2014年12月12日金曜日

スキーという空っぽの時間 [Fall Line]


話:石橋仁


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 月山エリアには数年前からキャットを使ったツアーが行われており、もちろん僕らもこの恩恵にあずかることにした。志津温泉五色沼のほとりから出発したキャットは、姥沢小屋まで標高差500mを約50分で運んでくれる。もしラッセルで歩けば、と考えるだけで太ももの筋肉がけいれんを起こしそうだ。

 今朝は放射冷却でぐっと冷え込んでいる。初めて月山上空が青空に包まれている。キャットがつづら折りの林道を走るごとに雪の締まった音がする。振動がくる。景色が揺れる。そして視界の正面に、初めて目にする月山のたおやかな山容が回り込む。ため息のような感嘆が自然と出てしまう。

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 姥沢小屋で降りると、正面に夏スキーで有名な月山スキー場のリフト架線がかろうじて見える。リフト支柱のほとんどは雪に埋もれているのだ。周囲を見渡すと足下に夏季の宿の屋根が覗いている。大げさではなく積雪が10m近くあるのではないだろうか。豪雪ぶりが半端ではない。

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 やや視界が悪くなってきた斜面に、先ずは石沢さんがシュプールを刻む。月山を知るガイドらしくひょうひょうと小気味よいテレマークターンで斜面変化の向こうに消えていく。さすがに滑りが安定している。どっしりと、地元に腰を据えた姿を滑りに転写したようだ。すかさず無線が入る。

「視界は悪いけど雪は安定しています。いいですよ〜」

 いやはや、滑っていくときに「うひょうひょ」と奇声が聞こえていたので、雪が悪いはずはないとは判っていたが、無線連絡のお陰で確信が持てた。大きく滑ろう。先ずは一本、記念すべき月山の大斜面にターンだ。

 スキー場のリフト架線が遠く見え隠れしている。石沢さんのトレースを右に見ながら、少しでも斜度のありそうな左に寄って滑る。時折底に当たるのは硬く締まった雪だろうか。ゆるやかで広大、たおやかな肌を滑る。たまらない。雪は軽い。深い。スキーは走る。シャラシャラと音がしそうな雪質だ。思わず口元が緩む。

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 滑り終えて振り返るとようやく気が付いた。明るい森の正体は、ブナの大木が連なる森だった。僕が月山で滑りたかったのは、まさしくこのブナの原生林だったのだ。

 遠くまで透き通るようなブナの大木、疎林。樹齢200〜300年くらい経っているだろうか。先日滑った杉の人工林が人間の営みを感じる林ならば、このブナの原生林は神のいぶきを感じる森だ。古(いにしえ)の人々が萬(よろず)の神を見出し、信仰し、畏れあがめたのは、きっとこのように深く、樹々が幾重にも重なったような森だったのだろう。

 僕ははっと息をのんで立ち止まらずにはいられなかった。美しい。

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 ブナという樹は木材としての用途があまりなかったために、切られずに残されたともいわれている。もちろん人里近いブナ林は皆伐されて人工林に変えられたり、また宅地開発されたりして、人間が利用できるものに造り替えられた経緯はある。

 しかし今、目の前に広がるブナ原生林のように、利用価値がないとされ見放されたものが山に残り、森を育み野生動物を養っている。天然の貯水ダムとなり麓に豊かな湧水をもたらす。訪れる人には憩いの木陰を提供し、心落ち着かせ雄大深遠な気持ちにさせてくれる。人間にとって利用価値がなかったはずの森が、結果として人間の役に立っている。無用なものが用をなしている。

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 このブナの原生林に代表されるように、真の価値とは時代を越えて朴訥と存在し続けるものだろう。一見役立たずの無用なものが、巡り巡ってとても重要な役割を果たしている事実は往々にしてあるものだ。それを理解し、敬い、上手につき合ってきた先人の知恵と財産が、この原生林には詰まっている。

 いまここで自然保護を訴えているのでも、利潤追求を否定しているのでもないが、ただ事実としてブナの森はかつての姿のまま連綿とそこに息づいているということだ。その揺るぎない事実に僕は深く頭を垂れるしかない。

 神聖な信仰の山がそうさせたのか、はたまたブナの枝で頭でも打ったのか、日頃はいい加減で不真面目、スキーさえできれば満足なはずなのだが、いつになく謙虚になり畏敬の念が沸き起こったのだった。

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 雄大なブナの原生林を目の当たりにして、僕はある自己矛盾を感じていた。用途のない木材は結果として人を豊かにしてくれている。しかしスキーは僕に何をもたらしてくれているのだろうか、と。スキーを滑ったからといって何が生まれるわけではない。何の利益もなければ、世の役に立つこともない。ましてや静かな森の動植物が喜ぶはずがない。むしろ迷惑なだけで無意味だ。

 しかし、無意味だからいいのだ。それが面白さの根源にあるのだ。自分自身にとって無用の用をなしているのは、スキーという無意味な行為なのだろう。自己満足で終わらせられるこの空虚があるからこそ、仕事にも打ち込める自分がいる。

 中国の諺にもあるように、器には何もない空間があるから水を注いで溜めることができる。家には空間があるから人が住むことができる。何もない空間があるからこそ、それを象(かたど)っている器や家が機能している。自分にはスキーという空っぽの時間があるから、自分自身でいられるのだ。

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 登り返しては悶々として一本。

 トラバースして答えを捻ってまた一本。

 滑る意味を自問自答しては一本。

 意味はないと結論付けてはまた一本。

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 汗にまみれた思考を巡らすばかりで、理屈も屁理屈も出尽くして、ついには直感的な答えのみが残されたようだ。しかし妙に腑に落ちた。

 石沢さんに声をかけられなければ、あるいは月山の一本の樹になるまで黙々と考えを巡らしながら、滑り続けていたかもしれない。脚はすでに棒になりそうだった。

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 ブナの原生林を延々と降りていく。

 まだ西日は高く、樹々の陰影が進みにくい雪面にくっきりと現れる。影だけ見ていても森の様相が変わってきたことに気が付く。もうすぐ里に降りるのだ。



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ソース:Fall Line 2015(2)




なぜ滑る? [Fall Line]


話:寺倉力


外は静かに小雪が舞っている。山はうっすら見えているが、上部は白い靄に包まれたまま。今日はオープンバーンまで登るより、樹林帯でいい雪を楽しんだ方が賢明そうだ。

そんな朝に思い出すのは一人のスキーヤーの顔。おそらく、彼なら迷いなく上部を目指すことだろう。そして、ホワイトアウトした中でバックルを締め、スキーのテールを雪に刺してフォールラインを向く。いつでもドロップできるその姿勢で、斜面に日が当たるのをひたすら待ち続けるのだ。そのまま2時間以上経過したこともあるという。

