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2015年6月19日金曜日

「今日は厄日だ」[マタギのなかのマタギ]



話:米田一彦


 数あるマタギのうちでも、”マタギのなかのマタギ”と誉れ高い、秋田県阿仁(あに)町の打当(うつとう)マタギと比立内(ひたちない)マタギのクマの巻き狩りについていった。



 金池森の頂上を超えると天狗ノ又沢が深く大きな口を開けていた。マチバ(射手)は5kmを越える長い尾根に散らばり、勢子(せこ)がクマを追い上げてくるのを待った。待つこと2時間、太陽は真上に来て、紫外線に満ちた光線を降り注いでいる。

 ついに300mほど離れたヤセ尾根の頂上にクマが現れた。その100m下にもう一頭が斜面を登ってくる。どちらのクマも越冬中に体の脂肪を使いつくし、黒光りする皮がたるんで、ぶよんぶよんと走っている。

「まるでクマのアパートだんべ」

 ふつうマタギは猟の間は寡黙を通すが、隣りにいたマタギは珍しく愛想がよい。マチバ(射手)が鉄砲を撃ち始めた。だが転ぶクマはおらず、右往左往して走り回っている。結局、夕方までに5頭のクマが追い出されたのに、一頭も収穫がなかった。マタギたちは、見たことがないほどしょげ返っていた。

「今日は厄日だ、街で祝儀(結婚式)があったがらな」

と嘆いた。







 四月の終わりに、打当(うつとう)マタギたちと彼らの最大の猟場である岩井ノ又沢でのクマ狩りに行った。

 10時20分。ズッバーンと銃声が響いた。シカリ(頭領)が追い出されたクマを撃ったのだ。クマは猛然と振りかぶり、自分の腰のあたりにかみついた。クマは打撃を受けた箇所にかみつく習性があるのだ。腰はすでに血で赤く染まっている。やがてくるくると赤い円を描きながら、斜面を滑り落ちていった。

 シカリが靴のかかとを堅雪に滑らせて、猛烈な速さで下りていった。谷底でクマはおびただしい血の上に横たわっていた。シカリは体を傾(かし)げてクマをのぞき込んだ。

「もはや、コド切れている」

 その声に、ほかのマタギたちも手に持った木の枝を雪に突き刺しながら斜面を滑り、集まってきた。マタギたちは、このときに至っても言葉は発しない。しかし彼らが喜んでいることは充分伝わってきた。

「二十五 貫(94kg)はあるべぉ」

と、これから儀式を行う長老が言った。四人の男がクマの両手足を持って頭を北に向けた。長老が姿勢を正す。彼は右手にクロモジの小枝を持ち、クマの魂を鎮める言葉を唱えた。そして貴重な授かり物であるクマノイ(胆嚢のこと)を切り取ると、天に捧げ持った。

「米田さん、見なせ、あれがお宝様だ」

シカリ(頭領)は厳粛な眼差しを私に向け、話を続けた」

「おらドたくさんはいらね。毎年三頭もあればエエ。クマがいねぐなったら寂しいし、クマ狩りはおらドの最高の楽しみだ」

「おらドは脳ミソも内臓も食うし、血も干して食う。おらドはクマに生かされでいると思う。ありがてごどだ。ほら、アンダさも肉の分け前だ」

と私にもふたつかみほどの肉片をくれた。



 縁起を担ぐマタギたちはたくさんのタブーをいまも守っている。結婚や出産などの祝い事はだめで、当事者はしばらく狩りに参加できない。とくに女性とかかわる内容は嫌われる。山の神様は女性で、嫉妬するからだそうだ。反対に法事は縁起がよいとされている。日々の行動にもさまざまな戒め事があり、なかには「留守中に豆を煎ってはいけない、はじけて雪崩になる」などというものもある。

