャニア、Kurzschwingen "Wedeln"

C. 山地滑降の基礎として大抵抗雪においてクリスチャニアとボーゲンをおこなう


学校におけるスキー教育
学校体育の一般教程からの抜粋(スキー)
学校スキー講習 基本要綱
学校スキー講習 告示補足

用語解説

訳者あとがき






P. 3

オーストリア スキー教程

本書はオーストリア職業スキー教師連盟の手によって出版されたものであるが、以下の諸団体の緊密な協力を得た。

文部省スポーツ局および学校体育局ウィーン、インスブルック
およびグラーツの各大学体育研究所

国立スキー教師養成所およびスキー教師国家試験委員

オーストリアスキー連盟

シュタイエマルク職業スキー教師連合

オーストリアスポーツ教師連合スキー部



P. 4

本書の普通写真、連続写真、図の構成は、アールベルク・サン、クリストフのシュテファン・クルツケンハウザー教授の手になるものである。

写真はライカM3、連続写真は手持スタンダードカメラで撮影された。二つのカメラには、ライツの長焦点レンズ(Hektor 13.5cm, Telyt 20cm)のみを用いた。フィルムはシュロイスナーの Adox Kb 17 のみを用いた。



P. 5〜6

序言

ものごとを教える場合、その指導法は教育目標によって明確に定められるものである。したがって、スキー技術がつねに教授法のうちにはっきりした形をとって現れているのもまた、当然のことといわねばなるまい。山岳滑降技術は、最近10年間にとくに活発な高度の発達をとげたが、オーストリアはこの発達に大きな役割を果してきたし、また、今日なお演じつつある。かかる発達と平行して、われわれの間では多くの団体が、スキー技術の新しい成果と指導法の調整をめざして努力し、ついにこれに成功した。しかしながら、これらは世間で往々誤りいわれるように、スキーの指導法が競技に同調したのではない。

つまり、これは、スキー技術について最近はっきり認められた幾多の事柄の本質を吟味し、検討して、これを初心者の指導にも適用し、初心者の指導から上達者の指導、さらにまた第一線級の訓練にいたるまで、首尾一貫した指導法の筋を通すことを肯定し要求したにすぎないのである。

この「オーストリア スキー教程」は、オーストリア各地のスキー学校、スキー教師養成所、職業スキー教師連盟、スキー連盟および体育、スポーツの各団体、とくにオーストリアのすべての学校におけるスキー教育において、数年間にわたる試行と討議の結果まとめあげられた指導法である。とくに学校において、かかる試みをなしえたのは、文部省が多大の便宜と援助をあたえ、青少年のスキーに大きな基盤をつくってくれたおかげである。



この「オーストリア スキー教程」はつぎの各団体の代表者
すなわち

オーストリア職業スキー教師連盟
文部省スポーツ局および学校体育局
ウィーン、インスブルック、グラーツ各大学体育研究所
国立スキー学校養成所およびスキー教師国家試験委員会
オーストリア スキー連盟
シュタイエルマルク職業スキー教師連合
オーストリア スポーツ教師連盟スキー部

等の代表者たちの長期にわたる詳細な専門的な協同研究の結果うまれたものである。



自由職業スキー教師の代表者(H. Bratschko, R. Matt, R. Rossmann, F. Schneider, T. Seelos, T. Schwabl)等の協力によってオーストリアのすべての「スキー学校」におけるスキー指導の最も重要な基礎を確立した。文部省スポーツ局のスキー部長(Fr. Ritschel 教授)の協力を得て体育およびスポーツ団体のスキー指導にあたる人々の専門的な意見を漏れなく徴しえた。オーストリア スキー連盟の指導部(F. Wolfgang 教授)および同連盟の指導法の担当者(H. Lager 教授)の協力によりオーストリアの競技スキーの専門団体(オーストリア スキー連盟)の指導に関する意見をいれることができた。文部省学校体育局長(省参事官 F. Zdarsky)ならびにウィーン、インスブルックおよびグラーツの各大学体育研究所の主任(講師 Dr. H. Groll, St. Kruckenhauser 教授)の協力により、学校ならびに国立スキー教師養成所におけるスキー教育の経験と要求を完全に考慮することができた。



このようにスキー指導の主要な地位にある者すべての協力を得て、スキー学校および一般学校における、スキー指導の統一ある教程はうまれたのである。

オーストリア職業スキー教師連盟は出版の担当者として本教程をまとめあげるために協力努力してくれたすべての人々に感謝を捧げる。ことに E. Koller 教授および H. Lager 教授には、技術解説をまとめあげた労にたいして感謝を捧げる。また指導方法をまとめ、技術解説の結論をまとめる仕事に加わり、さらにまた写真および図の構成、配列、ならびに印刷についてもお骨折りを願った St. Kruckenhauser 教授にはとくに感謝しなければならない。

文部省にたいして、オーストリア職業スキー教師連盟はその大規模な財政的援助に感謝するものである。この援助があったればこそ、本教程を刊行しうるのである。


ルディー・マット
オーストリア職業スキー教師連盟会長



P. 120〜122

あとがきに代えて

昨年の暮れにルディー・マット氏から、刷り上がったばかりの表紙もついていない「オーストリアスキー教程」が私の手もとに届いた。オーストリアは長い沈黙をやぶってついに統一技術をまとめ上げたのである。その前年1955年の春ヴァル・ディゼールでおこなわれた国際スキー指導者会議で同国は世界のスキーヤーの前にこの技術を公開し注目をひいた。欧米でセンセイショナルに迎えられたのに、わがスキー界は冷静であったというより無関心であったといったほうがよかった。

私はさきに「今日のスキー」を、そして戦後直ちに「自然なスキー」を紹介した。そのときすでに、私はスキー術はいよいよ完成期に入って、将来はただその細部において洗練され磨きがかけられるにすぎないと予言めいたことを書いた。いや予言というよりもそれが私のスキー技術遍歴のはて行きついた結論であり、実感であった。こんどマット氏から送られた本教程を見てあまりにも近いので、というより、全く一致しているといってもよいほどなので、かえってはっと思ったくらいだ。教程の練習法の主だったものは、かつてローティションスキーヤーであった私が、外傾技術に宗旨変えするときにさんざん苦しんで、思案のあげく考えだしたものと全く同じであるのでかえって驚き入った次第だった。このような、私にとってはこの教程の出現はむしろ遅きにすぎるという印象が強い。

私が外傾スキー術を守りつづけたのは、わが国が地理的に離れていることがかえって乱されずに冷静に考え観察する条件となったからといえるかもしれない。すでに昭和15年に「今日のスキー」を訳出した際に、「欧州スキー界の動向」として同書の付録に書いたことと重複するとも思うが、その間には17年もの年月が流れているので、いかにスキー技術の変わり方を見わたして正しい理解の助けにしたいと思う。