「氷像になるかと思った」

と笑うが、日が射すとは限らないのだから、なにも降雪の中を立ったまま待つ必要はない。だが

「日が射した瞬間を逃したくないから」

と彼は言う。冷凍保存されていた良質の粉雪は、日が当たった瞬間から劣化が始まる。滑るなら視界良好を求めたいし、光り輝く最高の状態で新雪を滑るには、そのタイミングしかないと彼は言う。

ご承知の通り、ハイシーズンの新雪は多少日が当たったところでさほどクオリティは変わらないし、太陽が出なくても光があれば滑るに支障ない。常人には理解し難い彼のこだわりは、けれども、滑り手の限りない欲求そのものにも思える。求める程度の違いこそあっても、1本のランにも最高の快楽を追い求める心は、滑り手の本質だ。



「なぜ、そこまでして滑りたいのですか?」

と問われても答える術がないだろう。

それは彼も私たちも同じだ。








ソース:Fall Line 2015(2)



2014年11月23日日曜日

山形小国 五味沢マタギ







 温暖化による寡雪傾向の近年でこそ目撃例があるものの、古来雪国ではイノシシや日本シカは生息していなかった。深い雪が彼らの侵入を許さなかった。ウサギやムササビなどの中型獣や、捕獲を禁じられているカモシカをさておけば、食用に供される大型獣はツキノワグマしかいなかった。

 そのツキノワグマは、捨てる部分が皆無といっていいほど利用価値の高い野生動物であった。山間の乏しいタンパク質を補うための肉をはじめ、毛皮や熊胆(ゆうたん)は高値で換金され、骨でさえ乾燥して粉末にしたものが、打ち身や血圧の薬として、余すところなく利用されたのである。

 小国(山形県)の熊猟が春の巻き狩りの形態を採ったのは、飯豊連峰や朝日連峰の広大な山容と無縁ではない。冬眠を終え、芽吹き前の残雪の山裾に這い出した熊を狙うには、集団で追う方法が効率的だったのだ。







 早朝のマタギ小屋に、まるで地の底から湧き上がるように、鉄砲ぶちたちが集まってきた。それはまるで、平時は農作業に従事していながら、戦となると鍬や鋤を刀や槍に持ち替えて戦場に走る、戦国時代の農民の姿を見る思いであった。どの猟場に入るにせよ、近くにある「山の神」の標にお神酒を捧げて手を合わせるのは、マタギ猟のさまざまなしきたりが緩和されつつある近年でも、欠かしてはならない儀式である。

 現代の巻き狩り猟は、従来のように勢子(せこ)を配して獲物を追い込む形ではない。時代は、スコープを装着した射程300mを超えるライフル銃と、トランシーバーと双眼鏡による近代戦といってもよい。熊をどう追い込み、どう仕留めるかの臨機応変の対応は、父や祖父や歴代の親方たちから伝えられたものだ。そのなかには、マタギならではの危機管理術も含まれる。昼飯を半分しか食わず、残りは安全圏に下ったときに食べるという習慣などは、ほんの一例にすぎない。

 獲れても獲れなくても、早く山を下りても、それが深夜になろうとも、マタギ小屋であらためて解体をしてから、熊鍋を囲んで反省会が開かれる。むろん、反省会という名の宴会である。それはまるで梁山泊もかくやと思えるほどの熱気であった。







 朝日連峰を自在に駆けめぐって春熊を追う五味沢マタギだが、近年になって、憂うべき事態が起こっている。熊の山里への大量出没という側面もあるが、野生動物を保護しようとする観点から、春熊猟を禁止すべきではないかという声があることだ。

 熊が棲むということは、山の豊かさの証明である。しかし、その麓では、豊かさが生み出した熊の脅威と戦い続けた歴史があった。山里の作物を荒らし、ミツバチの巣を狙い、ときには人々を襲って危害を加える熊から生命と暮らしを護るために編み出されたがの、春熊猟という伝統の狩猟形態である。その熊を、雪国の人々は山の幸として用いたのだ。

 あまり知られていないが、山形県は全国に先駆けてツキノワグマの生息数の調査を行った県である。そしてその調査を、熊の生態に詳しい小国のマタギたちに委託したのは、先見の明であった。小国の春熊猟は、予察駆除と呼ばれる害獣駆除の一環である。予察駆除は、あらかじめ害をもたらすであろう熊の頭数を予測して捕殺するのだが、その害獣駆除という呼び名が、換金目的だとか残酷だとの批判に繋がるのだろう。



 けれどマタギたちは動じない。彼らは伝えられこのゆきたままに、小国の山々の熊という資源を持続的に利用し、山里を守るために猟を行っているだけだ。その根拠として、毎年七頭ほど捕殺するが、熊は増えてもいないし減ってもいないという現実がある。

 ことは人間と熊という、単純な図式では語れない。熊を育てる山や森があり、そこに人々の営みが介在し、両者が相乗しあって構築してきた山里の文化がある。何世代にもわたって熊を撃ち続けるということは、すなわち自然を壊さずに永続的に山と付き合う技を引き継いでいくということでもある。里に近づく熊さえも撃つなという声は、山を知らず、山里の暮らしを知らない野生動物保護論者の主張なのだと思う。

 むしろ憂うべきは、ひと昔前は、各家に銃があり、百人を超えていたマタギ集団が、いまでは30人を割っているという現実だろう。このままでは、熊よりも先にマタギたちが滅んでしまうかもしれない。もしそうなってしまったら、熊の生態を詳しく知る集団は消滅する。この豊かな森に畏敬の念をもって接してきた地元衆の伝統が消えることは、よくよく考えれば熊にとっても不幸なことなのではないだろうか。



 山里に住む人々が、山に背を向けるようになって久しい。生活の場は変わらないとしても、暮らしのために分け入らなくなった山がそこにあり、林道だけが奥へ奥へと延びていく。それは山の恵みと里の人々が豊かに共存していた時代とは、異質のものだ。その歪んでしまった空間から、熊が里に迷い出てくる。

 それでも、マタギたちが熊との関係を持っているうちはまだいいが、やがて彼らが滅んだとき、山と里の断絶がさらに深まる。山と里の乖離が深まったとき、そこに待っているのが荒廃という名の共倒れだとしたら、あまりに悲しい。

 私には、銃を手にして山中を駆ける五味沢マタギたちが、変貌しようとする山里の暮らしを護るために、孤軍奮闘しているように思えてならないのである。彼らは、山を畏れ森の恵みに感謝するという、山里の精神文化の、最後の伝承者たちかもしれない。














出典:岳人 2014年 12月号 [雑誌]
山形県小国町 五味沢マタギ「熊が目覚める早春の山へ」




鈴木忠勝と白神山地 [根深誠]



