2014年12月12日金曜日

スキーという空っぽの時間 [Fall Line]


話:石橋仁


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 月山エリアには数年前からキャットを使ったツアーが行われており、もちろん僕らもこの恩恵にあずかることにした。志津温泉五色沼のほとりから出発したキャットは、姥沢小屋まで標高差500mを約50分で運んでくれる。もしラッセルで歩けば、と考えるだけで太ももの筋肉がけいれんを起こしそうだ。

 今朝は放射冷却でぐっと冷え込んでいる。初めて月山上空が青空に包まれている。キャットがつづら折りの林道を走るごとに雪の締まった音がする。振動がくる。景色が揺れる。そして視界の正面に、初めて目にする月山のたおやかな山容が回り込む。ため息のような感嘆が自然と出てしまう。

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 姥沢小屋で降りると、正面に夏スキーで有名な月山スキー場のリフト架線がかろうじて見える。リフト支柱のほとんどは雪に埋もれているのだ。周囲を見渡すと足下に夏季の宿の屋根が覗いている。大げさではなく積雪が10m近くあるのではないだろうか。豪雪ぶりが半端ではない。

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 やや視界が悪くなってきた斜面に、先ずは石沢さんがシュプールを刻む。月山を知るガイドらしくひょうひょうと小気味よいテレマークターンで斜面変化の向こうに消えていく。さすがに滑りが安定している。どっしりと、地元に腰を据えた姿を滑りに転写したようだ。すかさず無線が入る。

「視界は悪いけど雪は安定しています。いいですよ〜」

 いやはや、滑っていくときに「うひょうひょ」と奇声が聞こえていたので、雪が悪いはずはないとは判っていたが、無線連絡のお陰で確信が持てた。大きく滑ろう。先ずは一本、記念すべき月山の大斜面にターンだ。

 スキー場のリフト架線が遠く見え隠れしている。石沢さんのトレースを右に見ながら、少しでも斜度のありそうな左に寄って滑る。時折底に当たるのは硬く締まった雪だろうか。ゆるやかで広大、たおやかな肌を滑る。たまらない。雪は軽い。深い。スキーは走る。シャラシャラと音がしそうな雪質だ。思わず口元が緩む。

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 滑り終えて振り返るとようやく気が付いた。明るい森の正体は、ブナの大木が連なる森だった。僕が月山で滑りたかったのは、まさしくこのブナの原生林だったのだ。

 遠くまで透き通るようなブナの大木、疎林。樹齢200〜300年くらい経っているだろうか。先日滑った杉の人工林が人間の営みを感じる林ならば、このブナの原生林は神のいぶきを感じる森だ。古(いにしえ)の人々が萬(よろず)の神を見出し、信仰し、畏れあがめたのは、きっとこのように深く、樹々が幾重にも重なったような森だったのだろう。

 僕ははっと息をのんで立ち止まらずにはいられなかった。美しい。

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 ブナという樹は木材としての用途があまりなかったために、切られずに残されたともいわれている。もちろん人里近いブナ林は皆伐されて人工林に変えられたり、また宅地開発されたりして、人間が利用できるものに造り替えられた経緯はある。

 しかし今、目の前に広がるブナ原生林のように、利用価値がないとされ見放されたものが山に残り、森を育み野生動物を養っている。天然の貯水ダムとなり麓に豊かな湧水をもたらす。訪れる人には憩いの木陰を提供し、心落ち着かせ雄大深遠な気持ちにさせてくれる。人間にとって利用価値がなかったはずの森が、結果として人間の役に立っている。無用なものが用をなしている。

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 このブナの原生林に代表されるように、真の価値とは時代を越えて朴訥と存在し続けるものだろう。一見役立たずの無用なものが、巡り巡ってとても重要な役割を果たしている事実は往々にしてあるものだ。それを理解し、敬い、上手につき合ってきた先人の知恵と財産が、この原生林には詰まっている。