ツダールスキーが、いわゆる山岳技術を確立して以来、ビルゲリー・シュナイダーの系列はシュテムボーゲンとシュテムクリスチャニアの二つの回転を確立した。第一次大戦から1930年の約10年間はもっぱらこの二つの回転が山岳スキー術の核心をなすものとされた。当時のシュテムクリスチャニアは、1)シュテム(プルーク)、2)体重の移動、3)ローテイションの三つが特徴となっていた。さらに体重の移動は、立ち上り抜重によって助けられた。いわゆるホッケといって低い姿勢が格好の基本姿勢であったので、この立ち上り抜重は低−高−低の動きとなって現われ、立ち上ってから沈みこむときに、体重の移しかえと回転方向へのひねりこみ、すなわちローティションが必要であるとされた。しかし、実際にはそれほど強くは現われなかった。

1936年のオリムピックには滑降回転が正式種目として採用されたが、1930年からオリムピックまでの数年間にスキー術は急激に普及と発達をとげた。1936年頃は直滑降−斜滑降、プルーク−プルークボーゲン、シュテムボーゲン、シュテムクリスチャニアが一般には考えられた。しかし、プルークとシュテムボーゲンがその基礎であった。1936年を中心としてその前後数年間は大きな変動をはらんだ時期であった。

まずドクター・ホシェックとフリードル・ヴォルフガンク(現オーストリアスキー連盟指導部長)はプルークやシュテムを経ずに、斜滑降から「直接クリスチャニア」へ導入する方法を唱えた。まず山まわりを教え、直ちに谷まわりへ導くというのである。スキーをパラレルにしているので、彼らは強いローティションと立ち上り抜重によらざるを得なかった。まだゼーロースはまた立ち上り抜重とローティションと強い前傾のいわゆるゼーロース・シュヴングで幾多の勝利を占めた。

ローティションと前傾、立ち上り抜重の回転がほとんど決定的な地位を占めたかのごとく思われたときもとき、二冊の本が現われた。トニイ・ドゥチア、クルト・ラインルの「今日のスキー」とミュンヘン大学教授オイゲン・マティアスとサンモリッツのスキー学校長ジョヴァンニ・テスタの「自然なスキー」がこれである。前者は招かれてフランススキー学校で指導していたティロール出のひとびとであり、後者は運動生理学者としてスキーの骨折、捻挫等の傷害の研究の結果と実践との結実である。

両者はたがいに相識ることなく、全く別の道を歩んだにもかかわらず、その主張するところは期せずして「ひねりを排除し」、外傾技術を正しいとする点で一致していた。そしてまた、プルーク、シュテムと同時に、斜滑降から直接クリスチャニアに導入するという点で一致していた。一方フランスはドゥチア、ラインルから教わったものを排し、「ローティションと沈み込み」の技法をフランス独自のものとして打ち出した。が実際には、ゼーロースの影響を多分にもつものであった。

ひねるかひねらないか? パラレルかシュテムか? 当時われわれは全くこれらの問題になやんだ。私の場合、重い荷を背負った滑降やかたいバーンの滑降の実際的経験が長い間なじんだローティションを捨て、外傾をとるべきことを教えてくれた。

1937年12月はじめにアールベルクのサン・クリストフでオーストラのスキー教授法について会議がおこなわれた。これには当時健在だったハンネス・シュナイダーはじめ、トニイ・ドゥチア、クルト・ラインル、ホシェック、フリードル、アマンスハウザー等々いわゆるスキープロフェッサー連が集まってスキー教師の国家試験および教授法について問題をわれわれのものだけにしぼると、協議がおこなわれた。ひねるかひねらないかについては、ひねり、すなわちローティションがすてられ、たとえまわし込むにしても斜滑降姿勢、外傾が限度とされた。斜滑降から直接クリスチャニアへ導入する方法も論議にのぼったが、これはジャムプターンからテムポシュヴンクへ進む方法とともに全体に統一をもたせて教授するため、および限られた時間に効果をあげるために採用されずに終った。ともかくも、体のまわし込みは否定されたのである。

これと時を同じくしてスイスでも会議が開かれ、「自然なスキー」に統一された。またドイツでも統一的機運が動いたが、「ローティション是か非か」については明らかな線は打ち出されなかった。

ここまでは接触をたもってきたが、世界をあげての戦争はこの決定的な問題の発展を完全に停止してしまった。もう少しつづければはっきりした結論に到達しえたであろう問題はそのまま忘れられたかにみえた。

敗戦国オーストリアでは、例えばサン・アントンのごとき大スキー場はすべてフランス人の占領下にあった。アールベルクはフランスの第一線選手と優れたスキー教師によって独占された。彼らの大部分は兵役を免除されて、レイサーの訓練に当っていた。二シーズンにわたって地元オーストリア人はいやというほど、フランスの技術とその教授法を見せつけられた。これはオーストリア人にとってはフランスの技術を学ぶ稀に見る機会となった。しかもフランス人によって書かれた数多くの著書がさらにこの研究を助けた。1949年まではほとんどすべての大競技はフランス人の手中におさめられていった。

ここでオーストリア人をとらえた問題が二つあった。第一は、はたしてフランス人の宣伝どおりその技術が勝利の原因かどうか。第二に、直ちにクリスチャニアに導入する教授方法の是非がそれであった。彼らは徹底的にこの問題と取り組み、根本から検討しはじめた。結論はしかし再び、シュテムクリスチャニアはスキー教授法の中心に立つというのであった。この結論はオーストリア人を勇気づけた。戦争のブランクはうまった。

彼らの最初の仕事はシュテムシュヴンク(クリスチャニア)を完成することにあった。シュテムシュヴンクはパラレルシュヴンクへ進むさまたげには決してならない。しかし彼らの考え方は戦前のものと全く同じだとはいえない。本教程にも明らかなように、彼らの教授法は大別すると二つからなりたっている。その一つは、前への横すべりであり、もう一つは、シュテムボーゲンとシュテムクリスチャニアである。たしかに、斜滑降から山まわりクリスチャニアはわりにやさしい。しかし、いざ谷まわりになると決して簡単ではない。彼らはここにシュテムを使うのだ。スキーの先を谷へむけてゆくにはシュテムが絶対に楽なのである。斜滑降−横すべり−山まわりクリスチャニアの系列とシュテムボーゲンとを合わせれば、シュテムクリスチャニアができる。そして、このシュテムをなくしてパラレルにしてゆくのである。したがって、かつてのシュテムボーゲンの位置にこの教程ではシュテムクリスチャニアがおかれている。