〜話:根深誠〜





 故郷の「ヤブ山」、いまでは白神山地と呼ばれて「世界自然遺産」に登録されている山々における作法を私に教えてくれたのは、鈴木忠勝(1907〜1990)だった。彼との知遇を得たのは、その点で幸運の一言に尽きる。

 山中の小さな杣(そま)小屋を根城に四季折々、狩猟採集漁労に明け暮れ、自然と向き合い、自給自足型の生活を営んで生涯を終えたのだ。マタギの所以たるさまざまな伝承や戒律、迷信の類に生きた、地元でマタギと誰もが認める最後の人だった。亡くなるまで、鈴木忠勝と私との親交は十年あまりに及ぶ。私の白神山地に関わる知識の大半は彼から得たもので、その存在は私にとって崇敬に価するほど深くて大きかった。

 私は自分の知らない沢の名前や伝説、杣道や滝の巻き道、薪の火のつけ方、といった、地元の山の自然と人に関わる卓越した知識を得ることで、「ヤブ山」独特の味わい深い魅力を肌で感じ取れるようになった。ナタメにしてもそうなのだが、それはいま世間でいう非難を伴った「切り傷」や「らくがき」などではなく、山に生きた杣人たちの生活の痕跡であり匂いなのである。

 シカリというのはマタギのリーダーである。鈴木忠勝はシカリだったが、私と知り合ったころ膝を病んで入退院を繰り返し、歩行に困難をきたしていた。鈴木忠勝とともに出猟した村人たちの何人かとは何度も山を歩き、山で寝食をともにした。村の杣人たちも言葉少なに鈴木忠勝の威厳を認めていた。「忠勝はすごい、あれは山の神みたいなもんだ」。私が鈴木忠勝から教わった知識は村人たちも詳しくは知らない伝承が多かったので、村人たちは私には一目置いていた。それと同時に、私の山での達者な歩き方を見て、誰もが驚いた。私はある時期、全精力を山に傾注していたのだから、それもやむを得ないだろうなどと思っていた。「昔取った杵柄」である。







 しかしである。あれは初夏のころだったが、村人とふたりでブナ木立に腰を下ろして休んでいたときだった。涼風が汗ばんだ肌をかすめて、心地よい葉ずれの音をたてながら緑の樹冠を渡っていく。

「ああ、いい風だ。風が見えるようだな」

 樹冠を見上げながらつぶやいた、村人のこの一言に私はショックをうけた。風が見える…、こういうショックを「頂門の一針」とでもいうのだろうか。私は自分の感性の貧しさ、無知さ加減をどうしようもなく恥じた。



 また、こんなこともあった。ブナ林のなかを歩いていると、何年かにいっぺん、葉のいじけたブナを目にすることがある。

「どうしてか、わかるかな。去年、実をつけたんだ。栄養分が実に吸収されて衰えているんだ。元に戻るには何年間かかかる。子供を産んだ母親もそうだろう。やつれているんだ」

 私とは自然の見方、捉え方がまったく異なるのだった。私には生活を基盤にした自然観が身についてはいなかった。鈴木忠勝は、生活と自然が融合していたそうした時代との過渡期に生きねばならなかった、村で最後のマタギだった。時代の変遷とともに、すでにそのころマタギなる存在を支えている規範は、もはや形骸化しつつあったのだ。鈴木忠勝は私にこう語っている。

「いまはもう山の生きものたちを、たとえば毛皮とか肉とか、あるいは薬などの形で直接利用することも少なくなった。マタギもいなくなったし、わしらの生活も変わってしまった」



 白神山地のブナの森林地帯は、発生年代が七〜八先年前の縄文時代に遡る、ということだが、その悠久の歳月を人とともに生きてきたことに想いを馳せるなら、山の自然はそこを利用して生きねばならなかった杣人たちの形見であり文化的遺産ということになる。

 二百年、三百年の歳月をへて、丈を競うように亭々と林立する白神のブナの森のなかに、細々と延びる杣道。その杣道を、昔の杣人たちの生活の匂いを残すナタメをたどりながら歩く愉しみは、恵み豊かなブナの森ならではのものである。森のなかは明るく、健全であり、ブナ特有の白っぽいすべすべした樹肌や、さやさやと渡る爽風を孕(はら)んだ緑の樹冠が織り成す包容力のある佇まいに私たちは癒され、ホッとする。感性が触発されて心身ともに若返るのである。

 鈴木忠勝とその仲間たちの杣人たちも同じように味わっていたであろう、そのはつらつとした自然との交感こそが、世代を超えた魅力であ価値である。














出典:岳人 2014年 12月号 [雑誌]
根深誠「懐かしい山と人」



2014年11月19日水曜日

普段着の旅人 [北欧ラップランド]



森山伸也(もりやま・しんや)36歳


19歳で大学受験のため上京したが、都会の暮らしに危うさを覚える。

生活の根を他人に握られ、お金で片をつける生活に。

「実家が代々つづく農家、とうことがあるのかもしれません」



そんな中、登山に出会った。

「”自然のなかで生きている”という感覚が離れてしまっていました。それを取り戻せたのが、山登りでした」



北緯66.6°

北欧はスカンジナビア半島に広がる荒野「ラップランド」への旅がはじまった。

その広がりには、ルートもルールもなかった。







ツンドラの大地には北極海からの寒風が吹き荒み、真夏にすら吹雪くことがあった。

陰鬱な空の下、踏み跡なき荒野を、空腹のままにトボトボ歩く。

沢水を飲み、メシを食い、テントに眠る。

ひたすら、そんなことを繰り返した。



「一歩、荒野に入ると、歩いて食べて眠るだけ。それが日常の生活なんです。むしろ町のほうが非日常に感じられます」

ラップランドには、ジーンズにセーター、長靴といった「普段着の旅人」が多かった。旅は非日常ではなく、日常生活そのものであった。



荒野の真ん中

地図をもたない老人に出会った。

ときは白夜、そこには時計にさえ縛られない自由があった。



生きていくということは、思ったよりもシンプルなものなのかもしれない。

「少しのお金と元気、バックパックに収まるわずかな道具があれば、世界中のどこへ行っても生きていける。そんな実感があります」



北極圏を3度おとずれた後、長野へ移住した。

「もともと山は狩猟や採集、いわば日常生活の場ですよね。そんな日本の山暮らしをもっと学びたいと思ったんです」

裏山を歩き、薪を割る。山の恵みが日常をうるおす。



「旅のように日常をおくる」

そんなことを思いながら。






(了)






