2015年5月20日水曜日

何とかという蔓と何とかという木 [若山牧水]



話:若山牧水




「ホラ、彼処(あそこ)にちょっぴり青いものが見ゆるずら…」

 老案内者は突然語り出した。指された遥かの渓間には、渓間だけに雑木もあると見え、色濃く紅葉していた。その紅葉の寒げに続いている渓間のひと所に、なるほど、ちょっぴり青いものが見えていた。

「あれは中津川村の大根畑だ」

 と老爺はうなずいて、其処(そこ)の伝説を語った。こうした深い渓間だけに、初め其処に人の住んでいる事を世間は知らなかった。ところが折々この渓奥から椀のかけらや、 箭(や)の折れたのが流れ出して来る。サテは豊臣の残党でも隠れひそんでいるのであろうと、丁度(ちょうど)江戸幕府の初めの頃で、所の代官が討手(うつて)に向うた。そして其処の何十人かの男女を何とかという蔓(かずら)で、何とかという木にくくってしまった。そして段々検(しら)べてみると同じ残党でも鎌倉の落武者の後である事が解って、蔓を解いた。其処の土民はそれ以来その蔓とその木とを恨み、一切この渓間より根を断つべしと念じた。そして今では一本としてその木とその蔓とを其処に見出せないのだそうである。





引用:若山牧水『新編 みなかみ紀行 (岩波文庫)




2015年5月19日火曜日

木枯と笑い茸 [若山牧水]



話:若山牧水




 夕方から凄まじい木枯が吹き出した。宿屋の新築の別館の二階に我らは陣取ったのであったが、たびたびその二階の揺れるのを感じた。


隙間洩(も)る木枯の風寒くして酒の匂ひぞ部屋に揺れたつ




 夜っぴての木枯であった。皆よく眠っていた。わたしは端で窓の下、それからずらりと五人の床が並んでいるのである。その木枯が今朝までも吹き通していたのである。そして木の葉ばかりを吹きつける雨戸の音でないと思うて聴いていたのであったが、果たして細かな雨まで降っていた。

 午前中をば膝せり合せて炬燵(こたつ)に齧りついて過した。昼すぎ、風はいよいよひどいが、雨はあがった。他の四君は茸(きのこ)とりにとて出かけ、わたしは今日どうしても松本まで帰らねばならぬという高橋君を送って湖畔を歩いた。ひどい風であり、ひどい落ち葉である。別れてゆく友のうしろ姿など忽(たちま)ち落葉の渦に包まれてしまった。


はるけくも昇りたるかな木枯にうづまきのぼる落葉の渦は


 茸は不漁であったらしいが、何処からか彼らは青首の鴨を見附けて来た。山の芋をも提(さ)げて来た。善哉(ぜんざい)々々と今宵も早く戸をしめて円陣を作った。宵かけてまた時雨(しぐれ)、風もいよいよ烈(はげ)しい。

 どうした調子のはずみであったか、我も知らずひとにも解らぬが、ふとした事から我らは一斉に笑い出した。 甲笑い乙応じ、丙丁戌みな一緒になって笑いくずれたのである。それが僅かの時間でなく、絶えつ続きつ一時間以上も笑い続けたであろう。あまり笑うので女中が見に来て笑いこけ、それを叱りに来た内儀までが廊下に突っ伏して笑いころがるという始末であった。たべた茸の中に笑い茸でも混っていたのかしれない。


ひと言を誰かいふただち可笑(おか)しさのたねとなりゆく今宵のまどゐ

木枯の吹くぞと一人たまたまに耳をたつるも可笑しき今宵

笑ひこけて臍(へそ)の痛むと一人いふわれも痛むと泣きつつぞ言ふ

笑ひ泣く鼻のへこみのふくらみの可笑しいかなやとてみな笑ひ泣く




 相も変らぬ凄(すさま)じい木枯である。宿の二階から見ていると湖の岸の森から吹きあげた落葉は凄じい渦を作って忽(たちま)ちにこの小さな湖を掩(おお)い、水面をかくしてしまうのである。それに混って折々樫鳥(かしどり)までが吹き飛ばされて来た。そしてたまたま風が止(や)んだと見ると湖水の面(おもて)にはいちめんに真新しい黄色の落葉が散らばり浮いているのであった。落葉は楢(なら)が多かった。


