2015年2月2日月曜日
播隆上人と槍ヶ岳
〜話:梶原正〜
播隆(ばんりゅう)上人の開山
槍ヶ岳の初登頂は1828年(文政11)、越中出身の念仏僧、播隆上人による。19歳で出家した播隆上人は進むべき道を模索していた。その時代の俗化した仏教界に疑問を抱き、山岳修験道のように深い山の中で難行苦行して自らを高める道を選んだ。
1823年(文政6)、播隆上人はかつて円空上人が登頂したという笠 ヶ岳に登るが、登山道がないので人々が参拝登山できないことを残念に思った。それで、地元の寺や人々の協力を得て登山道を作る。その年には18名、翌年には66人の信者を連れて、笠ヶ岳へ登拝した。このとき、播隆上人は山頂より望む峻峰、槍ヶ岳に心引かれ、登ろうと決意する。
北アルプス北部の峻峰、剣岳は修験者によって遥か昔の平安時代に登られていたのに、あれほど目立つ槍ヶ岳が、江戸時代後期になっても、登られていなかったのはなぜだろう? 槍ヶ岳は北アルプスの稜線から見れば一目でそれとわかるほど目立つが、山麓からだと信州側、飛騨側のどちらからも見えない。地元の猟師や杣人の中にはいたかもしれないが、その時代に槍ヶ岳を知る人はわずかだったはずだ。播隆上人も笠ヶ岳からその姿を目にするまでは、その存在さえ知らなかっただろう。
1826年(文政9)、播隆上人は槍ヶ岳開山のため松本へ行き、安曇野の中田又重を紹介される。当時、松本から上高地を経て高山に抜ける飛騨街道が作られていた。又重はその工事に携わっていたので、槍ヶ岳方面の地理を知っていたのだ。この年、上人と又重は槍沢を偵察した。
1828年(文政11)7月20日、播隆上人は念願の槍ヶ岳に登頂した。43歳のときである。そして、笠ヶ岳と同様、自分だけでなく多くの人々が槍ヶ岳へ登拝登山をできるように登山道を作りたいと考えた。その後数回、上人は又重や信者たちと共に槍ヶ岳に登り、槍の峻峰に鉄鎖を取り付けようと奔走し、ついに1840年(天保11)8月、槍ヶ岳に鉄鎖が取り付けられたが、そのとき上人は病の床にあった。その年の10月21日、播隆上人は55年の生涯を閉じた。
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引用:日本百名山冬季登頂記「第一座 槍ヶ岳」梶山正
岳人 2015年 01月号 [雑誌]
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