出典:山と溪谷 2014年12月号
森山伸也『北緯66.6°』北欧ラップランド歩き旅




2014年11月18日火曜日

2014アルパインシェルの「ベストバイ」





山と溪谷 2014年12月号より〜


テスター:HOBOJUN

衝撃的だった。これで時代は変わると思った。アウターシェルが新たなるフェイズに突入したことを実感できる一着だ。

本品は柔らかく動きやすいソフトシェルでありながら、全面に防風透湿メンブレンを内蔵していて、ハードシェルに近い防御力がある。さらにすべての縫い目にシームシーリングを施し荒天にも対応。袖口にはカフがないし、ジッパーも通常モデルなので降り続く雨に打たれ続けるとさすがに浸水するが、乾いた雪ならばまず問題ない。僕は小雨ぐらいならこれで出かけてしまうし、先日の台風の際もレインウェアを使わず、終日このシェルでやり過ごしてしまった。そこまでして着続けたのは、ひとえに着心地のよさ故。行動中も食事中も、テントでくつろぐときも脱がずに快適に過ごせる。なんならこのまま寝袋に入ってもいいほどだ。

「完全防水ではないシェルをベストバイにしてよいのか」という自問は強くあったが、それよりも4方向に大きく伸びる素材の着心地と、2万6,000g/m2/24hという高い透湿性能、そして山行のあらゆる場面で着用できる汎用性に軍配を上げた。長期山行にはこの上に着られる軽量レインシェルの携行を勧めるが、おそらく出番はほとんどないだろう。






補足解説:

 このモデルに使われているのは「フッ素系防風メンブレン」を内蔵した柔らかで伸びのある生地。メンブレンというのは「皮膜」という意味で、ソフトシェル(soft shell)のジャケットにこの素材が入ったことにより、ハードシェル(hard shell)との境目を曖昧にした。

 ゴア社の「ウインドストッパー」や、ボーラテック社の「パワーシールド」などがメンブレン入りソフトシェルの代表であり、完全防水とまではいかないものの、小雨や通り雨をしのげるくらいの防御力はもっている。



HOBOJUNは言う。

「僕は昨シーズンから各社のソフトシェルをテストしているが、正直言って『これでいいじゃないか』と思うことが多い。とくに1月2月の乾いた雪の中や、標高の高い山域ではハードシェルを上回る使い勝手のよさがある。とくかくしなやかで動きやすい。だから個人的には『山岳シェル=ハードシェル』という固定観念は、もうすっかり捨ててしまった」






証言:御嶽山、噴火の現場




話:山岳写真家 津野祐次さん


どこにいたかが、生死を分ける分岐点だった。


 御嶽山(おんたけさん)撮影のため、9月27日朝6時ごろ伊那市を出発しました。まず、御嶽山の遠望を撮影するために開田高原の地蔵峠展望台に行きました。御嶽山の山頂部は雲の覆われていたのですが、あとから「あれは噴火の予兆だったのか」と思ったのは、剣ヶ峰付近だけが晴れていて太陽光が差していたことです。

 その後、御岳ロープウェイの山麓駅へ行くと、駐車場はすでにいっぱいでした。ロープウェイには8時10分か15分ごろ乗りました。飯森高原駅からのんびり登り、八合目の女人堂に10時20分着。御嶽山でこれほど多くの登山者を見たのは初めてでした。

 八合目半あたりで雲とガスが抜けて晴れ渡り、紅葉に彩られた山肌と青空が現れました。ガスは時間とともに上昇し、上部は雲の閉ざされることが多いですから、通常はあり得ない光景なんですよ。そのときは「近年の異常気象のせいで晴れたのか」と思い、好天のチャンスに感謝しました。「地熱が上がって山頂上部の気温も上がり、山麓から上昇してきた暖かく湿った空気が飽和され、青空が現れた」とは、考えもしませんでした。

 その先、九合目に向かう途中で地下水が流れるような音が聞こえ、卵の腐ったような臭いもしてきました。噴火の予兆ともいえる異変に、このとき気づくべきでしたよね。


剣ヶ峰直下で噴火に遭遇


 稜線に出て剣ヶ峰へ登る途中で、前方にもくもくと雲が湧き上がったかと思うと、生き物のように激しく上下しながら広がりました。「入道雲にしてはおかしいな」と思いました。そして不謹慎ですが「とても美しい」と感じました。それで思わず写真を撮ったんですが、撮った瞬間、花火のような爆発音がして噴火だと気づきました。周りにいた登山者は「噴火だー」「走れー」などと言いながら逃げ始めましたが、ザックからカメラを出して写真を撮ろうとしている人もいましたね。僕も写真をもう一枚撮って逃げました。

 あとで写真を見たら、噴火時、目視できる範囲には約60人の登山者が確認できました。皆さん、どうすれば自分の身を守れるかを瞬時に考えて行動したはずですので、まずは近くにある山小屋に向かった方が多かったと思います。御嶽頂上山荘に向かう人も写っていました。僕は少しでも遠くへ行かなければと思い、覚明堂に向かいました。

 尾根上は道幅が広いので走りましたが、ニノ池コースが合流して覚明堂に下る道は、狭いうえに登山者が殺到したため渋滞していました。僕がすごいと思ったのは、渋滞中に「子どもを先に」とか「つまづかないで」とか、皆さん、特に女性がほかの人を気遣う言葉をかけ合っていたことです。われ先に、という人はいませんでした。

 ちょうど覚明堂に入っていく道まで下りたところで噴煙に追いつかれました。周りにいた人の大半は覚明堂に避難したようですが、僕はもっと下に行ったほうがいいと思い、再び走って下りました。だけど30mほど下ったところで完全に黒煙に包まれ、岩につまずきました。それがちょうど九合目にある大きな石柱の前でした。ああいう漆黒の闇を経験したのは、僕は初めてです。自分の手さえ見えませんでした。仕方なくその場でしゃがみ込み、Tシャツの裾で口と鼻を覆いました。

 そのままの体勢で10分ぐらいじっとしていると、目が暗闇に慣れてきて、周囲も若干明るくなったので立ち上がりました。2、3歩歩いたら、男の人がうずくまっていたので「大丈夫ですか」と声をかけたら、「はい」と答えました。「ああ、よかった」と思ってさらに数歩進むと、下から男性が登ってきて、「子どもを見かけませんでしたか」と聞かれました。「いや、僕は気がつきませんでした」と言うと、彼はそのまま登っていきました。その男性を見送った瞬間、再び噴煙に覆われて真っ暗になったので、先ほどのようにもう一度しゃがみました。暗闇の中でしゃがんでいたのは、トータルで20分ほどでした。

 その間は、小さな噴石が体に当たって全身が痛かったです。バラバラと当たるのではなく、滝に打たれるような当たり方でしたね。2回目は1回目よりも少し大きな噴石、なかには5cmぐらいの大きさのものも飛んできました。焼け死ぬほどではないけど、かなり熱い熱風も吹いてきましたし。かと思うと、逆側から扇風機のような涼しい風が吹いてくることもありました。