 いまでも掟を守って狩りをしている彼らを、古くさいと笑うのは簡単だが、

「逃げたものは追うな」

「クマは授かり物だ」

などという素朴な考え方は、獲物は毎年少しずつしか捕らないという保護思想でもあるのだ。私の心にはやさしく響く言葉だ。





引用:米田一彦『山でクマに会う方法 (ヤマケイ文庫)




クマ撃退スプレーのトウガラシ臭 [米田一彦]



話:米田一彦


 私はこれまでに1,000回以上クマに会っている。そして8回襲われた。いずれも重大事故にはならなかったのは、経験によってクマの動きが読めたからだ。クマはむやみに人を襲うことはないが、さりとてカワイイぬいぐるみでもない。



 今年は暖冬だった。クマたちはすでに動きが活発になっているはずだ。雄グマのアトラスの越冬場所の記録を取るためひとりで山に入った。雪は暖かさでざくざくに腐り、足を取られる。ヤブも難儀だ。

 受信音を頼りに越冬穴を探す。雪のない小さな尾根からひょいと顔を出すと、5mほど先の切り株の下からアトラスが顔を出していた。足音や受信音ですでに私の接近に気がついていたらしい。アトラスは私をにらんでいた。しまった、近すぎた。

 私はずるっと転げ逃げたが、ヤブのつる植物に体を巻かれてクモの網にかかった虫同然である。意を決してクマ撃退スプレーをアトラスに向けた。アトラスが、フオーと息を荒げて向かってきた。あと3mだ。一瞬、アトラスを捕まえるときに手こずった記憶がよみがえった。


 


 スプレーのレバーを押した。黄色い液がほとばしり、アトラスの顔を直撃する。彼のスピードが少し落ちた。私はそのとき不思議なくらい落ち着いていた。スプレーを両手で固定し、噴射を続けた。残雪もアトラスも黄色に染まっていく。周囲はトウガラシの匂いで満ち、私ののど、鼻、目など、あらゆる粘膜が悲鳴を上げた。

 アトラスが攻撃を止めた。絞り出すようにウッオーンと叫び、前足で顔をぬぐった。そして、くるりと体をひねると、残雪をけ散らしながら、斜面を走り去った。

 しばらくすると足ががたがた震え出した。のども目も鼻もひりひりする。ヤブを抜けると、私はアトラスに負けないほどの速さで斜面を転げ走った(1990年4月5日 秋田県大平山)





引用:米田一彦『山でクマに会う方法 (ヤマケイ文庫)


2015年5月14日木曜日

秋山郷と秋田マタギ [服部文祥]



話:服部文祥




かつて雪国では、カモシカを獲るのに鉄砲を使わなかった。カンジキを履いて、深い雪に追い込めば、棍棒で殴れたからである。昨年、秋山郷の山里をスキーで歩いたときも、出会ったカモシカを戯れに追いかけたら、すぐに追いついた。条件によって人間が四つ足動物より速いことを体験するのはおもしろい。





秋山郷(新潟と長野の県境に位置する山奥の集落群)には、80歳前後の古老が五人おり、その一人に話を聞いたところ

「最近はぜいたくになって、ヒエやアワにおかずもつける。昔はもっとナラとトチを食べたものだ」

と言ったと『秋山記行』にある。越後の文人、鈴木牧之は1828年に秋山郷を六泊七日で旅して同書を記した。秋山郷には江戸時代に秋田の旅マタギが住み着いていたという。秋山郷にのこる狩猟文化は、秋田マタギと土着の狩猟が融合したものだ。


 


秋田マタギは鈴木牧之の求めに応じて宿を訪れた。「齢は三十とも見え、いかにも勇猛なる骨柄に見うけぬ」タフガイは、その生活を語る。

塩とわずかな米、鍋と椀を数個もち、イノシシや熊の毛皮でつくった衣を着て、ほとんど道のない中津川をさかのぼり、魚野川に入る。小屋がけして尺岩魚を釣り、一度に数百 尾を背負って草津の湯治場へ売りにいく。吊り天井方式の罠でケモノを獲り、塩漬けにして肉や皮も売る。山籠りは三十日間。肉と魚を食べ続けるため、山里に下りてくると穀物が食べたい、と笑う。









