2015年12月15日火曜日

オーストリアスキー教程(1957)[目次・序言・あとがき]



オーストリア スキー教程(1957)

昭和32年12月25日発行
定価500円

編者 クルッケンハウザー
訳者 福岡孝行
発行者 相島敏夫
発行所 法政大学出版局



目次


序言

技術解説

技術解説 序言

1. 歩行、滑走、方向変換
2. 直滑降
3. 斜滑降
4. 横すべり
5. 山まわりクリスチャニア
6. プルーク、プルークボーゲン、シュテムボーゲン
7. 谷まわりクリスチャニア


指導法

Ⅰ. 基礎訓練

指導法についての一般的注意

A. 走ること
1. 滑歩
2. 滑走
3. 登り
4. 方向変換

B. 最大傾斜線の滑降
1. 直滑降
2. (ジャムプ)

C. 山まわり回転(クリスチャニア)
1. 斜滑降
2. 横すべり
3. 山まわりクリスチャニア

D. ボーゲン
1. プルーク
2. プルークボーゲン
3. シュテムボーゲン

E. シュテムクリスチャニア
1. 山まわりシュテムクリスチャニア
2. 谷まわりシュテムクリスチャニアの基本型


Ⅱ. 仕上げ

仕上げについての一般的注意

A. つぎのことを磨き上げ洗練してゆく
1. 滑走と登行
2. 直滑降とジャムプ
3. 斜滑降
4. 横すべり
5. 山まわり(停止)クリスチャニア

B. 谷まわりクリスチャニア
1. シュテムクリスチャニア(開き出しが少ない)
2. 純粋クリスチャニア
3. 連続小まわりクリスチャニア、Kurzschwingen "Wedeln"

C. 山地滑降の基礎として大抵抗雪においてクリスチャニアとボーゲンをおこなう


学校におけるスキー教育
学校体育の一般教程からの抜粋(スキー)
学校スキー講習 基本要綱
学校スキー講習 告示補足

用語解説

訳者あとがき






P. 3

オーストリア スキー教程

本書はオーストリア職業スキー教師連盟の手によって出版されたものであるが、以下の諸団体の緊密な協力を得た。

文部省スポーツ局および学校体育局ウィーン、インスブルック
およびグラーツの各大学体育研究所

国立スキー教師養成所およびスキー教師国家試験委員

オーストリアスキー連盟

シュタイエマルク職業スキー教師連合

オーストリアスポーツ教師連合スキー部



P. 4

本書の普通写真、連続写真、図の構成は、アールベルク・サン、クリストフのシュテファン・クルツケンハウザー教授の手になるものである。

写真はライカM3、連続写真は手持スタンダードカメラで撮影された。二つのカメラには、ライツの長焦点レンズ(Hektor 13.5cm, Telyt 20cm)のみを用いた。フィルムはシュロイスナーの Adox Kb 17 のみを用いた。



P. 5〜6

序言

ものごとを教える場合、その指導法は教育目標によって明確に定められるものである。したがって、スキー技術がつねに教授法のうちにはっきりした形をとって現れているのもまた、当然のことといわねばなるまい。山岳滑降技術は、最近10年間にとくに活発な高度の発達をとげたが、オーストリアはこの発達に大きな役割を果してきたし、また、今日なお演じつつある。かかる発達と平行して、われわれの間では多くの団体が、スキー技術の新しい成果と指導法の調整をめざして努力し、ついにこれに成功した。しかしながら、これらは世間で往々誤りいわれるように、スキーの指導法が競技に同調したのではない。

つまり、これは、スキー技術について最近はっきり認められた幾多の事柄の本質を吟味し、検討して、これを初心者の指導にも適用し、初心者の指導から上達者の指導、さらにまた第一線級の訓練にいたるまで、首尾一貫した指導法の筋を通すことを肯定し要求したにすぎないのである。

この「オーストリア スキー教程」は、オーストリア各地のスキー学校、スキー教師養成所、職業スキー教師連盟、スキー連盟および体育、スポーツの各団体、とくにオーストリアのすべての学校におけるスキー教育において、数年間にわたる試行と討議の結果まとめあげられた指導法である。とくに学校において、かかる試みをなしえたのは、文部省が多大の便宜と援助をあたえ、青少年のスキーに大きな基盤をつくってくれたおかげである。



この「オーストリア スキー教程」はつぎの各団体の代表者
すなわち

オーストリア職業スキー教師連盟
文部省スポーツ局および学校体育局
ウィーン、インスブルック、グラーツ各大学体育研究所
国立スキー学校養成所およびスキー教師国家試験委員会
オーストリア スキー連盟
シュタイエルマルク職業スキー教師連合
オーストリア スポーツ教師連盟スキー部