 いちばん不安だったのは、熱風ではなく、「バシャーン」「バチーン」という音があちこちでして、そのたびん稲妻みたいな光が走ったことです。しゃがみ込んで目をつぶっていて、足元が明るくなるのはわかりました。僕は雷が鳴っているのかと思っていたけど、あとで聞いた話では「大きな噴石同士がぶつかり合って火花が散っていたんじゃないか」と言う人もいましたね。

 大きな石が落ちていく「ガラーン、ガラーン」という音もしていたので、いつ自分に当たるのかと。2回目にしゃがんだときは「もうダメだな」と思いました。それが10秒後なのか5分後なのかはわからないけど、確実に俺はやられるなと思いました。背負っていたザックを頭のほうにずらして頭部をガードしようとも思いましたが、そうすると口と鼻を押さえられないから、火山灰が口の中に入って息ができなくなります。ならば、酸欠になってもがき苦しむよりは、石が当たって一瞬で死ぬほうが楽だと思い、口と鼻をガードするほうを選びました。

 しばらくすると再び周囲が明るくなってきました。積もった火山灰は約30cm。あたりは一面、鉛色の世界と化していました。約2m間隔で立っていた登山道脇のポールは、頭が5cmぐらい出ている程度で、張ってあるロープの弛んだところは灰に埋もれていました。それを見て、「ロープが見えている今なら下っていける。時間がたってもっと灰が積もると下れなくなるぞ」と思ったときに、下の石室山荘で誰かが懐中電灯を振っているのが目に入りました。上に向かって合図を送ってくれたので、「とにかくあそこへ行こう」と思って一直線に駆け下っていきました。

 石室山荘に着いて「中に入ってもいいですか」と声をかけると、「どうぞ、どうぞ、大変でしたね」と言って迎え入れてくれました。中ではオーナーらしき人が、避難してきた登山者にタオルを配っていました。奥さんらしき人も「飲んでください」と言ってペットボトルの水を配り始めました。従業員の人たちが土間じゃないところにブルーシートを敷き、「靴を履いたままでいいですから、上がって休んでください」と声をかけていました。その献身的な対応を見て、すばらしいなあと思いましたね。登山者の皆さんも冷静でした。

 僕は少しでも早く下ろうと思っていたので、口元と鼻を覆うようにタオルで縛り、入口付近にいました。5分ぐらいすると外が明るくなったので、「いま行かなきゃ」と思い、外に飛び出しました。八合目の女人堂の前では、顔が火山灰まみれの登山者8人ほどが、「無事でよかったね」と喜び合っていました。そのときは上でたくさんの犠牲者が出ていることはわかっていません。ロープウェイの飯森高原駅に着いたのが14時。このあたりの降灰は3cmぐらいでしたかね。ロープウェイはやっぱり止まっていました。


生死を分けたもの


 振り返って思うのは、噴火のときどこにいたかが生死を分けたということです。僕は運よくちょっと離れたところにいたから助かったんでしょう。王滝口コースの、王滝頂上と剣ヶ峰の間にいた人は、噴石も大きく、降灰量も圧倒的に多かったはずですから本当に大変だったと思いますよ。

 僕自身への戒めの言葉があるとしたら、何か異変に気づいたら、迷わず一気に引き返すということです。また、火山に登るときはヘルメットぐらい持っていかなければ、と思いました。

 今回の噴火でケガをされた方が、一日も早く完治されることを願っています。尊い命を落とされた方には、心より追悼の誠を捧げます。







(了)






出典:山と溪谷 2014年12月号
御嶽山噴火で知っておきたい「火山」とのつきあい方



2014年11月2日日曜日

山嶽にすむ美の神、「デワ」



〜話:小林秀雄〜




 東京附近の高山と言えば富士山だが、これは登って面白い山ではない。やはり八ヶ嶽が非常な名山で、富士に匹敵するほどの裾野を廻らし、草原から、森林地帯を抜け、岩に出会うという高山の代表的な形を備え、最高峯は三千米近くもあり乍ら、わが国で一番高い鉄道駅から、ぶらりと楽に登れるのが何よりで、私は、飽きず何度も行った。弁当の殻だらけの北アルプスの尾根道を歩いたり、買いたてのピッケルを携えて谷川岳などで馬鹿をみるより余程ましなので、人にも勧めている。



 或る時、もう十一月の初めであったろうか、友達と一緒に、早朝、富士見の駅を下りて眺めると、八ヶ嶽の山頂は、初雪で真っ白であった。その日は夏沢温泉まで行って一泊する積りでいたが、つい暢気(のんき)な歩き方をして、意外に時間を費し、夏沢近くになって、近道をしようと本道を離れた。やがて雪は小径(こみち)を消し去り、登るに連れて深くなる。夕闇は迫って来る。恐らく近道は失敗らしい。

 引き返すのも業腹(ごうはら)で、熊笹の中を、ガサガサと一直線に登って行くと、熊笹の中からポッカリ浮び上る様に、不意に足下に現れた雪で化粧した、すさまじい急斜面を見下し、一同息を呑んで、立竦(たちすく)んだが、真っ白な火口の正面には、三角形の赤嶽が、折からの夕陽を受け、文字通り満身に血潮を浴びた姿で、まるで何かが化けて出た様に、ヌッと立っていた。口を利く者はなかった。お互に顔を見合わせ、めいめいが、相手の顔に自分の蒼(あお)くなった顔を感じた。

 やがて気を取直した深田久弥君が、仕方がない引返そう、カンテラはあるし、今夜は月が出るし、ゆっくり本道を登る事にしよう、と言うのに私は賛成した。山に馴れぬ今日出海君とK君とが同行していたが、非常な衝撃を受けたらしく、今君はすっかり昂奮して了っていて、火口を巻いて硫黄岳へ出ると言ってきかないのを、やっと宥(なだ)め賺(すか)し、茫然としているK君を促して、引返しにかかると、今度は、K君の足が利かない。膝も腰もガタガタになって了ったらしく、それに草鞋(わらじ)の裏が凍ったせいもあり、歩いたと思うと尻餅をつき、その度に、異様な悲鳴を発した。



 それから間もなく、今君の家で、当時の話が出た。今はもう逝(な)くなったが、白髪童顔の今君のお父さんが、傍で、私達の話を聞いていた。今君のお父さんという方は、クルシナ・ムルテを中心とするセオソファーの団体の一員で、現世などには、とうの昔に興味を失い、野菜ばかり食べて、今から何千万年前だとか後だとかいう様な事を、まるで近所の噂でもする調子でいつも話している一風変わった人であったが、あの時の奇怪な印象は、一体どういう事なのだろう、という私達の話をニコニコし乍ら聞いていて、そりゃ「デワ」だ、「デワ」がちょいと出たんだよ、と言った。