以上を通じてみると、敗戦によってフランスの横すべりによる指導法をいやというほど見せつけられ、自分たちもそれを試みる機会をあたえられたことが本教程の成立に大きな影響をあたえていることは見のがしてはならない事実である。しかもフランスでもグルノーブル大学のコーチ、ジョルジュ・ジュベールによって外傾技術がとりあげられ、従来のフランスの教義にそむいて「1957年のスキー」が出された。いよいよ同じ技術で競う時代に入ったとみてよい。陸上競技のように、トレイニングの方法のよし悪しが優劣をきめる段階に入ったのである。戦争によって中断されたスキー術の完成期はいよいよきたのである。

もう一つ忘れてはならないのは、戦争中おさえられていたリフトやケーブルカーの著しい進歩と普及である。これらの設備とこれの利用によって生まれたコブだらけのしかも滑りまくられたピステがスキー術に大きな影響をあたえているのである。進歩は四倍になったともいわれている。逆にいえば、いわば自然発生的にピステが現在の技術を生んだともいえるであろう。オーストリアが技術で勝ったとはっきり知ったのは、面白いことにトニイ・シュピースとクリスチャン・プラウダの決定的勝利以来のことである。「ゴムのようなシュピース」の技術は高速度撮影によって徹底的に観察され研究されて、しばらく忘れられていたウェーデルンということばがよびだされた。彼らの競技における成功の鍵はウェーデルンにあることはたしかだが、まず一般は基礎から着実につみかさねてゆくべきである。

本教程は出版されると国際的反響をよんで、アメリカをはじめ幾多の国々で翻訳が企てられ、ドイツはすでにこれにならって指導書をまとめあげ、スイスはかつての「自然なスキー」のように論議を重ねている。フランスはすでにのべた通りである。これらの競争のなかで比較的早くわれわれのものとなしえたのは、第一にルディ・マット氏の好意によるものであり、また「一体どこからこんなに詳しいことを手に入れたのだ。われわれは”今日のスキー”と”自然なスキー”が築いてくれた基礎の上に築きあげたのだから、「お前がこの教程を訳すのは宿命だ…」と快諾をあたえてくれたオットー・ミュラー書店とクルッケンハウザー教授の理解に対しても感謝しなければならない。

「今日のスキー」や「自然なスキー」と同じように、今回も燕温泉の笹川速雄氏と細野の大谷定雄氏のところで訳すことができたのは幸いであった。また中山久先生は、かつて「日本はひねっている」の一文を草して外傾技術をはじめて紹介され、当時すでに今日あることを洞察されたが、この教程の出現は、その体系的原則の把握の正しさを証するに十分である。またスキー仲間の明石和彦、有馬頼興両兄をはじめ、多くの悪友良友が早くしろといっては滑りに出ていったのも忘れられない思い出である。とくに顔、加瀬両君には清書から校正まで世話をかけてしまった。相島さんにはアメリカとの写真のとり合いで気をもませてしまった。あわせ記して心からの謝意をのべた。

ただかえすがえすも残念なのは、今日まで私を導いてくださった池田秀一氏と笹川速雄氏が相ついで他界されたことである。いつまでも私たちの心に生きる両氏に、つつしんでこのささやかな訳書を捧げる。


1957年12月12日
恩師笹川速雄氏の訃報に接した夜
訳者


訳者(福岡孝行)略歴

1913年 東京に生まれる
1941年 東京大学文学部言語学科卒

法政大学助教授
全日本スキー連盟指導員
大町山岳博物館顧問

主要訳著書
「シュプール」(登山とスキー社)
「今日のスキー」(登山とスキー社)
「自然なスキー」(小笠原書房)
「正しいスキー」(湖山社)

映画
「スキーの寵児」製作




2015年10月13日火曜日

「人の生は落胆にあふれている」 [フリチョフ・ナンセン]



話:フリチョフ・ナンセン





 食事も終わった。雪原を遠くまではっきりと見通すためには、日没時に合わせて稜線に上がるのがいちばん良いのだが、それに間に合うためにはグズグズしていいられない。食事と休憩によって体力も回復したので、私たちは出発した。

 雪質は悪くなっていった。雪の上には、ここ数日の霜のせいで薄氷が張っていて、体力をたちまち奪い去ってゆく。足を載せると容赦なく割れ、抜こうとすると踝(くるぶし)にまとわりつく。体力に自信のある者ですら根を上げる種類の雪だ。足をまったく鍛えていなかった私たちは、ひどく疲れていた。浮氷にボートを上げて少し引っ張るという作業以外、たいした運動をしていないのだから。

 しかし、くじけている場合ではない。雨と悪天が迫っているような雲行きなので、できるだけ早く稜線に着かねばならない。すでにそのあたりの空は不吉な灰色でどんよりとしている。私とスヴェルドルップは歩く速度を倍増して、めげずに進んだ。遅くなって何も見えず、山の上で翌日まで待つのも、また登り直すのも馬鹿らしい。

 ペースを早め、歩幅も大きくしたのだが、スヴェルドルップにはこれがこたえたようだった。足が短い彼にとって、雪の中で私がつけた足跡を同じようにたどって歩くのは大変な負担だったのである。「あなたが履いているのは、アーサー王の魔法の靴か」と、苦しまぎれの悪口も出ようというものだ。



 あそこまで行けば到着だと願い、着けばまだ上り坂が続くという繰り返しの末、私たちはついに尾根の頂に到着した。しかし、なんということだろう、”人の生は落胆にあふれている”。ひとつ頂に着くと、その先には視界をさえぎる別の山がそびえているものだ。実際、そのとおりの状況だった。

 進まねばならない。この小探検の目的は、先の氷の状態を確かめることだからである。きょう歩いた15kmほどの距離のなかで、雪の状態が最悪の部分をすでに通過したことは間違いないと思われるのだが、先に何があるかは判らない。目の前に出現したもう一つの尾根に登るべく、私たちはできるかぎりの速さで進んだ。クレバスは多そうだが、行く手を阻むほどのものではない。

 目の前の急坂を登りはじめたとき、小雨が降り出した。雪質は悪くなり、膝まで沈みこむようになった。雨と霧は、好き勝手に人を痛めつける。疲れてきた私たちは、ひんぱんに休憩を取らなければならなかった。しかし今度は間違いない。雨が上がりさえすれば、内陸をよく見通すことができるだろう。すでにすこし視界は開けはじめ、これまで姿を現していなかった山の頂も見えるようになった。私たちは、意気も新たに前進を続けた。



 やがて、ついに山頂に到達。苦労と試練は報われた。純白の雪原が、目の前に壮大に広がっている。雨は微細な霧のような形で降りつづけているが、遠くの風景の細部を観察できないほどではない。地平線に至るまで滑らかで、亀裂はないようだ。