引用:岳人 2015年 06 月号 [雑誌]
服部文祥「信越国境 秋山郷 フクベの頭1503m」



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山形小国 五味沢マタギ

鈴木忠勝と白神山地 [根深誠]

山に消されるもの [服部文祥]




2015年3月21日土曜日

「狩猟をして思ったこと」 [瑛太]








瑛太「目の前で鹿が死んでいくのを見たときは、正直言葉にならなかった。感覚としてはショッキングだった。頭の整理が全然つかなくて、それは今もあまりついていないです」

服部文祥「そんなに?」

瑛太「まず一頭目を服部さんが撃ったとき、一歳半って聞いて自分の娘の顔が浮かびました。それから今まで普通にスーパーでかっていた肉のこととか、焼肉屋で食べているハツって、目の前にある心臓だよなとか、これまで何気なく見てきた光景がものすごい速さで頭の中を巡るのに、答えがみつからない」

服部「確かに”今まで食ってた肉は何だったんだろう”って思うよね、誰が殺した肉なんだって気づかされる。俺はそれを自分でやったらどう感じるのか知りたくて狩猟を始めたんだけど、一頭目は同じように結構ブルーになったよ。結局どう肯定しようと思っても”殺し”だからさ、100%の肯定はできない」

瑛太「肉の背景を知ったという単純な話じゃない気もしますよね。だって、”牛肉おいしいな”って言ってる子供たちに、その前に生きている牛や屠殺現場を見せればいいってものでもない。自分自身も今はまだ道徳観とか秩序みたいなものに引っ張られているのかなとは思うけど、かといって本当の感覚が何なのかもわからない」



 



服部「うちの子供たちは結構ドライになったかな、狩猟者っぽいっていうか。家で飼ってるニワトリにも愛情はちゃんと注ぐけど、食べるときは食べる。そこは別に考えている感じがする」

瑛太「僕も小学校の頃から狩猟や解体を見ていたら、ドライになってたんですかね」

服部「どうだろうな、俺は30歳でサバイバル登山を始めて、35歳で狩猟を始めたけど、肉の背景を知らなかったっていうショックと同時に、間接的に殺しを買っていることをまったく疑問に思わなかった自分にもショックだった。”あぁ、俺こんなことも知らないで30歳になっちゃったのか”ってさ」

瑛太「魚とか鳥だったらここまでショックではなかったかも。でも鹿は身体の造りとか筋肉の付き方なんかが人間に近いから、感情に入り込んでくるものが大きい。そうやって理屈で自分に言い聞かせようとするんだけど、もう理屈ではないというか」

服部「狩猟免許に興味あるって言ってたじゃん?」

瑛太「あります。けど単純な憧れじゃ踏み込めない世界だと思いました」







 服部「それはなんでだろう。見た目? 匂い?」

瑛太「匂いに抵抗はなかったですね、なんというか、責任感…」

服部「追う撃つは面白い。でもそれで終わりじゃない」

瑛太「それは本当にそう思いました。自分で撃って、解体するところまで全部やらないと、結局重要な部分は見えてこない気がした。登山でもそうじゃないですか、キツイ場面で、もう帰りたい、なんでこんなところに来たんだろうって思うけど、いざ山頂に立って帰り道になると、また来たいなって考えてる。狩猟もそうなのかなって…。とくに解体はしっかりとした信念というか、ブレのない気持ちでやらなきゃなとは思いましたね。例えば曖昧な気持ちでナイフを持って、『え、次どうするんですか? この次はどうすればいいですか?』って、そんなじゃあ体を切り刻まれてる方はたまらないだろうなと」

服部「そういう気持ちがあるなら、それで充分でしょ。獲物に対して失礼ではないと思う。最初はみんな下手くそだから、自信を持ってやればいい。スポーツでも狩猟でも、自分ができることを100%出せば相手に対して敬意も伝わる。俺は鹿も弱い奴とかズルい奴に殺されたらなんとなく無念なんじゃないかなって思うから、獲物に恥じないように、いつも強くありたいと思ってる。まぁ、銃を使っている時点ですでにズルいし、鹿が無念だとかは考えてないかもしれないけど」