等の代表者たちの長期にわたる詳細な専門的な協同研究の結果うまれたものである。



自由職業スキー教師の代表者(H. Bratschko, R. Matt, R. Rossmann, F. Schneider, T. Seelos, T. Schwabl)等の協力によってオーストリアのすべての「スキー学校」におけるスキー指導の最も重要な基礎を確立した。文部省スポーツ局のスキー部長(Fr. Ritschel 教授)の協力を得て体育およびスポーツ団体のスキー指導にあたる人々の専門的な意見を漏れなく徴しえた。オーストリア スキー連盟の指導部(F. Wolfgang 教授)および同連盟の指導法の担当者(H. Lager 教授)の協力によりオーストリアの競技スキーの専門団体(オーストリア スキー連盟)の指導に関する意見をいれることができた。文部省学校体育局長(省参事官 F. Zdarsky)ならびにウィーン、インスブルックおよびグラーツの各大学体育研究所の主任(講師 Dr. H. Groll, St. Kruckenhauser 教授)の協力により、学校ならびに国立スキー教師養成所におけるスキー教育の経験と要求を完全に考慮することができた。



このようにスキー指導の主要な地位にある者すべての協力を得て、スキー学校および一般学校における、スキー指導の統一ある教程はうまれたのである。

オーストリア職業スキー教師連盟は出版の担当者として本教程をまとめあげるために協力努力してくれたすべての人々に感謝を捧げる。ことに E. Koller 教授および H. Lager 教授には、技術解説をまとめあげた労にたいして感謝を捧げる。また指導方法をまとめ、技術解説の結論をまとめる仕事に加わり、さらにまた写真および図の構成、配列、ならびに印刷についてもお骨折りを願った St. Kruckenhauser 教授にはとくに感謝しなければならない。

文部省にたいして、オーストリア職業スキー教師連盟はその大規模な財政的援助に感謝するものである。この援助があったればこそ、本教程を刊行しうるのである。


ルディー・マット
オーストリア職業スキー教師連盟会長



P. 120〜122

あとがきに代えて

昨年の暮れにルディー・マット氏から、刷り上がったばかりの表紙もついていない「オーストリアスキー教程」が私の手もとに届いた。オーストリアは長い沈黙をやぶってついに統一技術をまとめ上げたのである。その前年1955年の春ヴァル・ディゼールでおこなわれた国際スキー指導者会議で同国は世界のスキーヤーの前にこの技術を公開し注目をひいた。欧米でセンセイショナルに迎えられたのに、わがスキー界は冷静であったというより無関心であったといったほうがよかった。

私はさきに「今日のスキー」を、そして戦後直ちに「自然なスキー」を紹介した。そのときすでに、私はスキー術はいよいよ完成期に入って、将来はただその細部において洗練され磨きがかけられるにすぎないと予言めいたことを書いた。いや予言というよりもそれが私のスキー技術遍歴のはて行きついた結論であり、実感であった。こんどマット氏から送られた本教程を見てあまりにも近いので、というより、全く一致しているといってもよいほどなので、かえってはっと思ったくらいだ。教程の練習法の主だったものは、かつてローティションスキーヤーであった私が、外傾技術に宗旨変えするときにさんざん苦しんで、思案のあげく考えだしたものと全く同じであるのでかえって驚き入った次第だった。このような、私にとってはこの教程の出現はむしろ遅きにすぎるという印象が強い。

私が外傾スキー術を守りつづけたのは、わが国が地理的に離れていることがかえって乱されずに冷静に考え観察する条件となったからといえるかもしれない。すでに昭和15年に「今日のスキー」を訳出した際に、「欧州スキー界の動向」として同書の付録に書いたことと重複するとも思うが、その間には17年もの年月が流れているので、いかにスキー技術の変わり方を見わたして正しい理解の助けにしたいと思う。

ツダールスキーが、いわゆる山岳技術を確立して以来、ビルゲリー・シュナイダーの系列はシュテムボーゲンとシュテムクリスチャニアの二つの回転を確立した。第一次大戦から1930年の約10年間はもっぱらこの二つの回転が山岳スキー術の核心をなすものとされた。当時のシュテムクリスチャニアは、1)シュテム(プルーク)、2)体重の移動、3)ローテイションの三つが特徴となっていた。さらに体重の移動は、立ち上り抜重によって助けられた。いわゆるホッケといって低い姿勢が格好の基本姿勢であったので、この立ち上り抜重は低−高−低の動きとなって現われ、立ち上ってから沈みこむときに、体重の移しかえと回転方向へのひねりこみ、すなわちローティションが必要であるとされた。しかし、実際にはそれほど強くは現われなかった。