 それは予想どおりであるが、思ってもみなかったのは大小のヌナタク(氷床から頂部のみが突き出た山や丘)の数であり、内陸へ向けて雪原のあちこちから突き出している。多くは雪を乗せて白いが、崖や裂け目から岩がむき出しになっているものもあり、単調な白の背景と鋭いコントラストとなって、歓迎すべき目安である。

 最も遠い山頂までは、40〜50kmと推定した。そこまで行くには何日もかかるだろう。傾斜は見渡すかぎり均一でゆるやかだが、私たちが今日体験したとおり、雪の状態は厳しいだろう。最後はとりわけ難所だった。夜が寒くならないようだと、見通しが明るいとはいえない。気圧計によると、ここは海抜1,200mほどなので、あと何百メートルか高さを稼げば、少なくとも夜は氷点下になる。グリーンランドの内陸で、さらに寒さを求めるという哀れな者たち、それが我らである。







出典:フリチョフ・ナンセン『グリーンランド初横断』

2015年6月19日金曜日

「今日は厄日だ」[マタギのなかのマタギ]



話:米田一彦


 数あるマタギのうちでも、”マタギのなかのマタギ”と誉れ高い、秋田県阿仁(あに)町の打当(うつとう)マタギと比立内(ひたちない)マタギのクマの巻き狩りについていった。



 金池森の頂上を超えると天狗ノ又沢が深く大きな口を開けていた。マチバ(射手)は5kmを越える長い尾根に散らばり、勢子(せこ)がクマを追い上げてくるのを待った。待つこと2時間、太陽は真上に来て、紫外線に満ちた光線を降り注いでいる。

 ついに300mほど離れたヤセ尾根の頂上にクマが現れた。その100m下にもう一頭が斜面を登ってくる。どちらのクマも越冬中に体の脂肪を使いつくし、黒光りする皮がたるんで、ぶよんぶよんと走っている。

「まるでクマのアパートだんべ」

 ふつうマタギは猟の間は寡黙を通すが、隣りにいたマタギは珍しく愛想がよい。マチバ(射手)が鉄砲を撃ち始めた。だが転ぶクマはおらず、右往左往して走り回っている。結局、夕方までに5頭のクマが追い出されたのに、一頭も収穫がなかった。マタギたちは、見たことがないほどしょげ返っていた。

「今日は厄日だ、街で祝儀(結婚式)があったがらな」

と嘆いた。







 四月の終わりに、打当(うつとう)マタギたちと彼らの最大の猟場である岩井ノ又沢でのクマ狩りに行った。

 10時20分。ズッバーンと銃声が響いた。シカリ(頭領)が追い出されたクマを撃ったのだ。クマは猛然と振りかぶり、自分の腰のあたりにかみついた。クマは打撃を受けた箇所にかみつく習性があるのだ。腰はすでに血で赤く染まっている。やがてくるくると赤い円を描きながら、斜面を滑り落ちていった。

 シカリが靴のかかとを堅雪に滑らせて、猛烈な速さで下りていった。谷底でクマはおびただしい血の上に横たわっていた。シカリは体を傾(かし)げてクマをのぞき込んだ。

「もはや、コド切れている」

 その声に、ほかのマタギたちも手に持った木の枝を雪に突き刺しながら斜面を滑り、集まってきた。マタギたちは、このときに至っても言葉は発しない。しかし彼らが喜んでいることは充分伝わってきた。

「二十五 貫(94kg)はあるべぉ」

と、これから儀式を行う長老が言った。四人の男がクマの両手足を持って頭を北に向けた。長老が姿勢を正す。彼は右手にクロモジの小枝を持ち、クマの魂を鎮める言葉を唱えた。そして貴重な授かり物であるクマノイ(胆嚢のこと)を切り取ると、天に捧げ持った。

「米田さん、見なせ、あれがお宝様だ」

シカリ(頭領)は厳粛な眼差しを私に向け、話を続けた」

「おらドたくさんはいらね。毎年三頭もあればエエ。クマがいねぐなったら寂しいし、クマ狩りはおらドの最高の楽しみだ」

「おらドは脳ミソも内臓も食うし、血も干して食う。おらドはクマに生かされでいると思う。ありがてごどだ。ほら、アンダさも肉の分け前だ」

と私にもふたつかみほどの肉片をくれた。



 縁起を担ぐマタギたちはたくさんのタブーをいまも守っている。結婚や出産などの祝い事はだめで、当事者はしばらく狩りに参加できない。とくに女性とかかわる内容は嫌われる。山の神様は女性で、嫉妬するからだそうだ。反対に法事は縁起がよいとされている。日々の行動にもさまざまな戒め事があり、なかには「留守中に豆を煎ってはいけない、はじけて雪崩になる」などというものもある。

 いまでも掟を守って狩りをしている彼らを、古くさいと笑うのは簡単だが、

「逃げたものは追うな」

「クマは授かり物だ」

などという素朴な考え方は、獲物は毎年少しずつしか捕らないという保護思想でもあるのだ。私の心にはやさしく響く言葉だ。





引用:米田一彦『山でクマに会う方法 (ヤマケイ文庫)




クマ撃退スプレーのトウガラシ臭 [米田一彦]



話:米田一彦


 私はこれまでに1,000回以上クマに会っている。そして8回襲われた。いずれも重大事故にはならなかったのは、経験によってクマの動きが読めたからだ。クマはむやみに人を襲うことはないが、さりとてカワイイぬいぐるみでもない。



 今年は暖冬だった。クマたちはすでに動きが活発になっているはずだ。雄グマのアトラスの越冬場所の記録を取るためひとりで山に入った。雪は暖かさでざくざくに腐り、足を取られる。ヤブも難儀だ。

 受信音を頼りに越冬穴を探す。雪のない小さな尾根からひょいと顔を出すと、5mほど先の切り株の下からアトラスが顔を出していた。足音や受信音ですでに私の接近に気がついていたらしい。アトラスは私をにらんでいた。しまった、近すぎた。

 私はずるっと転げ逃げたが、ヤブのつる植物に体を巻かれてクモの網にかかった虫同然である。意を決してクマ撃退スプレーをアトラスに向けた。アトラスが、フオーと息を荒げて向かってきた。あと3mだ。一瞬、アトラスを捕まえるときに手こずった記憶がよみがえった。


 


 スプレーのレバーを押した。黄色い液がほとばしり、アトラスの顔を直撃する。彼のスピードが少し落ちた。私はそのとき不思議なくらい落ち着いていた。スプレーを両手で固定し、噴射を続けた。残雪もアトラスも黄色に染まっていく。周囲はトウガラシの匂いで満ち、私ののど、鼻、目など、あらゆる粘膜が悲鳴を上げた。