瑛太「それは俳優も一緒ですね。100人規模とか現場が大きくなっていくと、瑛太さん、瑛太さんって言ってくれる人もいるけど、どこかで自分は偽物なんじゃないかっていう心のしこりみたいなものは一時期ありました。でもそういう迷いを抱えてたら、結局自分の行為に自信が持てなくなるし、それは期待してくれる人に申し訳ないなって、最近はそういうのも全部自分で引っ張っていけると楽しいなと思うようになりましたね」



 



服部「そういえば、今日思ったけど、双眼鏡で鹿探したり、スリングで引き上げたり、様になってたな」

瑛太「『サバイバル登山入門』はかなり読みました。この本がきっかけで、サバイバル登山が流行ったら、どうします?」

服部「大丈夫、流行んないから」

瑛太「でも、このまま文明が行き過ぎたら、自然回帰みたいな流れもあるんじゃないですか?」

服部「流行っても、登山である限りは大丈夫だよ。人間が生物の力でできることは限られてるから。荷物背負って歩くということが、そのまま抑止力になる。しかも冬のサバイバル登山って想像以上に寒いから、みんなやらないよ。でも狩猟だけだとただの殺し屋みたいでそれも嫌だし、やっぱり登山がいいなぁ」







 瑛太「今回の体験はまだうまく言葉にならないけど、それとは別に、肉は食べるとおいしいですね」

服部「そう、そこが重要。うまいから救われるし、許される」

瑛太「でもショッキングな光景はまたすぐ戻ってきたりして…、”いただきます”って、そういうことなのかなとも思いました」

服部「うまいことまとめるじゃん。でも、そのうちその”いただきます”も疑うようになる。いただきますって言えば獲物殺しは許されるのか。昼間の心臓の儀式といっしょ」

瑛太「難しいですね」

服部「難しいけど、肉はうまい。いろいろ考えるのが人間の特権かな。考えればそれだけ登山も深くなるし、何も考えないで登るよりは、格段に面白いと思う」

瑛太「また一緒に山に行きましょう」

服部「つぎは夏だな、次回イワナ釣り編。休みとれるの?」













(了)






引用:岳人 2015年 04 月号 [雑誌]
瑛太 × 服部文祥
対談「サバイバル登山、狩猟をして思ったこと」




2015年3月18日水曜日

いまから「猟師」になりたい人へ



千松信也「ぼくは猟師になった



「まえがき」より



 僕が猟師になりたいと漠然と思っていた頃、「実際に猟師になれるんだ」と思わせてくれるような本があれば、どれほどありがたかったか。確かに、世の中に狩猟の技術に関する本やベテラン猟師の聞き書きのような本はありますが、「実際に狩猟を始めてみました」という感じの本は見たことがありません。ましてやワナ猟に関する本は皆無に等しいです。実際の狩猟、猟師の生活をひとりでも多くの人に知ってもらえたら、と前々から思っていたことも本書の執筆の動機でした。

 狩猟というと「特殊な人がする残酷な趣味」といった偏見を持っている人が多いです。昔話でも主人公の動物をワナで獲る猟師はしばしば悪者として描かれます。また、狩猟をしていると言うと、エコっぽい人たちから「スローライフの究極ですね!」などと羨望の眼差しを向けられることもあります。でも、こういう人たちは僕が我が家で、大型液晶テレビをお笑い番組を見ながら、イノシシ肉をぶち込んだインスタントラーメンをガツガツ頬張っているのを見ると幻滅してしまうようです。僕を含め多くの猟師が実践している狩猟は、「自分で食べる肉は自分で責任を持って調達する」という生活のごく自然な営みなのですが…。いろいろな意味で、現代の日本において猟師は多くの人々にとって遠い存在であり、イメージばかりが先行しているようです。