 いまここで自然保護を訴えているのでも、利潤追求を否定しているのでもないが、ただ事実としてブナの森はかつての姿のまま連綿とそこに息づいているということだ。その揺るぎない事実に僕は深く頭を垂れるしかない。

 神聖な信仰の山がそうさせたのか、はたまたブナの枝で頭でも打ったのか、日頃はいい加減で不真面目、スキーさえできれば満足なはずなのだが、いつになく謙虚になり畏敬の念が沸き起こったのだった。

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 雄大なブナの原生林を目の当たりにして、僕はある自己矛盾を感じていた。用途のない木材は結果として人を豊かにしてくれている。しかしスキーは僕に何をもたらしてくれているのだろうか、と。スキーを滑ったからといって何が生まれるわけではない。何の利益もなければ、世の役に立つこともない。ましてや静かな森の動植物が喜ぶはずがない。むしろ迷惑なだけで無意味だ。

 しかし、無意味だからいいのだ。それが面白さの根源にあるのだ。自分自身にとって無用の用をなしているのは、スキーという無意味な行為なのだろう。自己満足で終わらせられるこの空虚があるからこそ、仕事にも打ち込める自分がいる。

 中国の諺にもあるように、器には何もない空間があるから水を注いで溜めることができる。家には空間があるから人が住むことができる。何もない空間があるからこそ、それを象(かたど)っている器や家が機能している。自分にはスキーという空っぽの時間があるから、自分自身でいられるのだ。

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 登り返しては悶々として一本。

 トラバースして答えを捻ってまた一本。

 滑る意味を自問自答しては一本。

 意味はないと結論付けてはまた一本。

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 汗にまみれた思考を巡らすばかりで、理屈も屁理屈も出尽くして、ついには直感的な答えのみが残されたようだ。しかし妙に腑に落ちた。

 石沢さんに声をかけられなければ、あるいは月山の一本の樹になるまで黙々と考えを巡らしながら、滑り続けていたかもしれない。脚はすでに棒になりそうだった。

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 ブナの原生林を延々と降りていく。

 まだ西日は高く、樹々の陰影が進みにくい雪面にくっきりと現れる。影だけ見ていても森の様相が変わってきたことに気が付く。もうすぐ里に降りるのだ。



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ソース:Fall Line 2015(2)




なぜ滑る? [Fall Line]


話:寺倉力


外は静かに小雪が舞っている。山はうっすら見えているが、上部は白い靄に包まれたまま。今日はオープンバーンまで登るより、樹林帯でいい雪を楽しんだ方が賢明そうだ。

そんな朝に思い出すのは一人のスキーヤーの顔。おそらく、彼なら迷いなく上部を目指すことだろう。そして、ホワイトアウトした中でバックルを締め、スキーのテールを雪に刺してフォールラインを向く。いつでもドロップできるその姿勢で、斜面に日が当たるのをひたすら待ち続けるのだ。そのまま2時間以上経過したこともあるという。

「氷像になるかと思った」

と笑うが、日が射すとは限らないのだから、なにも降雪の中を立ったまま待つ必要はない。だが

「日が射した瞬間を逃したくないから」

と彼は言う。冷凍保存されていた良質の粉雪は、日が当たった瞬間から劣化が始まる。滑るなら視界良好を求めたいし、光り輝く最高の状態で新雪を滑るには、そのタイミングしかないと彼は言う。

ご承知の通り、ハイシーズンの新雪は多少日が当たったところでさほどクオリティは変わらないし、太陽が出なくても光があれば滑るに支障ない。常人には理解し難い彼のこだわりは、けれども、滑り手の限りない欲求そのものにも思える。求める程度の違いこそあっても、1本のランにも最高の快楽を追い求める心は、滑り手の本質だ。



「なぜ、そこまでして滑りたいのですか?」

と問われても答える術がないだろう。

それは彼も私たちも同じだ。








ソース:Fall Line 2015(2)