 アトラスが攻撃を止めた。絞り出すようにウッオーンと叫び、前足で顔をぬぐった。そして、くるりと体をひねると、残雪をけ散らしながら、斜面を走り去った。

 しばらくすると足ががたがた震え出した。のども目も鼻もひりひりする。ヤブを抜けると、私はアトラスに負けないほどの速さで斜面を転げ走った(1990年4月5日 秋田県大平山)





引用:米田一彦『山でクマに会う方法 (ヤマケイ文庫)


2015年6月18日木曜日

フランスの国立スキー登山学校 [ブリュノ・スーザック]



〜『岳人』2015年6月号より〜


 近代アルピニズム発祥の地、フランス・シャモニから、ENSA(ECOLE NATIONAL DE SKI ET D'ALPINISME)の現役教官、ブリュノ・スーザック氏が来日した。ENSAとは、フランスの国立スキー登山学校のことであり、山岳ガイドやスキーパトロールといった山岳スポーツのプロフェッショナルを育成する機関だ。



 ブリュノ・スーザック氏は、20年余りにわたって、ENSA(フランス国立スキー登山学校)の教官として数多くのガイドを育て、かつアルピニストとしてパタゴニアなどで多くの先鋭的な登攀に成功してきた。

 そもそもENSAとは一体どのような組織なのだろうか。

ブリュノ「フランスには国立のスポーツ学校が4つあります。乗馬、ダイビング、ヨット、そしてスキー登山学校(ENSA)です」

 国の機関がスポーツの振興のために学校を運営することは、日本人には馴染みがないだろう。フランスには世界各国の中で、スポーツ政策をリードしている国である。1963年に青少年・スポーツ庁ができ、2010年にはスポーツ省として独立し、国民のスポーツ振興を司っている。ENSA(スキー登山学校)もスポーツ省管轄の団体になる。しかしこの4つのスポーツはいわゆる代表的な競技スポーツでないところが面白い。

ブリュノ「ENSAは山岳スポーツを教える機関ではありません。山岳スポーツのプロフェッショナルを育成し審査する機関です。生徒たちは入学する時点で、すでに様々なスキルを身につけていなければなりません。入校するには、厳しい基準の山行記録審査を通過し、入学テストに合格しなければなりません。事前にテストを設けることにより、私たちは生徒に対し、プロフェッショナルとして要求される技術、すなわちガイディング技術から教えることができるのです」






 人生の大半を、一貫して山と向き合い仕事としてきたブリュノ氏。フランスで山岳ガイドになるということは、”趣味が高じて”などという生易しいものではない。あくまでもプロフェッショナルとして仕事をこなす態度がうかがえる。

ブリュノ「シャモニ谷でガイドとして暮らし、長いキャリアを築くのは容易なことではありません。4年前、私は兄を山で亡くしました。それ以来、山に対する考えが変わってきました。リスクというものに対する考えも変わりました。シャモニ谷では4ヶ月にひとりの割合で、ガイドが山で亡くなっていくのです。落石、滑落、雪崩など、原因は様々です」

 フレンチ・アルプスでは毎年30人ほどの登山者が命を落とすという。

ブリュノ「自分の子供にガイドになってもらいたいか、と聞かれたら、ノーと答えますね」







 3度の来日を果たしているブリュノ氏に、日本と日本の山の印象についてうかがった。

ブリュノ「フランスと日本の国土は正反対です。フランスは国土の70%が平野で30%が山岳地帯です。アルプス山脈は国土の30%しかないのです。日本はどうでしょう。70%が山岳地帯だと聞いています。これは、山岳スポーツとそれを楽しむ登山者の潜在的な需要がもっとある、ということです」

 訪日外国人がイメージする日本は、いかにも東南アジア的な水田地帯の風景だという。スキーのために白馬を訪れた外国人が発する代表的な言葉は「まさか日本にこんなに大きな山があるとは知らなかったよ」だ。

ブリュノ「私から見て、実にもったいないという思いがあります。一例をあげれば、スキーです。今回私は山岳スキーの技術と雪や雪崩の講習のために来ました。北海道ではミックスクライミングを、白馬では極上のスキーを楽しみました。しかし(日本人の)講習生のほとんどがクライマーだったためか、スキーの技術はクライミングの技術に比べて充実しているとは言えませんでした。それでも、日本の雪は世界で最高クラスといえるでしょう。フランスやカナダにも雪はあります。ただ、日本ほど質のよい雪が降るところは世界中をみても、多くはありません。そんな環境があるのに、それを十分に活かしきれていない、という感じがしました。私が接したのは日本のごく一部に過ぎませんが、日本の方々には、その素晴らしさと可能性に、もっと気づいてもらいたいと思いました」






抜粋引用:岳人 2015年 06 月号 [雑誌]
岳人プロファイル 山と生きる人の今
ENSA教官ブリュノ・スーザック(Bruno Sourzac)

2015年6月15日月曜日

山中の幻覚・幻視



〜2015『岳人』7月号より〜




 富山湾を出発し、北・中央・南アルプスの名だたるピークのほぼすべてをたどり、駿河湾に至る、日本アルプス縦走のフルコース。そんなコースを舞台に、2年に一度、日本一過酷といわれる山岳レース「トランス・ジャパン・アルプスレース」が開催される。移動総距離は415km、制限時間は8時間。






 レース中の睡眠時間は毎日3時間程度といった選手も少なくない。3日目を過ぎると、かなり疲労が蓄積してくる。レースが後半に差し掛かり、疲労がピークに達すると、多くの出場者は幻聴や幻視に悩まされる。レースの名前はそちらの「トランス(変性意識状態)」の意味ではないかと口走る出場者もいるほどだ。具体的な体験では、

「女性パーティの話し声や、ラジオの野球中継が聞こえる」

といった比較的ライトなものから

「ないはずの山小屋」
「石や木に人の顔やお経が浮かんで見える」
「隣を女子高生が歩いている」

という重度のものまで、出場者たちの「あるある」として口々に語られている。こうした幻覚は、疲労が溜まる夕方や夜間、岩稜や樹林帯など単調な景色の中、会話もなく単独行に近い状態など、「脳にとって低刺激の環境下」で起きやすいという。脳科学の分野では、脳の防衛本能の働きとして知られている事例だ。脳は極度に疲労した状態になると、岩のくぼみや茂みの音といった小さな要素からも、自分の期待する架空の像や音を拾い出すと考えている。






引用:『岳人』2015年7月号
「日本一過酷な山岳レース」出場者に学ぶ




2015年5月20日水曜日

何とかという蔓と何とかという木 [若山牧水]



話:若山牧水




「ホラ、彼処(あそこ)にちょっぴり青いものが見ゆるずら…」

 老案内者は突然語り出した。指された遥かの渓間には、渓間だけに雑木もあると見え、色濃く紅葉していた。その紅葉の寒げに続いている渓間のひと所に、なるほど、ちょっぴり青いものが見えていた。