 そこで本書では、具体的な動物の捕獲法だけでなく、僕がどういうきっかけで狩猟をしたいと思い、実際に猟師になるに至ったのかも詳しく書いています。また、獲物を獲ったり、その命を奪った時、そして解体して食べた時の状況をなるべく具体的に書き、その料理のレシピなども紹介しました。本書を読んで、少しでも現代の猟師の生身の考えや普段の生活の一端を感じていただけたらありがたいです。そして、僕より若い世代の人たちが狩猟に興味を持つきっかけになれば、これ以上うれしいことはありません。







「あとがき」より





 本書で紹介した狩猟の方法や鳥獣の解体の仕方、調理法などは、あくまでも僕が師匠から教わったことを参考にしながら実践している方法です。他の地域にはまた違った狩猟法や解体の仕方が伝わっていますし、様々な伝統もあります。僕自身もまだまだ修行中の身で、決してこれが正しい完成されたやり方というわけではありません。本書は僕が狩猟を学んでいくなかで試行錯誤しているその途中経過の報告ぐらいに考えていただけるとありがたいです。新米猟師の書いたことと、大目に見ていただければと思います。

 七度目の猟期を迎えて思ったのは、やはり狩猟というのは非常に原始的なレベルでの動物との対峙であるが故に、自分自身の存在自体が常に問われる行為であるということです。地球の裏側から輸送された食材がスーパーに並び、食品の偽装が蔓延するこの時代にあって、自分が暮らす土地で、他の動物を捕まえ、殺し、その肉を食べ、自分が生きていく。そのすべてに関して自分に責任があるということは、とても大変なことであると同時にとてもありがたいことだと思います。逆説的ですが、自分自身でその命を奪うからこそ、そのひとつひとつの命の大切さもわかるのが猟師だと思います。

 猟師という存在は、豊かな自然なくしては存在しえません。自然が破壊されれば、獲物のいなくなります。乱獲すれば生態系も乱れ、そのツケは直に猟師に跳ね返ってきます。狩猟をしているときは、僕は自分が自然によって生かされていると素直に実感できます。また、日々の雑念などからも解放され、非常にシンプルに生きていけている気がします。








ソース:千松信也「ぼくは猟師になった



2014年11月23日日曜日

山形小国 五味沢マタギ







 温暖化による寡雪傾向の近年でこそ目撃例があるものの、古来雪国ではイノシシや日本シカは生息していなかった。深い雪が彼らの侵入を許さなかった。ウサギやムササビなどの中型獣や、捕獲を禁じられているカモシカをさておけば、食用に供される大型獣はツキノワグマしかいなかった。

 そのツキノワグマは、捨てる部分が皆無といっていいほど利用価値の高い野生動物であった。山間の乏しいタンパク質を補うための肉をはじめ、毛皮や熊胆(ゆうたん)は高値で換金され、骨でさえ乾燥して粉末にしたものが、打ち身や血圧の薬として、余すところなく利用されたのである。

 小国(山形県)の熊猟が春の巻き狩りの形態を採ったのは、飯豊連峰や朝日連峰の広大な山容と無縁ではない。冬眠を終え、芽吹き前の残雪の山裾に這い出した熊を狙うには、集団で追う方法が効率的だったのだ。







 早朝のマタギ小屋に、まるで地の底から湧き上がるように、鉄砲ぶちたちが集まってきた。それはまるで、平時は農作業に従事していながら、戦となると鍬や鋤を刀や槍に持ち替えて戦場に走る、戦国時代の農民の姿を見る思いであった。どの猟場に入るにせよ、近くにある「山の神」の標にお神酒を捧げて手を合わせるのは、マタギ猟のさまざまなしきたりが緩和されつつある近年でも、欠かしてはならない儀式である。