木枯の過ぎぬあとの湖をまひ渡る鳥は樫鳥かあはれ

声ばかり鋭き鳥の樫鳥ののろのろまひて風に吹かるる

樫鳥の羽根の下羽の濃むらさき風に吹かれて見えたるあはれ








引用:若山牧水『新編 みなかみ紀行 (岩波文庫)』木枯紀行





2015年5月16日土曜日

大樹と人間 [荘子]



話:石井弘明




 縄文杉で有名な屋久島にあるヤクスギランドから太中岳に登る登山道の途中に、スギの大木が立っている。幹回りは5m以上あり、波打つ太い樹皮から交差するように伸びた2本の大きな枝は融合し、まるで指で輪をつくった大仏の手のようにも見える。

 歩道から少し離れているため名前がつけられていないこの巨樹を、私は勝手に「大仏杉」と呼んでいる。一部が白骨化したその巨体には、たくさんの植物や動物が宿り、大仏のように大らかに、永きにわたって森の生態系を支え続けている。

 この大仏杉のように、屋久島で樹齢一千年を超える老大木は「屋久杉」と総称される。長年の生育で生じた割れ目や空洞は、鳥や小動物、昆虫たちが外敵や気候条件から身を守り、営巣するための居心地のよい空間となっている。



 この一帯の森は、江戸時代に伐採されたあとに再生したものだ。

 先述の大仏杉など、現存する巨樹の多くは、形が悪く木材としての利用価値が低かったため、伐採を免れた。人類の産業にとっては利用価値が低く、「ブスギ(ブサイクな杉の意)」と呼ばれて伐採されなかった巨樹は、樹上の生物や植物たちの拠り所となり、生物多様性を現在の森へ引き継ぐノアの箱舟のような役割を果たした。

 光合成による炭素吸収量は、その木の葉の量に応じて決まり、葉の量は幹の断面積に比例して増加する。たとえば直径200cmの屋久杉の葉の量は、直径40cmのスギの約25本分に相当する(幹の断面積5倍に対して、葉の量は25倍)。





引用:岳人 2015年 06 月号 [雑誌]
石井弘明「森の命と循環をになう巨樹」








以下、『荘子 第1冊 内篇』人間世篇より



 大工の棟梁の石(せき)が、斉の国を旅行して曲轅(きょくえん)という土地にいったとき、櫟社(れきしゃ)の神木である櫟(くぬぎ)の大木をみた。その大きさは数千頭の牛をおおいかくすほどで、幹の太さは百かかえもあり、その高さは山を見おろしていて、地上から七、八十尺もあるところからはじめて枝がでている。それも舟をつくれるほどに大きい枝が幾十本と張りでているのだ。

 見物人が集まって市場のような賑やかさであったが、棟梁は見かえりもせず、そのまま足をはこんで通りすぎた。弟子たちはつくづくと見とれてから、走って棟梁の石(せき)に追いつくと、たずねた。

「われわれが斧や斤(まさかり)を手にして師匠のところに弟子入りしてから、こんなに立派な材木はまだ見たことがありません。師匠がよく見ようともせずに足をはこんで通りすぎたのは、どういうわけでしょうか」

石(せき)は答えた。

「やめろ。つまらないことを言うでない。あれは役たたずの木だ。あれで舟をつくると沈むし、棺桶をつくるとじきに腐るし、道具をつくるとすぐに壊れるし、門や戸にすると樹脂(やに)が流れ出すし、柱にすると虫がわく。まったく使い道のない木だよ。まったく使いようがないからこそ、あんな大木になるまで長生きができたのだ」



