2015年3月23日月曜日

近所の気のいい大阿闍梨 [藤波源信]




昨年11月、俳優の高倉健さんが亡くなられた折に、その座右の銘

「行く道は精進にして忍びて終わり悔いなし」

という言葉を贈った人が、比叡山の高僧、酒井雄哉だった。







藤波源信さんがその酒井さんに出会ったのは19歳のときだった。

藤波さんは言う。

「僕は普通のサラリーマンの家庭に育ちましたから、仏教に縁があったとか、興味があったわけではなくて。高校を卒業して、普通に進学する、就職する、そういうのではなくって、生き方をちょっと変えてみたいっていうのがあって、それにはお坊さんもいいかなって。その程度でした」

一年目は寮生活、二年目に寺の小僧になってみるかと勧められ、酒井さんと出会った。

「無知っていうのは怖いですよね。4年ぐらいいて、(飯室)不動堂を飛び出しました。掃除、洗濯、食事の用意。ただそれだけの淡々とした毎日です。それが修行だって言われるとそうかもしれないけど、何年続ければどうなるって決まってるわけでもない。永平寺なんかでしたら、それは修行と認められるんですが、僕らはそうではないんです。小僧さんはずっと小僧さんのままってこともありうる。食事の用意をずっとしてましたけど、調理師の免許がとれて料理人になれるわけではない、掃除がうまくなったからって掃除屋になれるわけではない。そんな生活が嫌になって」







飛び出した藤波さんは、小遣いのもらえる京都の寺院に入った。そして3年、今度は故郷の三重で寺の住み込みをした。

33〜34歳の頃、人生の先行きに不安を募らせた藤波さんは再び比叡山に足をむけた。酒井師のいる飯室谷へと。しかし門前払いにあってしまう。一度飛び出した人間に、酒井師は会おうともしなかった。

藤波さんは言う。

「こちらもしぶといから1年くらい通いました。でも、そろそろ諦めて、何か別の仕事を考えなければというときに、たまたま外に出てこられた酒井阿闍梨さんと出会ったんです。『いま何してる』と言われて、『あれこれバイトなんかもして過ごしてる 』なんて話しました。『修行をしたい』って言うと、『すぐには無理だ』と。そして、『サラリーマンになれ、東京に知り合いの会社があるからそこで働け』って。『わかりました』って僕は答えて、東京に行きました」

藤波さんは酒井阿闍梨の指示通り、東京の会社に入った。給料をたっぷりもらい、自分の時間もたっぷりあった。しかし、物質的な虚しさを感じるのにそう時間はかからなかった。

そんな折、酒井阿闍梨から連絡がはいった、「すぐに帰ってこい」と。







そしてはじまった十二年籠山。藤波さんは比叡山の千日回峰行へと向かっていった。

回峰行者の朝は早い。午前1時は、朝というより深夜である。浄衣とよばれる白装束を身にまとい、腰には「死出ひも」と「降魔の剣」をさす。白装束は死装束、腰の装備は行が途絶えたときの自害用である。

千日回峰行は満行まで7年を費やす修行で、およそ地球一周するほどの距離をめぐる。最初の3年は年間100日、1日約30kmを歩く。台風だろうが風邪をひこうが、1日とて休むことは許されない。行が途絶えれば即、死が待ち構えている。







雨の日は蓑(みの)、あるいは着茣蓙(ござ)を着用する。それでも「中はずぶ濡れ」になってしまう。滑落しそうな危険箇所もある。朝日が昇るまでは、そんな場所を提灯ひとつだけを頼りに歩く。「どこに段差があるとか、石があるとか覚えておかないと、暗闇の中では歩けない」。崖の近くで灯が消えてしまったこともあるという。

「酒井阿闍梨から『道は自分でつくるもんだ』と言われました。歩いてできていく道は、確かに雨とかに強いんです。鉈(なた)とかノコギリをもって歩いたこともありますよ」

ひたすらに歩けど、無心の境地には至れない。

「無心というのは脳の停止状態です。脳が動いていると何か考えていますよね。僕の場合は、ただ灯りをじいっと見つめて黙々と歩きながら、いろいろなことに思考をめぐらしていました。回峰行の立場から言うと、100日間歩いてあとの250日はオフですから、最初のうちはその間に読んだ本とか勉強したことについて。それに飽きてしまうと、人とお話ししたことなんかをくどくどと。あいつ、ああいうことを言ってたよなあとか。それに飽きると、次に新しく入ってきた情報、ホントに些細なことをああでもないこうでもない、そういうことの堂々めぐりです。仏さんは何かとか、仏教の無常とは何かとかね、そんなんは考えませんよ。人間、心の中に溜め込んだものがあります。時々それを外に出して空っぽにしてやらなきゃいけませんね。でないと考えもどんどん飛躍していってしまいます。僕らは自然の中でそれを出していく。登りになれば呼吸も苦しくなって疲れますから、そんなことも考えていられなくなります」