 「デワ」というのは、美だとか芸術だとかを司(つかさど)る神様だそうで、山嶽地方に好んで棲んでいるのだそうである。








出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)



アルプス登攀史、最初のヒーロー [ママリー]





 当時(19世紀)のアルプス登山は、地元のガイドを雇い、客となって登るのが普通だった。岩と氷河を攀じる技術において、アマチュアはプロのガイドに遠く及ばなかったからだ。ところが、ガイドより腕のたつ男が、ドーバー海峡を渡ってアルプスに乗り込んで来た。それがママリーだ。

「…彼はひょろっと背が高く、かかしのようにやせており、まるで背骨にどこか欠陥があるみたいに両肩をすぼめていた。おまけにとりわけ悪いことにひどい近眼で、ごく易しい氷河の上さえ、つまずいたりスリップしたりする始末だったのである(『アルプスは再び征服された 』)」

 この優男は、屈強なふたりのクライマーを引き連れていた。一見、金持ちのボンボンがベテラン頼みで登山家を気取っている図に見えるが、さにあらず。3人の中でママリーが最も岩登りが上手かった。彼がいれば登れるが、彼抜きには登れない壁に挑むということだ。目指すエギーユ・デュ・プラン北壁はガイドたちの暮す村からよく見える。シャモニは大騒ぎになった。

 結局この登攀は失敗する。そして絶体絶命の敗退行で、死に直面したふたりのパートナーを無事シャモニまで降ろしたのは、優男のママリーだった。1892年6月12日、アルプスの登攀史に、最初のヒーローが誕生した瞬間である。

「ママリーは、その後二度とプランの北壁を訪れようとはしなかった。翌年彼は、この山の西壁に困難な新ルートを拓いて、そのよく見通しのきく地点から、前の年の偉大なる敗退の舞台を眺めることができた。彼は何度もわが身に問いかけてみた。もしカアがあんなに参ってしまわなかったら、もしもっと食糧や暖かい衣類を持っていたら、あるいは頂上をかちとれたのではなかったか、と。この物すごい北壁をアタックするには、ママリーはあまりにも時代に先がけすぎたのではなかったか? なにしろこの壁がついに征服されるまでに、それからまだ32年の歳月を必要としたのだから!(『アルプスは再び征服された』)

 クライミングの黎明期に、突然現れ、消えて逝った天才クライマー、アルバート・フレデリック・ママリー。









出典:岳人 2014年 11月号 [雑誌]
クライマーのための古書ガイド『アルプスは再び征服された (1976年) (森林選書)



「森林限界を超える高所に人工物を作るな」 [ランマー]




 オイゲン・ギド・ランマーは1863年ウィーン郊外に生まれ、東部アルプスで「登れ、然らずんば死を」といった姿勢で難しい登攀を繰り返した。1879年、16歳のときマッターホルンの西壁に挑み、退却の途中パートナーと共に雪崩に巻き込まれたが、生還し、その後も登山をつづけた。

 ランマーはニーチェの信奉者としても知られ、強い自我による状況の打開を理想とする姿勢から、ピトンやロープの使用に懐疑的だったばかりでなく、落石や雪崩といった危険もクライミングというゲームの一つの要素であるとした。

 また、当時アルプスの地は自然破壊の先進地域であり、地元の登山ガイドたちは固定ロープを張り、山小屋を作ることで顧客を獲得しようとした。ランマーはこれに強く反発してガイドレス登山を唱道し、「森林限界を超える高所に、人工物を作るな」と主張した。

 激しい単独登山を実践した者としては珍しく長生きし、1945年に82歳で没した。生前1923年に、自伝的回顧録”Jungborn”を上梓した(邦訳『青春の泉』は千坂正郎訳で朋文堂から1956年に出版)。



出典:「岳人 2014年 11月号
登山用語辞典 用語No.45 単独行者 Allenganger【独】




書籍「名もなき山へ」 [深田久弥]





「どの山にもどこかに一つは美しい場所がある」

という筆者の言葉には、山に対する想いと、ふるさとへの愛情が溢れている。『日本百名山』で著名な深田久弥による山の随筆集(書評:『岳人 2014年 11月号』)。








2014年11月1日土曜日

小林秀雄と山スキー [志賀高原]



〜小林秀雄「カヤの平」より抜粋引用〜




 発哺(ほっぽ)は大雪だった。サラサラした粉雪が毎日降りつづいた。雲の切れ間、凍る様な夜空に、星と一緒になって長野の灯が見えた。



 着いた翌日、温泉の登り口の谷川の近所で、白樺に貼りつけたビラをみつけた。「発哺毛無間山越スキー淑女コース」とある。奮って参加されたい。但し山スキーに自信あるもの、と書いてある。淑女コースたあなんだろう、いずれそこらに手をつけたのが居ないわけではないという意味かな、と言って笑ったのはいいが、山スキーに自信あるもの、は穏やかでない。天狗の湯主催とある。天狗の湯といえば俺達のいる家だろう、だから、今に勧誘に来るさ、と深田(久弥)は言うが、僕は但し書きが面白くないから黙っていた。

 おい、行ってみるかい、と彼は言う。先だってスキーを始めた許りの僕が行ってみるもみないもないものである。一体深田は僕にスキーを教えているみたいな顔をしているが、決して教えた事はない。そもそもの初めが湯沢に連れて行かれたが、朝まだまっ暗のうちに停車場につくとそのまま宿屋に行かずに、ゲレンデにひっぱられた。はじめはスキーをつけて板を登るのは難しいから、と言って山の上までスキーを担がせ、上で提灯(ちょうちん)の火で、スキーをつける事を教えると、あとは自然の成行きにまかせろ、と言って一人で滑って行って見えなくなった。翌日は岩原のコチコチの雪の山の一番上まで連れて行き、やっぱり自然の成行きにまかせられた。成行き上、自分のスキーで頭に大きな瘤(こぶ)をこしらえ、左の肩を捻挫した。

 深田は「淑女コース」の地図をしらべて喜んでいる。僕は地図をしらべたって始まらぬから、傍でビールを飲み飲み観念していた。吹雪は止まない。止んだら出掛けるらしいが、其後さっぱり勧誘に来ない。それは来ない筈(はず)で、ついた二日目雪の降るなかを焼額山に登った時、天狗の番頭さんが案内してくれたが、その番頭さんが、僕のスキー術を観察してしまったからである。番頭は小林というほうは話にならぬと天狗に言い附けたに決まっている。