 棟梁の石(せき)が旅を終えて家に帰ると、櫟社の神木が夢にあらわれて、こう告げた。

「オマエはいったい、このワシを何に比べているのかね。オマエは恐らくこのワシを役にたつ木と比べているのだろう。いったい柤(こぼけ)や梨(なし)や橘(たちばな)や柚(ゆず)などの木の実や草の実の類は、その 実が熟するとむしり取られもぎ取られて、大きな枝は折られ小さな枝はひきちぎられることにもなる。これは、人に役にたつ取り柄があることによって、かえって自分の生涯を苦しめているものだ。だから、その自然の寿命を全(まっと)うしないで途中で若死にすることにもなるわけで、自分から世俗に打ちのめされているものなのだ。世の中の物ごとはすべてこうしたものである。それに、ワシは長いあいだ役にたたないものになろうと願ってきたのだが、死に近づいた今になってやっとそれが叶えられて、そのことがワシにとって大いに役だつことになっている。もしワシが役にたつ木であったとしたら、いったいここまでの大きさになれたろうか。それにオマエもワシも物であることは同じだ。どうして相手を物あつかいして批評することができよう。オマエのような今にも死にそうな役たたずの人物に、どうしてまた役たたずの木でいるワシのことがわかろうか」

 棟梁の石(せき)は目が覚めると、その夢のことを話して聞かせたすると弟子がたずねた。

「自分から無用でありたいと求めていながら、社(やしろ)の神木などになったのは、どうしてでしょうか」

石(せき)は答えた。

「静かに! オマエ、つまらないことを言うでない。あの木はただ神木の形を借りているだけだ。わからずやどもが悪口をいうのがうるさいと思ったのだ。神木とならなくても、まず人間に伐り倒されるような心配はない。それに、あの木が大切にしていることは世間一般とは違っている。それなのに、きまった道理でそれを論ずるとは、いかにも見当はずれだ」




南伯子綦(なんぱくしき)が商の丘に行ったとき、大きな木を見た。四頭だての馬車が千台集まっても、その大木の陰にすっぽり隠れてしまうほどである。

子綦(しき)はつぶやいた。

「これは何の木であろうか。これはきっと素晴らしい使い道のある木にちがいない」

ところが、目を上げてその小枝をみると、曲がりくねっていてとても棟木(むなぎ)や梁(はり)にすることはできず、目を伏せてその太い幹をみると、木の心(しん)が引き裂けていて棺桶をつくることもできない。その葉を舐めると口がただれて傷がつき、その臭いをかぐと狂おしく酔っ払って、三日たってもなおらない。

子綦(しき)は言った。

「これはなんと使い道のない木であった。だからこそこれだけの大きさになれたのだ。ああ、あの神人もこの使い道のないあり方によって、あの境地にいられるのだ」



引用:『荘子 第1冊 内篇



匠石之齊,至乎曲轅,見櫟社樹。其大蔽數千牛,絜之百圍,其高臨山十仞而後有枝,其可以為舟者旁十數。觀者如市,匠伯不顧,遂行不輟。弟子厭觀之,走及匠石,曰:「自吾執斧斤以隨夫子,未嘗見材如此其美也。先生不肯視,行不輟,何邪?」曰:「已矣,勿言之矣!散木也,以為舟則沈,以為棺槨則速腐,以為器則速毀,以為門戶則液樠,以為柱則蠹。是不材之木也,無所可用,故能若是之壽。」匠石歸,櫟社見夢曰:「女將惡乎比予哉?若將比予於文木邪?夫柤、梨、橘、柚、果、蓏之屬,實熟則剝,剝則辱,大枝折,小枝泄。此以其能苦其生者也,故不終其天年而中道夭,自掊擊於世俗者也。物莫不若是。且予求無所可用久矣,幾死,乃今得之,為予大用。使予也而有用,且得有此大也邪?且也,若與予也皆物也,奈何哉其相物也?而幾死之散人,又惡知散木!」匠石覺而診其夢。弟子曰:「趣取無用,則為社何邪?」曰:「密!若無言!彼亦直寄焉,以為不知己者詬厲也。不為社者,且幾有翦乎!且也,彼其所保,與眾異,以義譽之,不亦遠乎!」

南伯子綦遊乎商之丘,見大木焉有異,結駟千乘,隱將芘其所藾。子綦曰:「此何木也哉?此必有異材夫!」仰而視其細枝,則拳曲而不可以為棟梁;俯而見其大根,則軸解而不可為棺槨;咶其葉,則口爛而為傷;嗅之,則使人狂酲三日而不已。子綦曰:「此果不材之木也,以至於此其大也。嗟乎!神人以此不材!」宋有荊氏者,宜楸、柏、桑。其拱把而上者,求狙猴之杙者斬之;三圍四圍,求高名之麗者斬之;七圍八圍,貴人富商之家求樿傍者斬之。故未終其天年,而中道已夭於斧斤,此材之患也。故解之以牛之白顙者,與豚之亢鼻者,與人有痔病者,不可以適河。此皆巫祝以知之矣,所以為不祥也,此乃神人之所以為大祥也。