「あれは中津川村の大根畑だ」

 と老爺はうなずいて、其処(そこ)の伝説を語った。こうした深い渓間だけに、初め其処に人の住んでいる事を世間は知らなかった。ところが折々この渓奥から椀のかけらや、 箭(や)の折れたのが流れ出して来る。サテは豊臣の残党でも隠れひそんでいるのであろうと、丁度(ちょうど)江戸幕府の初めの頃で、所の代官が討手(うつて)に向うた。そして其処の何十人かの男女を何とかという蔓(かずら)で、何とかという木にくくってしまった。そして段々検(しら)べてみると同じ残党でも鎌倉の落武者の後である事が解って、蔓を解いた。其処の土民はそれ以来その蔓とその木とを恨み、一切この渓間より根を断つべしと念じた。そして今では一本としてその木とその蔓とを其処に見出せないのだそうである。





引用:若山牧水『新編 みなかみ紀行 (岩波文庫)




2015年5月19日火曜日

木枯と笑い茸 [若山牧水]



話:若山牧水




 夕方から凄まじい木枯が吹き出した。宿屋の新築の別館の二階に我らは陣取ったのであったが、たびたびその二階の揺れるのを感じた。


隙間洩(も)る木枯の風寒くして酒の匂ひぞ部屋に揺れたつ




 夜っぴての木枯であった。皆よく眠っていた。わたしは端で窓の下、それからずらりと五人の床が並んでいるのである。その木枯が今朝までも吹き通していたのである。そして木の葉ばかりを吹きつける雨戸の音でないと思うて聴いていたのであったが、果たして細かな雨まで降っていた。

 午前中をば膝せり合せて炬燵(こたつ)に齧りついて過した。昼すぎ、風はいよいよひどいが、雨はあがった。他の四君は茸(きのこ)とりにとて出かけ、わたしは今日どうしても松本まで帰らねばならぬという高橋君を送って湖畔を歩いた。ひどい風であり、ひどい落ち葉である。別れてゆく友のうしろ姿など忽(たちま)ち落葉の渦に包まれてしまった。


はるけくも昇りたるかな木枯にうづまきのぼる落葉の渦は


 茸は不漁であったらしいが、何処からか彼らは青首の鴨を見附けて来た。山の芋をも提(さ)げて来た。善哉(ぜんざい)々々と今宵も早く戸をしめて円陣を作った。宵かけてまた時雨(しぐれ)、風もいよいよ烈(はげ)しい。

 どうした調子のはずみであったか、我も知らずひとにも解らぬが、ふとした事から我らは一斉に笑い出した。 甲笑い乙応じ、丙丁戌みな一緒になって笑いくずれたのである。それが僅かの時間でなく、絶えつ続きつ一時間以上も笑い続けたであろう。あまり笑うので女中が見に来て笑いこけ、それを叱りに来た内儀までが廊下に突っ伏して笑いころがるという始末であった。たべた茸の中に笑い茸でも混っていたのかしれない。


ひと言を誰かいふただち可笑(おか)しさのたねとなりゆく今宵のまどゐ

木枯の吹くぞと一人たまたまに耳をたつるも可笑しき今宵

笑ひこけて臍(へそ)の痛むと一人いふわれも痛むと泣きつつぞ言ふ

笑ひ泣く鼻のへこみのふくらみの可笑しいかなやとてみな笑ひ泣く




 相も変らぬ凄(すさま)じい木枯である。宿の二階から見ていると湖の岸の森から吹きあげた落葉は凄じい渦を作って忽(たちま)ちにこの小さな湖を掩(おお)い、水面をかくしてしまうのである。それに混って折々樫鳥(かしどり)までが吹き飛ばされて来た。そしてたまたま風が止(や)んだと見ると湖水の面(おもて)にはいちめんに真新しい黄色の落葉が散らばり浮いているのであった。落葉は楢(なら)が多かった。


木枯の過ぎぬあとの湖をまひ渡る鳥は樫鳥かあはれ

声ばかり鋭き鳥の樫鳥ののろのろまひて風に吹かるる

樫鳥の羽根の下羽の濃むらさき風に吹かれて見えたるあはれ








引用:若山牧水『新編 みなかみ紀行 (岩波文庫)』木枯紀行





2015年5月16日土曜日

大樹と人間 [荘子]



話:石井弘明




 縄文杉で有名な屋久島にあるヤクスギランドから太中岳に登る登山道の途中に、スギの大木が立っている。幹回りは5m以上あり、波打つ太い樹皮から交差するように伸びた2本の大きな枝は融合し、まるで指で輪をつくった大仏の手のようにも見える。

 歩道から少し離れているため名前がつけられていないこの巨樹を、私は勝手に「大仏杉」と呼んでいる。一部が白骨化したその巨体には、たくさんの植物や動物が宿り、大仏のように大らかに、永きにわたって森の生態系を支え続けている。

 この大仏杉のように、屋久島で樹齢一千年を超える老大木は「屋久杉」と総称される。長年の生育で生じた割れ目や空洞は、鳥や小動物、昆虫たちが外敵や気候条件から身を守り、営巣するための居心地のよい空間となっている。



 この一帯の森は、江戸時代に伐採されたあとに再生したものだ。

 先述の大仏杉など、現存する巨樹の多くは、形が悪く木材としての利用価値が低かったため、伐採を免れた。人類の産業にとっては利用価値が低く、「ブスギ(ブサイクな杉の意)」と呼ばれて伐採されなかった巨樹は、樹上の生物や植物たちの拠り所となり、生物多様性を現在の森へ引き継ぐノアの箱舟のような役割を果たした。

 光合成による炭素吸収量は、その木の葉の量に応じて決まり、葉の量は幹の断面積に比例して増加する。たとえば直径200cmの屋久杉の葉の量は、直径40cmのスギの約25本分に相当する(幹の断面積5倍に対して、葉の量は25倍)。





引用:岳人 2015年 06 月号 [雑誌]
石井弘明「森の命と循環をになう巨樹」








以下、『荘子 第1冊 内篇』人間世篇より



 大工の棟梁の石(せき)が、斉の国を旅行して曲轅(きょくえん)という土地にいったとき、櫟社(れきしゃ)の神木である櫟(くぬぎ)の大木をみた。その大きさは数千頭の牛をおおいかくすほどで、幹の太さは百かかえもあり、その高さは山を見おろしていて、地上から七、八十尺もあるところからはじめて枝がでている。それも舟をつくれるほどに大きい枝が幾十本と張りでているのだ。

 見物人が集まって市場のような賑やかさであったが、棟梁は見かえりもせず、そのまま足をはこんで通りすぎた。弟子たちはつくづくと見とれてから、走って棟梁の石(せき)に追いつくと、たずねた。