 こうなると僕から切り出さないと妙な具合になるから、出発するという前の晩、炉端(ろばた)で話を持ち出すと、案の定天狗は渋った。何しろ淑女コースの事だから、と言った。貴方は曲がれるかねと訊くのである。右なら曲れると僕は答えた。谷川まで降るのに何遍ころぶと訊く。無論何遍などと数え切れるものでないから、今日は四度ころんだと答えた。天狗は最後に千七百米級の山を七つ越えるんだからと脅かした。幸いそんな雪山の概念がこっちにないから一向驚かなかった。部屋に帰ると深田は呆(あき)れた顔をして、図々しい奴だ、と言った。図々しいも糞もない、相手はたかが山だとあきらめているのだ。

 明日出発だというので、土地の青年達が夕方から宿に集って来た。長い間吹雪いたので、大分中止するものも出来たらしい、これくらいの雪でへこたれるんなら、スキーを、へえ、やめなせえ、などと怒鳴って天狗は昂奮していた。屈強な青年達が、大声で話し合い乍ら、薄暗い乾燥室でスキーの手入れに忙しい様をみると、何んとなくこれは大変な事になって了った、と僕は思った。ワックスって奴は要らないかねえ、と心配そうに深田は言うと、アザラシで沢山だ。もし附ける暇もなかったら縄で沢山だ、と取合わない。もうこうなればワックスなど利いた処で大した助けにもなるまいと思って早く寝て了った。



 翌日暗いうちにすっかり仕度をする、主人は背広を着て鳥打(とりうち)などをかぶっている。この爺さんに仲々よく似合う。団体行動について訓示を一席、小便なども勝手にひられては困るから、と念を押した。一行は十三人であった。一列に並んで先発にカンテラをつけ、動き出した。天狗の娘さんが一行に交っていたので大いに意を強くしたが、これは全く誤算で、彼女は番頭なみの腕前で何んの頼みにもならなかった。

 ここで雑魚川を渡りまあす、と天狗の主人が怒鳴る、よく見ると雪の間を川らしいのがチョロチョロ流れている。そこら辺りですさまじい雪のなかの夜明けが来た。見る見る空は青く澄んで来て、雪は潔らかに白くなって行った。岩菅山が全山樹氷に包まれて、桃色の東の空を負って輝やきはじめた。尤(もっと)も、いい景色どころの騒ぎでもなかったのである。

 第一、ラッセルという奴は御免蒙(こうむ)ろうと思って、列のビリから二番目にはさまっていたが、飛んだ考え違いで、先頭がくたびれるとドン尻につくから、知らないうちに心太(ところてん)の様に押し出される仕掛けになって進むのだとは気がつかなかった。膝小僧くらいまでめり込む、二十間(約36m)も歩くと頭がくらくらして来る。下りになると、僕だけが雪の林の中にとり残されて七転八倒する。ラッセルの方がまだましみたいなものである。やっとの思いで林を抜けると、遥か遠くの一行に死にもの狂いで追いつくのだ。大きな山毛欅(ぶな)の木を、両股の間にしっかり抱え込んで、のけ様(ざま)にひっくり返り、僅(わず)かに顔だけが空気に曝(さら)されて、どう力を入れようにもびくとも手足が動かなかった時などは、あたりがしんかんとして来て、やれやれこれで死ぬのかと思った。

 焼額の東側を巻いて熟平に出、カヤの平辺りに来た時には、ヌクヌクと立った山毛欅(ぶな)の肌が紫色に見えた。こいつはいけないと思って頭を振ってみるが、妙にあたりが気が遠くなる様に美しい。兎が方々から飛び出す毎に、一行は喚声をあげるが、こっちはもう兎もへちまもない夢見心地だ。カヤの平を出ると急に眼界が開けて、強い爽やかな風が吹き、まっ白い妙高の姿がくっきりと目の前に現れたが、これでまず半分、これから大次郎山にかかると言われて泣き度くなった。

 大次郎山の手前で、例によって僕一人下りの遅れを取戻そうと泣きの涙で頑張って登って行くと、何処かの大学の山岳部の人だというブーさんとかいう人が、一人一行に遅れて地図を按(あん)じて景色を眺めている。声を掛ける元気もなく一行に追いつくと、これもとある山のてっぺんで行き悩んでいる様子である。ブーさんは道が違うと断定した。天狗主人のいう大次郎は城蔵とかいう山で、主人のいう毛無山というのは高社山だと断定した。高社山というのは確か上林に行く時電車から見えたのを覚えているから、随分馬鹿みたいな間違いだと僕はひそかに考えたが、兎も角評定(ひょうじょう)の間休めるのが何よりで、毛無に出ようが何処に出ようがこっちの能力外に属する事だから、僕は娘さんから飴チョコをもらって四方の景色を眺めた。ブーさんの毛無だというのは、まだ遠くの方で丸くなっていて毛が生えていた。夕暮はもう迫っていた。もう一ッ走りだ、やるべえ、やるべえ、などと青年達が言っている。覚悟はきめているもののいい気持ちではない。

 やがてブーさんという人の主張で、馬曲という部落に下りる事に決った。もう薄闇で凸凹もわからない沢を少くとも僕だけは滅茶苦茶に転げ落ちた。一行からすっかり離れて了った僕に主人と番頭さんが附いていてくれたが五間(約10m)とは立ちつづけていない奴に附いているのだから、ずい分大変な事だったろうが、こっちは何んの因果でと思うとまるで護送でもされている様な気がして無性に腹が立って来て、感動の表情すら不可能なのである。

 道らしいものに出た時にはもうすっかり夜であった。みんなは焚火(たきび)をして僕を待っていてくれた。カンテラの灯を頼りに馬曲について、腹わたに滲みる様な水を飲まされると、どうでももう勝手にしやがれと思った。中村の村についたのは十二時過ぎであった。飯山まで行くという一行にわかれて深田と二人で宿屋に行き、酒を呑み、いい修行になった、など減らず口をきいて寝て了った。



 翌日は昼ごろまで寝て、性懲(しょうこ)りもなく高社山に登って湯田中に下ろうという深田の説に賛成した。スキーコースには赤い旗が立っているという、幸い行けども行けども赤旗が見附からないので、中途から引きかえして、木島の駅に出たから大事に至らずすんだ。上林の温泉につくと久米正雄などの一行がついていて、君達が行方不明になり、半鐘がなって消防が出ちまったと聞かされ、恐縮した。

