2015年6月19日金曜日
クマ撃退スプレーのトウガラシ臭 [米田一彦]
話:米田一彦
私はこれまでに1,000回以上クマに会っている。そして8回襲われた。いずれも重大事故にはならなかったのは、経験によってクマの動きが読めたからだ。クマはむやみに人を襲うことはないが、さりとてカワイイぬいぐるみでもない。
…
今年は暖冬だった。クマたちはすでに動きが活発になっているはずだ。雄グマのアトラスの越冬場所の記録を取るためひとりで山に入った。雪は暖かさでざくざくに腐り、足を取られる。ヤブも難儀だ。
受信音を頼りに越冬穴を探す。雪のない小さな尾根からひょいと顔を出すと、5mほど先の切り株の下からアトラスが顔を出していた。足音や受信音ですでに私の接近に気がついていたらしい。アトラスは私をにらんでいた。しまった、近すぎた。
私はずるっと転げ逃げたが、ヤブのつる植物に体を巻かれてクモの網にかかった虫同然である。意を決してクマ撃退スプレーをアトラスに向けた。アトラスが、フオーと息を荒げて向かってきた。あと3mだ。一瞬、アトラスを捕まえるときに手こずった記憶がよみがえった。
スプレーのレバーを押した。黄色い液がほとばしり、アトラスの顔を直撃する。彼のスピードが少し落ちた。私はそのとき不思議なくらい落ち着いていた。スプレーを両手で固定し、噴射を続けた。残雪もアトラスも黄色に染まっていく。周囲はトウガラシの匂いで満ち、私ののど、鼻、目など、あらゆる粘膜が悲鳴を上げた。
アトラスが攻撃を止めた。絞り出すようにウッオーンと叫び、前足で顔をぬぐった。そして、くるりと体をひねると、残雪をけ散らしながら、斜面を走り去った。
しばらくすると足ががたがた震え出した。のども目も鼻もひりひりする。ヤブを抜けると、私はアトラスに負けないほどの速さで斜面を転げ走った(1990年4月5日 秋田県大平山)
引用:米田一彦『山でクマに会う方法 (ヤマケイ文庫)』
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