 現代の巻き狩り猟は、従来のように勢子(せこ)を配して獲物を追い込む形ではない。時代は、スコープを装着した射程300mを超えるライフル銃と、トランシーバーと双眼鏡による近代戦といってもよい。熊をどう追い込み、どう仕留めるかの臨機応変の対応は、父や祖父や歴代の親方たちから伝えられたものだ。そのなかには、マタギならではの危機管理術も含まれる。昼飯を半分しか食わず、残りは安全圏に下ったときに食べるという習慣などは、ほんの一例にすぎない。

 獲れても獲れなくても、早く山を下りても、それが深夜になろうとも、マタギ小屋であらためて解体をしてから、熊鍋を囲んで反省会が開かれる。むろん、反省会という名の宴会である。それはまるで梁山泊もかくやと思えるほどの熱気であった。







 朝日連峰を自在に駆けめぐって春熊を追う五味沢マタギだが、近年になって、憂うべき事態が起こっている。熊の山里への大量出没という側面もあるが、野生動物を保護しようとする観点から、春熊猟を禁止すべきではないかという声があることだ。

 熊が棲むということは、山の豊かさの証明である。しかし、その麓では、豊かさが生み出した熊の脅威と戦い続けた歴史があった。山里の作物を荒らし、ミツバチの巣を狙い、ときには人々を襲って危害を加える熊から生命と暮らしを護るために編み出されたがの、春熊猟という伝統の狩猟形態である。その熊を、雪国の人々は山の幸として用いたのだ。

 あまり知られていないが、山形県は全国に先駆けてツキノワグマの生息数の調査を行った県である。そしてその調査を、熊の生態に詳しい小国のマタギたちに委託したのは、先見の明であった。小国の春熊猟は、予察駆除と呼ばれる害獣駆除の一環である。予察駆除は、あらかじめ害をもたらすであろう熊の頭数を予測して捕殺するのだが、その害獣駆除という呼び名が、換金目的だとか残酷だとの批判に繋がるのだろう。



 けれどマタギたちは動じない。彼らは伝えられこのゆきたままに、小国の山々の熊という資源を持続的に利用し、山里を守るために猟を行っているだけだ。その根拠として、毎年七頭ほど捕殺するが、熊は増えてもいないし減ってもいないという現実がある。

 ことは人間と熊という、単純な図式では語れない。熊を育てる山や森があり、そこに人々の営みが介在し、両者が相乗しあって構築してきた山里の文化がある。何世代にもわたって熊を撃ち続けるということは、すなわち自然を壊さずに永続的に山と付き合う技を引き継いでいくということでもある。里に近づく熊さえも撃つなという声は、山を知らず、山里の暮らしを知らない野生動物保護論者の主張なのだと思う。

 むしろ憂うべきは、ひと昔前は、各家に銃があり、百人を超えていたマタギ集団が、いまでは30人を割っているという現実だろう。このままでは、熊よりも先にマタギたちが滅んでしまうかもしれない。もしそうなってしまったら、熊の生態を詳しく知る集団は消滅する。この豊かな森に畏敬の念をもって接してきた地元衆の伝統が消えることは、よくよく考えれば熊にとっても不幸なことなのではないだろうか。



 山里に住む人々が、山に背を向けるようになって久しい。生活の場は変わらないとしても、暮らしのために分け入らなくなった山がそこにあり、林道だけが奥へ奥へと延びていく。それは山の恵みと里の人々が豊かに共存していた時代とは、異質のものだ。その歪んでしまった空間から、熊が里に迷い出てくる。

 それでも、マタギたちが熊との関係を持っているうちはまだいいが、やがて彼らが滅んだとき、山と里の断絶がさらに深まる。山と里の乖離が深まったとき、そこに待っているのが荒廃という名の共倒れだとしたら、あまりに悲しい。

 私には、銃を手にして山中を駆ける五味沢マタギたちが、変貌しようとする山里の暮らしを護るために、孤軍奮闘しているように思えてならないのである。彼らは、山を畏れ森の恵みに感謝するという、山里の精神文化の、最後の伝承者たちかもしれない。