 翌日、丸池ヒュッテの裏山で滑っていて、エヤーシップの空缶を蹴っ飛ばそうと思い、したたか滑って来てスキーをぶつけたら、カーンと飛ぶどころか、大変な手応えで、もんどり打ってひっくり返った。スキーは折れてけし飛び、向う脛(ずね)を、こいつも折ったと思う程ぶっつけた。白樺の切株だったのである。宿屋に帰って見ると、足が二倍くらいに膨れ上っているのには驚いた。一緒に行った写真屋さんが、脱脂綿にザブザブにヨードチンキをかけて湿布してくれた。療治は少々荒いがこれが一番だという。しみるしみると思うのを荒療治というから仕方があるまいと我慢していたら、すっかり火ぶくれになった。

 東京に帰ってすっかり上が潰れちまったひどい足を、友人の医者に見せたら、呆れ返って、ヨーチンの湿布だなんて非常識な奴だ、馬鹿といった、併しこれが一番だと言ったんだ、誰が言ったんだ、まさか写真屋がとは言い兼ねた。



(昭和九年十月号「山」。原題「志賀高原」)






ソース:小林秀雄「栗の樹




2014年10月29日水曜日

シェルパと石川直樹



〜石川直樹「シェルパの魅力に取り付かれて」〜




 …

 それにしても、それほどまでに石川さんが惹かれる「シェルパ(※1)」の魅力とは、何なのだろうか?

石川「カッコいいな、と。たとえばマカルーに登ったときに、頂上直下で日の出を待っているとき、一緒にいたシェルパが『ちょっとタバコ吸っていい?』ってぼくに聞くんですね。自分は、サミットプッシュ(※2)の日に食糧は何を持っていくか、どのポケットに何を入れるか、もちろん重さのことも気にして細心の注意を払って緊張していくわけです。なのに、彼らの胸のポケットにはタバコが入っていて、頂上直下で一服する。タバコは持ってきているのに、水は凍らせて飲めなくなってしまって、『ナオキ、ノドが渇いたから水をくれないか』なんて言われたり。僕はそれを見て、この人たちは8,500mでも村で暮らしているときも同じ感覚なのかな、と思った」

 山に登る動機そのものが、一般の登山者とはまったく異なるシェルパたち。そんな屈強なシェルパが、ぽろりと「エヴェレストに登頂することなんかより、冬場のヤクの世話のほうが、ずっと大変なんだ」と話すとき、石川さんの心はグッと彼らに惹きつけられる。そして、彼らの生活のようすや、彼らの文化をもっと知りたいという気持ちが、ヒマラヤの山嶺へと向わせる。



 世界のことを知るために、山に登ったり川を下ったりしているだけだと言い切る石川さんだが、そうは言いつつも、8,000m級の登山の楽しさは、もちろん感じている。体をぜんぶ使い果たすというこの感覚は、水平方向の旅では得られない充実感に満ちているという。

石川「暑かったら冷房をつけて、寒かったら暖房をつけて、というように、周りの環境を変えることはできない。高所順応なんていう行為を考えてもわかるように、自分が変わっていかないと前に進めないっていうのは、独特の旅のありかたです。そして、自分の弱いところも強いところも全部わかる。そんなことは、登山でしか体験できませんよね」




 …

 来年(2015)は、8,000m峰の5座目となるK2への遠征を計画中の石川さんだが、予定では知り合いのシェルパたちも同行するという。

石川「ネパールの自分たちの住んでいるクーンブ地方の山ばかり登っていたシェルパたちが、パスポートを取得してパキスタンの山まで仕事をしに行くわけですから、それはちょっと興味深いですよね。果たして、知らない山でしかも異なる宗教の国で、彼らはそのこと自体をどれだけ楽しんだり、実力を発揮できるのか。チベット仏教の土地からイスラム教の国へ行くわけですから、地元の人々とどんなふうに交流するのかな、とか」



 石川さんにとって初めての一人旅は、高校生のときに訪れたインドだった。読書が好きだった石川さんは、そのころ読んだ本に影響を受けて、旅に憧れる少年だったという。

石川「植村直己の『青春を山に賭けて』や、小澤征爾の『ボクの音楽武者修行』などを読んで、自分もいろいろなところへ行って、いろいろな人に会って、いろいろな景色を見てみたいと思っていました。たぶんその頃から、未知のものに出会える『旅』というものに惹かれていったんだと思います」

 自分を何かに例えるならば、「獲物を狙って撃ち落とすハンターではなく、池に釣り糸を垂らして待っている釣り人タイプ」なのだそうだ。

石川「水の中は見えなくて、デッカイ魚が釣れるかもしれないし、メダカが釣れちゃうかもしれない。はたまた空き缶が引っかかるかもしれない。でも、もしかしたらその缶が200年前の珍しい缶かもしれない、みたいに思っています。何が飛び込んできても、興味がないと切り捨ててしまわないで、ぜんぶに扉を開いていると、向こうからいろいろやってくるんです。逆に、これしかないって思いつめていると、結局そこにたどり着けなかったりするんですよ」








※1「シェルパ」:
シェルパとは、現在はヒマラヤ登頂を目指す登山隊の登山ガイドという意味で使われている。シェルパとは、本来はシェルパ族のことである。彼らはチベット語で「東」という意味があるように、もともとチベットに居住していたが17~18世紀頃にネパールに移住してきている。今はネパールでは少数民族の1つとされている。シェルパ族の人々は高地という過酷な環境に住んでいるため体が高地に順応していることもあり、彼らの身体能力を生かして荷物運びとして外国人登山隊に雇われるようになり、現在では、ヒマラヤ登頂を目指す、登山隊の登山案内や荷物を運んだりしている。この登山ガイドの仕事はシェルパ族の人々にとっては高収入であり、
生活のために登山ガイドを目指す人々が多いが、ヒマラヤ登頂や下山途中で命を落とす人も少なくない。命を落としたシェルパには残された家族もいて、彼らをサポートすることも課題になってきている。なお最近はシェルパ族以外の他民族の登山ガイドもシェルパと呼ぶようになってきている(初心者のための登山用語)。

※2「サミットプッシュ」:
アタック(英語:attack)とは、ヒマラヤなどの高峰などで最終キャンプ地から頂上を目指して行動することをいう。または、困難な登攀を伴う登頂のことを指す場合もある。ただ、アタック(attack)は、本来は「攻撃する」という意味であり、近代登山がアルピニズム精神論とともに日本にはいってきたときは、イギリスでもアタックを使っていたが、現在ではイギリスでもアタックという言葉は使われなくなっており、世界では「サミット・プッシュ(Summit Push)」が使われている。サミット・プッシュとは、自分の体を自分で頂上まで押し上げる、という意味である。自然の象徴である山に対して攻撃を意味するアタックを使用するのは、自然に行かされている人間のおごりであると、みなされているのである。実際に名だたる登山家の中には、アタックという言葉はあたかも山を征服しにいくかのようであり、ふさわしい言葉づかいではないと考える人も多い(初心者のための登山用語)。



出典:岳人 2014年 11月号