1936年のオリムピックには滑降回転が正式種目として採用されたが、1930年からオリムピックまでの数年間にスキー術は急激に普及と発達をとげた。1936年頃は直滑降−斜滑降、プルーク−プルークボーゲン、シュテムボーゲン、シュテムクリスチャニアが一般には考えられた。しかし、プルークとシュテムボーゲンがその基礎であった。1936年を中心としてその前後数年間は大きな変動をはらんだ時期であった。

まずドクター・ホシェックとフリードル・ヴォルフガンク(現オーストリアスキー連盟指導部長)はプルークやシュテムを経ずに、斜滑降から「直接クリスチャニア」へ導入する方法を唱えた。まず山まわりを教え、直ちに谷まわりへ導くというのである。スキーをパラレルにしているので、彼らは強いローティションと立ち上り抜重によらざるを得なかった。まだゼーロースはまた立ち上り抜重とローティションと強い前傾のいわゆるゼーロース・シュヴングで幾多の勝利を占めた。

ローティションと前傾、立ち上り抜重の回転がほとんど決定的な地位を占めたかのごとく思われたときもとき、二冊の本が現われた。トニイ・ドゥチア、クルト・ラインルの「今日のスキー」とミュンヘン大学教授オイゲン・マティアスとサンモリッツのスキー学校長ジョヴァンニ・テスタの「自然なスキー」がこれである。前者は招かれてフランススキー学校で指導していたティロール出のひとびとであり、後者は運動生理学者としてスキーの骨折、捻挫等の傷害の研究の結果と実践との結実である。

両者はたがいに相識ることなく、全く別の道を歩んだにもかかわらず、その主張するところは期せずして「ひねりを排除し」、外傾技術を正しいとする点で一致していた。そしてまた、プルーク、シュテムと同時に、斜滑降から直接クリスチャニアに導入するという点で一致していた。一方フランスはドゥチア、ラインルから教わったものを排し、「ローティションと沈み込み」の技法をフランス独自のものとして打ち出した。が実際には、ゼーロースの影響を多分にもつものであった。

ひねるかひねらないか? パラレルかシュテムか? 当時われわれは全くこれらの問題になやんだ。私の場合、重い荷を背負った滑降やかたいバーンの滑降の実際的経験が長い間なじんだローティションを捨て、外傾をとるべきことを教えてくれた。

1937年12月はじめにアールベルクのサン・クリストフでオーストラのスキー教授法について会議がおこなわれた。これには当時健在だったハンネス・シュナイダーはじめ、トニイ・ドゥチア、クルト・ラインル、ホシェック、フリードル、アマンスハウザー等々いわゆるスキープロフェッサー連が集まってスキー教師の国家試験および教授法について問題をわれわれのものだけにしぼると、協議がおこなわれた。ひねるかひねらないかについては、ひねり、すなわちローティションがすてられ、たとえまわし込むにしても斜滑降姿勢、外傾が限度とされた。斜滑降から直接クリスチャニアへ導入する方法も論議にのぼったが、これはジャムプターンからテムポシュヴンクへ進む方法とともに全体に統一をもたせて教授するため、および限られた時間に効果をあげるために採用されずに終った。ともかくも、体のまわし込みは否定されたのである。

これと時を同じくしてスイスでも会議が開かれ、「自然なスキー」に統一された。またドイツでも統一的機運が動いたが、「ローティション是か非か」については明らかな線は打ち出されなかった。

ここまでは接触をたもってきたが、世界をあげての戦争はこの決定的な問題の発展を完全に停止してしまった。もう少しつづければはっきりした結論に到達しえたであろう問題はそのまま忘れられたかにみえた。

敗戦国オーストリアでは、例えばサン・アントンのごとき大スキー場はすべてフランス人の占領下にあった。アールベルクはフランスの第一線選手と優れたスキー教師によって独占された。彼らの大部分は兵役を免除されて、レイサーの訓練に当っていた。二シーズンにわたって地元オーストリア人はいやというほど、フランスの技術とその教授法を見せつけられた。これはオーストリア人にとってはフランスの技術を学ぶ稀に見る機会となった。しかもフランス人によって書かれた数多くの著書がさらにこの研究を助けた。1949年まではほとんどすべての大競技はフランス人の手中におさめられていった。

ここでオーストリア人をとらえた問題が二つあった。第一は、はたしてフランス人の宣伝どおりその技術が勝利の原因かどうか。第二に、直ちにクリスチャニアに導入する教授方法の是非がそれであった。彼らは徹底的にこの問題と取り組み、根本から検討しはじめた。結論はしかし再び、シュテムクリスチャニアはスキー教授法の中心に立つというのであった。この結論はオーストリア人を勇気づけた。戦争のブランクはうまった。