出典:岳人 2014年 12月号 [雑誌]
山形県小国町 五味沢マタギ「熊が目覚める早春の山へ」




鈴木忠勝と白神山地 [根深誠]



〜話:根深誠〜





 故郷の「ヤブ山」、いまでは白神山地と呼ばれて「世界自然遺産」に登録されている山々における作法を私に教えてくれたのは、鈴木忠勝(1907〜1990)だった。彼との知遇を得たのは、その点で幸運の一言に尽きる。

 山中の小さな杣(そま)小屋を根城に四季折々、狩猟採集漁労に明け暮れ、自然と向き合い、自給自足型の生活を営んで生涯を終えたのだ。マタギの所以たるさまざまな伝承や戒律、迷信の類に生きた、地元でマタギと誰もが認める最後の人だった。亡くなるまで、鈴木忠勝と私との親交は十年あまりに及ぶ。私の白神山地に関わる知識の大半は彼から得たもので、その存在は私にとって崇敬に価するほど深くて大きかった。

 私は自分の知らない沢の名前や伝説、杣道や滝の巻き道、薪の火のつけ方、といった、地元の山の自然と人に関わる卓越した知識を得ることで、「ヤブ山」独特の味わい深い魅力を肌で感じ取れるようになった。ナタメにしてもそうなのだが、それはいま世間でいう非難を伴った「切り傷」や「らくがき」などではなく、山に生きた杣人たちの生活の痕跡であり匂いなのである。

 シカリというのはマタギのリーダーである。鈴木忠勝はシカリだったが、私と知り合ったころ膝を病んで入退院を繰り返し、歩行に困難をきたしていた。鈴木忠勝とともに出猟した村人たちの何人かとは何度も山を歩き、山で寝食をともにした。村の杣人たちも言葉少なに鈴木忠勝の威厳を認めていた。「忠勝はすごい、あれは山の神みたいなもんだ」。私が鈴木忠勝から教わった知識は村人たちも詳しくは知らない伝承が多かったので、村人たちは私には一目置いていた。それと同時に、私の山での達者な歩き方を見て、誰もが驚いた。私はある時期、全精力を山に傾注していたのだから、それもやむを得ないだろうなどと思っていた。「昔取った杵柄」である。







 しかしである。あれは初夏のころだったが、村人とふたりでブナ木立に腰を下ろして休んでいたときだった。涼風が汗ばんだ肌をかすめて、心地よい葉ずれの音をたてながら緑の樹冠を渡っていく。

「ああ、いい風だ。風が見えるようだな」

 樹冠を見上げながらつぶやいた、村人のこの一言に私はショックをうけた。風が見える…、こういうショックを「頂門の一針」とでもいうのだろうか。私は自分の感性の貧しさ、無知さ加減をどうしようもなく恥じた。



 また、こんなこともあった。ブナ林のなかを歩いていると、何年かにいっぺん、葉のいじけたブナを目にすることがある。

「どうしてか、わかるかな。去年、実をつけたんだ。栄養分が実に吸収されて衰えているんだ。元に戻るには何年間かかかる。子供を産んだ母親もそうだろう。やつれているんだ」

 私とは自然の見方、捉え方がまったく異なるのだった。私には生活を基盤にした自然観が身についてはいなかった。鈴木忠勝は、生活と自然が融合していたそうした時代との過渡期に生きねばならなかった、村で最後のマタギだった。時代の変遷とともに、すでにそのころマタギなる存在を支えている規範は、もはや形骸化しつつあったのだ。鈴木忠勝は私にこう語っている。

「いまはもう山の生きものたちを、たとえば毛皮とか肉とか、あるいは薬などの形で直接利用することも少なくなった。マタギもいなくなったし、わしらの生活も変わってしまった」



 白神山地のブナの森林地帯は、発生年代が七〜八先年前の縄文時代に遡る、ということだが、その悠久の歳月を人とともに生きてきたことに想いを馳せるなら、山の自然はそこを利用して生きねばならなかった杣人たちの形見であり文化的遺産ということになる。