「われわれが斧や斤(まさかり)を手にして師匠のところに弟子入りしてから、こんなに立派な材木はまだ見たことがありません。師匠がよく見ようともせずに足をはこんで通りすぎたのは、どういうわけでしょうか」

石(せき)は答えた。

「やめろ。つまらないことを言うでない。あれは役たたずの木だ。あれで舟をつくると沈むし、棺桶をつくるとじきに腐るし、道具をつくるとすぐに壊れるし、門や戸にすると樹脂(やに)が流れ出すし、柱にすると虫がわく。まったく使い道のない木だよ。まったく使いようがないからこそ、あんな大木になるまで長生きができたのだ」



 棟梁の石(せき)が旅を終えて家に帰ると、櫟社の神木が夢にあらわれて、こう告げた。

「オマエはいったい、このワシを何に比べているのかね。オマエは恐らくこのワシを役にたつ木と比べているのだろう。いったい柤(こぼけ)や梨(なし)や橘(たちばな)や柚(ゆず)などの木の実や草の実の類は、その 実が熟するとむしり取られもぎ取られて、大きな枝は折られ小さな枝はひきちぎられることにもなる。これは、人に役にたつ取り柄があることによって、かえって自分の生涯を苦しめているものだ。だから、その自然の寿命を全(まっと)うしないで途中で若死にすることにもなるわけで、自分から世俗に打ちのめされているものなのだ。世の中の物ごとはすべてこうしたものである。それに、ワシは長いあいだ役にたたないものになろうと願ってきたのだが、死に近づいた今になってやっとそれが叶えられて、そのことがワシにとって大いに役だつことになっている。もしワシが役にたつ木であったとしたら、いったいここまでの大きさになれたろうか。それにオマエもワシも物であることは同じだ。どうして相手を物あつかいして批評することができよう。オマエのような今にも死にそうな役たたずの人物に、どうしてまた役たたずの木でいるワシのことがわかろうか」

 棟梁の石(せき)は目が覚めると、その夢のことを話して聞かせたすると弟子がたずねた。

「自分から無用でありたいと求めていながら、社(やしろ)の神木などになったのは、どうしてでしょうか」

石(せき)は答えた。

「静かに! オマエ、つまらないことを言うでない。あの木はただ神木の形を借りているだけだ。わからずやどもが悪口をいうのがうるさいと思ったのだ。神木とならなくても、まず人間に伐り倒されるような心配はない。それに、あの木が大切にしていることは世間一般とは違っている。それなのに、きまった道理でそれを論ずるとは、いかにも見当はずれだ」




南伯子綦(なんぱくしき)が商の丘に行ったとき、大きな木を見た。四頭だての馬車が千台集まっても、その大木の陰にすっぽり隠れてしまうほどである。

子綦(しき)はつぶやいた。

「これは何の木であろうか。これはきっと素晴らしい使い道のある木にちがいない」

ところが、目を上げてその小枝をみると、曲がりくねっていてとても棟木(むなぎ)や梁(はり)にすることはできず、目を伏せてその太い幹をみると、木の心(しん)が引き裂けていて棺桶をつくることもできない。その葉を舐めると口がただれて傷がつき、その臭いをかぐと狂おしく酔っ払って、三日たってもなおらない。

子綦(しき)は言った。

「これはなんと使い道のない木であった。だからこそこれだけの大きさになれたのだ。ああ、あの神人もこの使い道のないあり方によって、あの境地にいられるのだ」



引用:『荘子 第1冊 内篇



匠石之齊,至乎曲轅,見櫟社樹。其大蔽數千牛,絜之百圍,其高臨山十仞而後有枝,其可以為舟者旁十數。觀者如市,匠伯不顧,遂行不輟。弟子厭觀之,走及匠石,曰:「自吾執斧斤以隨夫子,未嘗見材如此其美也。先生不肯視,行不輟,何邪?」曰:「已矣,勿言之矣!散木也,以為舟則沈,以為棺槨則速腐,以為器則速毀,以為門戶則液樠,以為柱則蠹。是不材之木也,無所可用,故能若是之壽。」匠石歸,櫟社見夢曰:「女將惡乎比予哉?若將比予於文木邪?夫柤、梨、橘、柚、果、蓏之屬,實熟則剝,剝則辱,大枝折,小枝泄。此以其能苦其生者也,故不終其天年而中道夭,自掊擊於世俗者也。物莫不若是。且予求無所可用久矣,幾死,乃今得之,為予大用。使予也而有用,且得有此大也邪?且也,若與予也皆物也,奈何哉其相物也?而幾死之散人,又惡知散木!」匠石覺而診其夢。弟子曰:「趣取無用,則為社何邪?」曰:「密!若無言!彼亦直寄焉,以為不知己者詬厲也。不為社者,且幾有翦乎!且也,彼其所保,與眾異,以義譽之,不亦遠乎!」

南伯子綦遊乎商之丘,見大木焉有異,結駟千乘,隱將芘其所藾。子綦曰:「此何木也哉?此必有異材夫!」仰而視其細枝,則拳曲而不可以為棟梁;俯而見其大根,則軸解而不可為棺槨;咶其葉,則口爛而為傷;嗅之,則使人狂酲三日而不已。子綦曰:「此果不材之木也,以至於此其大也。嗟乎!神人以此不材!」宋有荊氏者,宜楸、柏、桑。其拱把而上者,求狙猴之杙者斬之;三圍四圍,求高名之麗者斬之;七圍八圍,貴人富商之家求樿傍者斬之。故未終其天年,而中道已夭於斧斤,此材之患也。故解之以牛之白顙者,與豚之亢鼻者,與人有痔病者,不可以適河。此皆巫祝以知之矣,所以為不祥也,此乃神人之所以為大祥也。

引用: 莊子 內篇 人間世








2015年5月14日木曜日

山背と巨樹「雪地蔵」 [高桑信一]



話:高桑信一




オホーツク海から吹きつける冷たい風、山背。

奥羽山脈の太平洋側では冷害をもたらすと嫌われているこの風が、山を越えると一転して宝の風となり、森に巨樹を育てるのだという。

♪ 吹けや生保内(おぼね)東風(だし)
  七日も八日も
  吹けば宝風、ノオ稲実る  ♪

秋田民謡、生保内(おぼね)節の一節だ。この東風(だし)は「山背(やませ)」のことで、山背よ吹け、何日でも吹け、吹けば宝風(たからかぜ)となって、おらほの田んぼに稲を実らす、という意味である。

山背はオホーツク海気団がもたらす夏の冷たく湿った北東気流で、東北地方の太平洋岸に冷害をもたらすことで知られている。その山背が、奥羽山脈を越えると一転して暖かく乾いた風となり、仙北平野のとりわけ生保内(おぼね)地方に豊作を約束するのである。

