2014年11月23日日曜日
鈴木忠勝と白神山地 [根深誠]
〜話:根深誠〜
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故郷の「ヤブ山」、いまでは白神山地と呼ばれて「世界自然遺産」に登録されている山々における作法を私に教えてくれたのは、鈴木忠勝(1907〜1990)だった。彼との知遇を得たのは、その点で幸運の一言に尽きる。
山中の小さな杣(そま)小屋を根城に四季折々、狩猟採集漁労に明け暮れ、自然と向き合い、自給自足型の生活を営んで生涯を終えたのだ。マタギの所以たるさまざまな伝承や戒律、迷信の類に生きた、地元でマタギと誰もが認める最後の人だった。亡くなるまで、鈴木忠勝と私との親交は十年あまりに及ぶ。私の白神山地に関わる知識の大半は彼から得たもので、その存在は私にとって崇敬に価するほど深くて大きかった。
私は自分の知らない沢の名前や伝説、杣道や滝の巻き道、薪の火のつけ方、といった、地元の山の自然と人に関わる卓越した知識を得ることで、「ヤブ山」独特の味わい深い魅力を肌で感じ取れるようになった。ナタメにしてもそうなのだが、それはいま世間でいう非難を伴った「切り傷」や「らくがき」などではなく、山に生きた杣人たちの生活の痕跡であり匂いなのである。
シカリというのはマタギのリーダーである。鈴木忠勝はシカリだったが、私と知り合ったころ膝を病んで入退院を繰り返し、歩行に困難をきたしていた。鈴木忠勝とともに出猟した村人たちの何人かとは何度も山を歩き、山で寝食をともにした。村の杣人たちも言葉少なに鈴木忠勝の威厳を認めていた。「忠勝はすごい、あれは山の神みたいなもんだ」。私が鈴木忠勝から教わった知識は村人たちも詳しくは知らない伝承が多かったので、村人たちは私には一目置いていた。それと同時に、私の山での達者な歩き方を見て、誰もが驚いた。私はある時期、全精力を山に傾注していたのだから、それもやむを得ないだろうなどと思っていた。「昔取った杵柄」である。
しかしである。あれは初夏のころだったが、村人とふたりでブナ木立に腰を下ろして休んでいたときだった。涼風が汗ばんだ肌をかすめて、心地よい葉ずれの音をたてながら緑の樹冠を渡っていく。
「ああ、いい風だ。風が見えるようだな」
樹冠を見上げながらつぶやいた、村人のこの一言に私はショックをうけた。風が見える…、こういうショックを「頂門の一針」とでもいうのだろうか。私は自分の感性の貧しさ、無知さ加減をどうしようもなく恥じた。
また、こんなこともあった。ブナ林のなかを歩いていると、何年かにいっぺん、葉のいじけたブナを目にすることがある。
「どうしてか、わかるかな。去年、実をつけたんだ。栄養分が実に吸収されて衰えているんだ。元に戻るには何年間かかかる。子供を産んだ母親もそうだろう。やつれているんだ」
私とは自然の見方、捉え方がまったく異なるのだった。私には生活を基盤にした自然観が身についてはいなかった。鈴木忠勝は、生活と自然が融合していたそうした時代との過渡期に生きねばならなかった、村で最後のマタギだった。時代の変遷とともに、すでにそのころマタギなる存在を支えている規範は、もはや形骸化しつつあったのだ。鈴木忠勝は私にこう語っている。
「いまはもう山の生きものたちを、たとえば毛皮とか肉とか、あるいは薬などの形で直接利用することも少なくなった。マタギもいなくなったし、わしらの生活も変わってしまった」
白神山地のブナの森林地帯は、発生年代が七〜八先年前の縄文時代に遡る、ということだが、その悠久の歳月を人とともに生きてきたことに想いを馳せるなら、山の自然はそこを利用して生きねばならなかった杣人たちの形見であり文化的遺産ということになる。
二百年、三百年の歳月をへて、丈を競うように亭々と林立する白神のブナの森のなかに、細々と延びる杣道。その杣道を、昔の杣人たちの生活の匂いを残すナタメをたどりながら歩く愉しみは、恵み豊かなブナの森ならではのものである。森のなかは明るく、健全であり、ブナ特有の白っぽいすべすべした樹肌や、さやさやと渡る爽風を孕(はら)んだ緑の樹冠が織り成す包容力のある佇まいに私たちは癒され、ホッとする。感性が触発されて心身ともに若返るのである。
鈴木忠勝とその仲間たちの杣人たちも同じように味わっていたであろう、そのはつらつとした自然との交感こそが、世代を超えた魅力であ価値である。
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出典:岳人 2014年 12月号 [雑誌]
根深誠「懐かしい山と人」
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