 二百年、三百年の歳月をへて、丈を競うように亭々と林立する白神のブナの森のなかに、細々と延びる杣道。その杣道を、昔の杣人たちの生活の匂いを残すナタメをたどりながら歩く愉しみは、恵み豊かなブナの森ならではのものである。森のなかは明るく、健全であり、ブナ特有の白っぽいすべすべした樹肌や、さやさやと渡る爽風を孕(はら)んだ緑の樹冠が織り成す包容力のある佇まいに私たちは癒され、ホッとする。感性が触発されて心身ともに若返るのである。

 鈴木忠勝とその仲間たちの杣人たちも同じように味わっていたであろう、そのはつらつとした自然との交感こそが、世代を超えた魅力であ価値である。














出典:岳人 2014年 12月号 [雑誌]
根深誠「懐かしい山と人」



2014年8月26日火曜日

なぜ犬はウンコを食うのか? [角幡唯介]




〜話:角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)〜



今年のグリーンランド行は犬を一匹連れて行った。犬を連れて行ったのは、白熊が現れたときに番犬として働いてもらうためである。以前、北極圏を2ヶ月ほど歩いたとき、白熊が二回ほど就寝中のテントにやって来て、嫌な思いをしたことがあった。犬ならきっと吠えてくれるだろう。

犬と長い時間を共にしていると、思わぬことが次から次へと起こって面白かった。旅をはじめてホームシックにかかったり、その日の気分によって全然働かなかったり、明らかに私のことをナメているとしか思えない顔をしたり。



犬を見ていちばん不思議だったのは、「どうしてあいつらはあんなにウンコを食べたがるのだろう」ということである。

出発してしばらくの間、とにかく犬は私のウンコを食べたがった。朝食の後に便所穴で用を足し、上から雪をかぶせて穴を閉じるのだが、犬は必ず撤収作業中にその場所を嗅ぎつけ、猛烈な勢いで掘り返してバクバクと食べてしまうのだ。

ドッグフードには見向きもせずに、私のウンコには物凄い勢いで興奮して駆け寄ってくるのである。これは困る。ウンコに味をしめてそのままドッグフードを食べなくなると、荷物が全然軽くならないからだ(橇には40kgものドッグフードを積んでいた)。



不思議なことにこの犬、私のウンコはバクバクと食べようとするくせに、自分のウンコに対しては非常に潔癖だった。普段はなるべく自分の寝場所から離れたところにウンコをしようとする。自分のウンコを食べないところを見ると、自他に関して何らかの区別はつけているらしいのだが、その基準がよく分からない。

そんな犬の姿を見ているとどうしても、ウンコっておいしんだろうか…という疑問がわいてくる。そこで試しに私もスプーンですくって食べてみたのだが…、というのはさすがに嘘だが、ウンコを食べられたら北極を歩くのは楽になるだろうなあ、ということは実際に思ったりした。

自分のウンコは無理にしても、北極を歩いているとカリブーや麝香(じゃこう)牛や白熊のウンコがごろごろしているのである。白熊のウンコが大量に落ちている場所に出くわしたことがあったが、近づいてみるとウンコはすでにカピカピに完全に乾燥しており、臭いを臭いでみると中華料理の乾物みたいでそれほど嫌な臭いはしなかった。そのとき私たちは猛烈な空腹に苦しんでおり、このウンコも食えるんじゃないかと正直少し悩んだ。



ウンコを食料にできる動物は、究極のリサイクル動物である。出しては食って、出しては食ってできるのだから、持っていく食料は一回あたりに消化して漸減するカロリーや栄養分だけでいいことになる。

犬や豚のように人間にもウンコをおいしいと思える味覚があれば、世界的な食料問題も解決し、地球平和にもつながるのに、なぜ人間はウンコを食べることができないのだろう。









出典:BE-PAL (ビーパル) 2014年 09月号 [雑誌]
角幡唯介「ウンコについて今、悩んでいること」