冬の季節風は、冷たく乾いたシベリア寒気団が日本海の暖流の湿気を吸い上げて、日本海側に大雪をもたらすが、山背はいわば、その真逆の現象といえる。

岩手の知人によれば、秋田駒ケ岳の北東に、頭を東に向けた馬の雪形があらわれるという。口から山背を吸い込んだ馬が、尻から宝風を生保内地方に向けて屁のようにぶっ放すというのだから、これは冷害に泣かされる雫石地方の農民の恨み節にちがいあるまい。





その宝風が、和賀山塊の巨樹を育むのではないかという説がある。和賀本峰の周辺で冷気と湿気を振り落とした山背が、白岩岳を越え、宝風となって巨樹を育てた可能性は十分にある。

「雪地蔵」はすぐにわかった。空気が濃密になり、音が消えたように思えた。雪地蔵は日本で2番目に太いブナ。樹齢は300年とも700年ともいわれている。だれが見つけ、いつから雪地蔵と呼ばれるようになったかは知らないが、洒落た名前をもらったこのブナが、古くから山仕事の人々に親しまれてきたことを思わせる。

下山後、地元の精通者の佐藤隆さんに訊いたら、「ああ、あれより太いブナはあるんだがね」と、こともなげに言った。

雪地蔵の前は、対岸の小影山のブナが日本一だった。そして今は、十和田湖の奥入瀬にあるブナが日本一になっている。したがって、まだ知られていない、もっと太くて古いブナが存在する可能性は高い。

しかし、順位などどうでもいいではないか。2位に格下げになったおかげで熱狂が静まり、道も整備されることなく、雪地蔵はこうして静かに佇んでいられるようになったのだ。









引用:岳人 2015年 06 月号 [雑誌]
高桑信一「日本で二番目に大きなブナを訪ねて 和賀山塊・白岩岳1177m」









屋久島の「岳参り」 [高桑信一]



話:高桑信一




渓谷を囲む屋久島の深い森を、低空から舐めるようにせり上がっていくヘリコプターで撮った映像だった。

その迫力もさることながら、私が目を奪われたのは、その森を縫うようにして登る「豆粒のごとき2人の登山者」だった。まるで修験者のような身なりをした彼らは、ナレーションによれば「岳参り(だけまいり)」の登山者なのだという。

古くから全国に偏在した岳参りの風習は、成人への通過儀礼であり、五穀豊穣の祈りと感謝であり、山の神を田の神として勧請するために行われてきたのだが、いずれにしてもそれは山を神の棲み処として崇め、信仰の対象としてきたのであった。

いまではほとんどが絶えて、探し出すのも覚束ない岳参りの風習が、屋久島に残されているという事実が私を驚かせ、たかぶらせた。むろん屋久島の岳参りにしても風前の灯火に違いあるまいが、岳参りは後世に伝えるべき掛け替えのない遺産である。





栗生岳でも宮之浦岳でも永田岳でも、苔むした小さな祠を見つけた。その存在を知らずに登山道を歩くだけでは、決して見つけられない祠である。山頂の岩の割れ目の奥に、隠されたようにひっそりと安置されたそれらの祠は、いずれも栗生や宮之浦や永田集落の守り神であった。

屋久島では、畑を拓き樹木を伐採し、山菜を採る暮らしのための山を「前岳」と呼び、その後方に聳える高山を神の棲む「奥岳」と崇めて岳参りを重ねてきた。集落からは海岸の砂や米や焼酎を携えて神に供え、奥岳からはシャクナゲやアセビの小枝を海辺の集落に持ち帰った。それは海と山の欠くべからざる連鎖の証であり、山の神と海辺の民との、抜きがたい交感のかたちである。

年に2回行われながら、時代の波に押されて消滅の一途をたどっていた岳参りの風習が、近年になって復活が図られ、屋久島の24の集落のうち、21の集落でふたたび行われるようになったという。むろん、その背景には世界遺産への登録による来島者の増加がある。それにせよ、その復活を素直に喜びたいと思う。









引用:岳人 2015年 06 月号 [雑誌]
高桑信一「原生の森に埋もれる島へ 屋久杉をめぐる山旅」



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秋山郷と秋田マタギ [服部文祥]



話:服部文祥




かつて雪国では、カモシカを獲るのに鉄砲を使わなかった。カンジキを履いて、深い雪に追い込めば、棍棒で殴れたからである。昨年、秋山郷の山里をスキーで歩いたときも、出会ったカモシカを戯れに追いかけたら、すぐに追いついた。条件によって人間が四つ足動物より速いことを体験するのはおもしろい。





秋山郷(新潟と長野の県境に位置する山奥の集落群)には、80歳前後の古老が五人おり、その一人に話を聞いたところ

「最近はぜいたくになって、ヒエやアワにおかずもつける。昔はもっとナラとトチを食べたものだ」

と言ったと『秋山記行』にある。越後の文人、鈴木牧之は1828年に秋山郷を六泊七日で旅して同書を記した。秋山郷には江戸時代に秋田の旅マタギが住み着いていたという。秋山郷にのこる狩猟文化は、秋田マタギと土着の狩猟が融合したものだ。


 


秋田マタギは鈴木牧之の求めに応じて宿を訪れた。「齢は三十とも見え、いかにも勇猛なる骨柄に見うけぬ」タフガイは、その生活を語る。

塩とわずかな米、鍋と椀を数個もち、イノシシや熊の毛皮でつくった衣を着て、ほとんど道のない中津川をさかのぼり、魚野川に入る。小屋がけして尺岩魚を釣り、一度に数百 尾を背負って草津の湯治場へ売りにいく。吊り天井方式の罠でケモノを獲り、塩漬けにして肉や皮も売る。山籠りは三十日間。肉と魚を食べ続けるため、山里に下りてくると穀物が食べたい、と笑う。









引用:岳人 2015年 06 月号 [雑誌]
服部文祥「信越国境 秋山郷 フクベの頭1503m」



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2015年5月8日金曜日

クライマーたちの「地元びいき」 [鈴木英貴]



話:鈴木英貴






 スポーツの世界ではどの分野でも存在するのが「地元びいき」である。クライミング界にあっては、クライマーは誰もが「地元の岩場が一番だ」と思っており、他のエリアより難易度も高いと思い込んでいる。

 ヨセミテのローカル・クライマーたちは一様に

「ヨセミテのグレードは辛めだ(難しい)」

と言うが、コロラドのローカル・クライマーもしかり。地元クライマーたちにルートのことを尋ねると、口をそろえて

「ここのグレードは辛いから自分の登れるグレードより少し下のグレードにトライしろ。じゃないと痛いシッペ返しを喰らうぞ」

と笑いながらアドバイスしてくれる。









ソース:岳人 2015年 05 月号 [雑誌]
鈴木英貴「My Climbing Journey in 20 years」
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