彼らの最初の仕事はシュテムシュヴンク(クリスチャニア)を完成することにあった。シュテムシュヴンクはパラレルシュヴンクへ進むさまたげには決してならない。しかし彼らの考え方は戦前のものと全く同じだとはいえない。本教程にも明らかなように、彼らの教授法は大別すると二つからなりたっている。その一つは、前への横すべりであり、もう一つは、シュテムボーゲンとシュテムクリスチャニアである。たしかに、斜滑降から山まわりクリスチャニアはわりにやさしい。しかし、いざ谷まわりになると決して簡単ではない。彼らはここにシュテムを使うのだ。スキーの先を谷へむけてゆくにはシュテムが絶対に楽なのである。斜滑降−横すべり−山まわりクリスチャニアの系列とシュテムボーゲンとを合わせれば、シュテムクリスチャニアができる。そして、このシュテムをなくしてパラレルにしてゆくのである。したがって、かつてのシュテムボーゲンの位置にこの教程ではシュテムクリスチャニアがおかれている。

以上を通じてみると、敗戦によってフランスの横すべりによる指導法をいやというほど見せつけられ、自分たちもそれを試みる機会をあたえられたことが本教程の成立に大きな影響をあたえていることは見のがしてはならない事実である。しかもフランスでもグルノーブル大学のコーチ、ジョルジュ・ジュベールによって外傾技術がとりあげられ、従来のフランスの教義にそむいて「1957年のスキー」が出された。いよいよ同じ技術で競う時代に入ったとみてよい。陸上競技のように、トレイニングの方法のよし悪しが優劣をきめる段階に入ったのである。戦争によって中断されたスキー術の完成期はいよいよきたのである。

もう一つ忘れてはならないのは、戦争中おさえられていたリフトやケーブルカーの著しい進歩と普及である。これらの設備とこれの利用によって生まれたコブだらけのしかも滑りまくられたピステがスキー術に大きな影響をあたえているのである。進歩は四倍になったともいわれている。逆にいえば、いわば自然発生的にピステが現在の技術を生んだともいえるであろう。オーストリアが技術で勝ったとはっきり知ったのは、面白いことにトニイ・シュピースとクリスチャン・プラウダの決定的勝利以来のことである。「ゴムのようなシュピース」の技術は高速度撮影によって徹底的に観察され研究されて、しばらく忘れられていたウェーデルンということばがよびだされた。彼らの競技における成功の鍵はウェーデルンにあることはたしかだが、まず一般は基礎から着実につみかさねてゆくべきである。

本教程は出版されると国際的反響をよんで、アメリカをはじめ幾多の国々で翻訳が企てられ、ドイツはすでにこれにならって指導書をまとめあげ、スイスはかつての「自然なスキー」のように論議を重ねている。フランスはすでにのべた通りである。これらの競争のなかで比較的早くわれわれのものとなしえたのは、第一にルディ・マット氏の好意によるものであり、また「一体どこからこんなに詳しいことを手に入れたのだ。われわれは”今日のスキー”と”自然なスキー”が築いてくれた基礎の上に築きあげたのだから、「お前がこの教程を訳すのは宿命だ…」と快諾をあたえてくれたオットー・ミュラー書店とクルッケンハウザー教授の理解に対しても感謝しなければならない。

「今日のスキー」や「自然なスキー」と同じように、今回も燕温泉の笹川速雄氏と細野の大谷定雄氏のところで訳すことができたのは幸いであった。また中山久先生は、かつて「日本はひねっている」の一文を草して外傾技術をはじめて紹介され、当時すでに今日あることを洞察されたが、この教程の出現は、その体系的原則の把握の正しさを証するに十分である。またスキー仲間の明石和彦、有馬頼興両兄をはじめ、多くの悪友良友が早くしろといっては滑りに出ていったのも忘れられない思い出である。とくに顔、加瀬両君には清書から校正まで世話をかけてしまった。相島さんにはアメリカとの写真のとり合いで気をもませてしまった。あわせ記して心からの謝意をのべた。

ただかえすがえすも残念なのは、今日まで私を導いてくださった池田秀一氏と笹川速雄氏が相ついで他界されたことである。いつまでも私たちの心に生きる両氏に、つつしんでこのささやかな訳書を捧げる。


1957年12月12日
恩師笹川速雄氏の訃報に接した夜
訳者


訳者(福岡孝行)略歴

1913年 東京に生まれる
1941年 東京大学文学部言語学科卒

法政大学助教授
全日本スキー連盟指導員
大町山岳博物館顧問

主要訳著書
「シュプール」(登山とスキー社)
「今日のスキー」(登山とスキー社)
「自然なスキー」(小笠原書房)
「正しいスキー」(湖山社)

映画
「スキーの寵児」製作




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