引用: 莊子 內篇 人間世








2015年5月14日木曜日

山背と巨樹「雪地蔵」 [高桑信一]



話:高桑信一




オホーツク海から吹きつける冷たい風、山背。

奥羽山脈の太平洋側では冷害をもたらすと嫌われているこの風が、山を越えると一転して宝の風となり、森に巨樹を育てるのだという。

♪ 吹けや生保内(おぼね)東風(だし)
  七日も八日も
  吹けば宝風、ノオ稲実る  ♪

秋田民謡、生保内(おぼね)節の一節だ。この東風(だし)は「山背(やませ)」のことで、山背よ吹け、何日でも吹け、吹けば宝風(たからかぜ)となって、おらほの田んぼに稲を実らす、という意味である。

山背はオホーツク海気団がもたらす夏の冷たく湿った北東気流で、東北地方の太平洋岸に冷害をもたらすことで知られている。その山背が、奥羽山脈を越えると一転して暖かく乾いた風となり、仙北平野のとりわけ生保内(おぼね)地方に豊作を約束するのである。

冬の季節風は、冷たく乾いたシベリア寒気団が日本海の暖流の湿気を吸い上げて、日本海側に大雪をもたらすが、山背はいわば、その真逆の現象といえる。

岩手の知人によれば、秋田駒ケ岳の北東に、頭を東に向けた馬の雪形があらわれるという。口から山背を吸い込んだ馬が、尻から宝風を生保内地方に向けて屁のようにぶっ放すというのだから、これは冷害に泣かされる雫石地方の農民の恨み節にちがいあるまい。





その宝風が、和賀山塊の巨樹を育むのではないかという説がある。和賀本峰の周辺で冷気と湿気を振り落とした山背が、白岩岳を越え、宝風となって巨樹を育てた可能性は十分にある。

「雪地蔵」はすぐにわかった。空気が濃密になり、音が消えたように思えた。雪地蔵は日本で2番目に太いブナ。樹齢は300年とも700年ともいわれている。だれが見つけ、いつから雪地蔵と呼ばれるようになったかは知らないが、洒落た名前をもらったこのブナが、古くから山仕事の人々に親しまれてきたことを思わせる。

下山後、地元の精通者の佐藤隆さんに訊いたら、「ああ、あれより太いブナはあるんだがね」と、こともなげに言った。

雪地蔵の前は、対岸の小影山のブナが日本一だった。そして今は、十和田湖の奥入瀬にあるブナが日本一になっている。したがって、まだ知られていない、もっと太くて古いブナが存在する可能性は高い。

しかし、順位などどうでもいいではないか。2位に格下げになったおかげで熱狂が静まり、道も整備されることなく、雪地蔵はこうして静かに佇んでいられるようになったのだ。









引用:岳人 2015年 06 月号 [雑誌]
高桑信一「日本で二番目に大きなブナを訪ねて 和賀山塊・白岩岳1177m」









屋久島の「岳参り」 [高桑信一]



話:高桑信一




渓谷を囲む屋久島の深い森を、低空から舐めるようにせり上がっていくヘリコプターで撮った映像だった。

その迫力もさることながら、私が目を奪われたのは、その森を縫うようにして登る「豆粒のごとき2人の登山者」だった。まるで修験者のような身なりをした彼らは、ナレーションによれば「岳参り(だけまいり)」の登山者なのだという。

古くから全国に偏在した岳参りの風習は、成人への通過儀礼であり、五穀豊穣の祈りと感謝であり、山の神を田の神として勧請するために行われてきたのだが、いずれにしてもそれは山を神の棲み処として崇め、信仰の対象としてきたのであった。