1年分の回峰行が終わったあとは「テレビを見ながらジュースでも飲むこと」が一番の楽しみだったという。

「記録をつくったスポーツ選手に『おめでとうございます、次の目標は?』って記者が質問してたりするでしょ。あれなんか、酷なこと聞くなぁって思いますよね。そのシーズン、その記録をつくるのにどれだけ神経を尖らしてすり減らして自分を律してきたのか、わかってるのか。こっちは命かけてやってるんだよって。やっと終わってホッとしているところに、次のこと聞くなよって」







5年目には、不眠不臥の荒業があった。9日間の断食断水、不眠不臥。

「お堂に籠るのは、じっとしているだけ。あとは『おなか減ったなあ』とか思いながら我慢すればいいんです。歩いているほうが怖い。外に出るということは危険が伴います。常に緊張感が漂うし、神経を尖らしてなきゃいけない。石が飛んでくるかもしれない、足を踏み外すかもしれない。台風のときはドーンと木が倒れてきた。行く手がふさがれたので崖をよじ登りました」

6年目は、最初の30kmにプラス60km。これを100日間。7年目には、さらに84kmが加えられて100日間。

「でもね、みなさん思っておられるほど重労働じゃないですよ。(最初の30kmは)急げば4時間、お参りしながらだと6時間ぐらい。帰ってきたら1時間ほどお勤めをして、読書して食事して。労働時間で考えれば、会社勤めしてその後に皇居を走ってるような人たちと比べたら楽なもんですよ。僕らはちょっとした運動をして、体の調子がよくなって健康体になって百日間を終わらせればいいんですから。上司のように怒る人もいないし…、いいんじゃないですかねえ、一周してきたらその日は終わりなんですよ(笑)」



厳密にいうと、千日回峰行は満行まで975日間。1,000日間に25日足らないが、残りの日数には「一生をかけて行じる」という意味が込められている。

満行をはたした藤波さんは「大阿闍梨」の称号を得た。大阿闍梨には「土足が禁じられている御所に土足で参内する」。比叡山延暦寺に残る大阿闍梨は48人。戦後は13人、藤波さんはその12人目であった。

だが、その大阿闍梨の称号を得てなお、藤波さんは「近所の気のいいおっちゃん」のままだった。







「自然はいろんなことを教えてくれます。でも、それは自分で感じなければいけません。受け入れる心が必要だと思うんです。そうすると、喉が渇けばどこに水があったかとか、そういうことが自然にわかってくる。また、大きな木が倒れるとそこに光が差し込んで草が生えてくるとか、草が生えてくると水が湧き出てくるとか、そういう調和のとれた自然の営みも見えてきます。ある先生が教えてくれました。『木は宇宙なんだよ、大きな生命体なんだよ』って。一本の木にはいろんな虫がいます。それを食べにくる鳥も寄ってきます。そこには営みがあるっていうんですね」

「毎日歩いていると、ものの見方が変わってきます。自然の流れの中では奇跡のようなことは起こらない。たえば木にしても、種が落ちて小さな新芽が芽吹き、徐々に成長していく。いきなり木にはならない。そして木にしろ草にしろそれぞれ役割があって、支え合って森になるんですね。そうやってできた森は強い。植林はやっぱり弱いですよね。そういったことも自然は教えてくれる」

「人間社会は歪んでますよね。草鞋(わらじ)を履きますでしょ。土の感触がわかるのはいいですね。ツボも刺激されるし(笑)。人間は多少刺激があるほうがいいんじゃないでしょうか。過保護すぎると退化して、やがて本能が失われていくような気がします。いろんなものが発明されてどんどん便利になっていくとね。でも一方で、発明する能力も人間には大切です。単純に原点に、昔に戻ればいいっていうことでもありません。だから接し方ですよね。自然や山に入るという行為は、自分を原点に戻すにはいいことかもしれません」

「そういう意味では、道具がそろい過ぎるのも問題がありますよね。富士山なんかは典型的。道も含めていろんなものが整い過ぎて、多くの人が行く。多くの人が行けばさらに設備を整えなければならない。設備が整えばさらに…。そうやって自然が汚れていく。あれこれ造んなかったら人も行きませんよね」

「人が歩くと自然に道ができる。それでいいはずなのに、人為的に道を造るとそれに合わせなければならない。階段を考えるとわかりやすい。こちらが元気なときはいいが、疲れていたり怪我をしているときにはそれが辛い。そういう誰かが造った『型』に人間が当てはまっていくというのが今の世の中なのではないでしょうか。そして、それについていけない人が増えているのも現代社会の一面。人はみな、それぞれに生き方があるのにね」











ソース:岳人 2015年 04 月号 [雑誌]
藤波源信「山の中を歩き、祈ること、一千日」




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