いまではほとんどが絶えて、探し出すのも覚束ない岳参りの風習が、屋久島に残されているという事実が私を驚かせ、たかぶらせた。むろん屋久島の岳参りにしても風前の灯火に違いあるまいが、岳参りは後世に伝えるべき掛け替えのない遺産である。





栗生岳でも宮之浦岳でも永田岳でも、苔むした小さな祠を見つけた。その存在を知らずに登山道を歩くだけでは、決して見つけられない祠である。山頂の岩の割れ目の奥に、隠されたようにひっそりと安置されたそれらの祠は、いずれも栗生や宮之浦や永田集落の守り神であった。

屋久島では、畑を拓き樹木を伐採し、山菜を採る暮らしのための山を「前岳」と呼び、その後方に聳える高山を神の棲む「奥岳」と崇めて岳参りを重ねてきた。集落からは海岸の砂や米や焼酎を携えて神に供え、奥岳からはシャクナゲやアセビの小枝を海辺の集落に持ち帰った。それは海と山の欠くべからざる連鎖の証であり、山の神と海辺の民との、抜きがたい交感のかたちである。

年に2回行われながら、時代の波に押されて消滅の一途をたどっていた岳参りの風習が、近年になって復活が図られ、屋久島の24の集落のうち、21の集落でふたたび行われるようになったという。むろん、その背景には世界遺産への登録による来島者の増加がある。それにせよ、その復活を素直に喜びたいと思う。









引用:岳人 2015年 06 月号 [雑誌]
高桑信一「原生の森に埋もれる島へ 屋久杉をめぐる山旅」



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秋山郷と秋田マタギ [服部文祥]



話:服部文祥




かつて雪国では、カモシカを獲るのに鉄砲を使わなかった。カンジキを履いて、深い雪に追い込めば、棍棒で殴れたからである。昨年、秋山郷の山里をスキーで歩いたときも、出会ったカモシカを戯れに追いかけたら、すぐに追いついた。条件によって人間が四つ足動物より速いことを体験するのはおもしろい。





秋山郷(新潟と長野の県境に位置する山奥の集落群)には、80歳前後の古老が五人おり、その一人に話を聞いたところ

「最近はぜいたくになって、ヒエやアワにおかずもつける。昔はもっとナラとトチを食べたものだ」

と言ったと『秋山記行』にある。越後の文人、鈴木牧之は1828年に秋山郷を六泊七日で旅して同書を記した。秋山郷には江戸時代に秋田の旅マタギが住み着いていたという。秋山郷にのこる狩猟文化は、秋田マタギと土着の狩猟が融合したものだ。


 


秋田マタギは鈴木牧之の求めに応じて宿を訪れた。「齢は三十とも見え、いかにも勇猛なる骨柄に見うけぬ」タフガイは、その生活を語る。

塩とわずかな米、鍋と椀を数個もち、イノシシや熊の毛皮でつくった衣を着て、ほとんど道のない中津川をさかのぼり、魚野川に入る。小屋がけして尺岩魚を釣り、一度に数百 尾を背負って草津の湯治場へ売りにいく。吊り天井方式の罠でケモノを獲り、塩漬けにして肉や皮も売る。山籠りは三十日間。肉と魚を食べ続けるため、山里に下りてくると穀物が食べたい、と笑う。









引用:岳人 2015年 06 月号 [雑誌]
服部文祥「信越国境 秋山郷 フクベの頭1503m」



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2015年5月8日金曜日

クライマーたちの「地元びいき」 [鈴木英貴]



話:鈴木英貴






 スポーツの世界ではどの分野でも存在するのが「地元びいき」である。クライミング界にあっては、クライマーは誰もが「地元の岩場が一番だ」と思っており、他のエリアより難易度も高いと思い込んでいる。

 ヨセミテのローカル・クライマーたちは一様に

「ヨセミテのグレードは辛めだ(難しい)」

と言うが、コロラドのローカル・クライマーもしかり。地元クライマーたちにルートのことを尋ねると、口をそろえて

「ここのグレードは辛いから自分の登れるグレードより少し下のグレードにトライしろ。じゃないと痛いシッペ返しを喰らうぞ」

と笑いながらアドバイスしてくれる。









ソース:岳人 2015年 05 月号 [雑誌]
鈴木英貴「My Climbing Journey in 20 years」
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