2014年8月26日火曜日

世界の果て、黒部渓谷 『黒部の山賊』より




定本 黒部の山賊より〜



北アルプス最奥の地、黒部源流(この本の舞台)とはどんなところか



黒部は地形がけわしいばかりでなく、水の流れ方にも想像を絶するものがある。幾多の支流を合わせ、広い流域の水を集めているこの流れは、ひとたび天候がくずれると川幅の狭い廊下の中では、あッというまに水面が10〜20mも上がってしまうのである(白馬、立山二大山脈の地底深く挟まれたこの流れは、ところによっては幅数メートルにまで狭められ、両岸は文字どおり廊下状に切り立った断崖となっている)。またその場所は晴れていても、上流のどこかで夕立があっただけで、そうなることがある。

そればかりではない。黒部ではいたるところに鉄砲水というのが出る。ここでは両岸の枝沢はほとんどが瀑布状となって落ちこんでいるが、枝沢のどこかで大木などが倒れて水がせき止められ、それがなにかのひょうしにくずれると、小さなダムが決壊したように水がどっと飛び出してくる。とくに黒部のように急峻な地形のところでは、そのいきおいは猛烈で、水は同時に突風を起こし、大木を吹き飛ばし、ときには小さな尾根さえ乗り越える。その跡を見ると、押し出された岩石に混じって、大木が40〜50cmほどの長さにザクザクに粉砕されてちらばっている。

これらのことを知らない登山者が黒部に入り、充分に高い場所だから大丈夫だと思ってキャンプをしていると、増水や鉄砲水のために、夜中にテントごともっていかれてしまうことがある。しかも一度黒部の流れに飲み込まれると、死体はおろか遺留品などもなったくどこかへ消えてしまうのである。



そればかりでなく、問題なのは3,000mの高所における気象条件である。ここでは真夏に凍死するおそれがあると考えていただきたい。北アルプスの尾根筋の真夏の気温は最高でも14〜18℃、朝などはどうかすると氷が張ることがある。

人体に感ずる温度は風速1mにつき、1℃下がったのと同じになる。雨で身体が濡れているときなどは、気化熱(液体が蒸発するときに必要とする熱)で体温がうばわれるので、その何倍にも影響する。こうして体温が28℃ぐらいに下がって凍死するのである。



とにかく黒部渓谷といい三俣といい、それは遠く、けわしく、荒れくるう、いわば世界の果てともいうべきところだった。

しかし天気のよいときには、色あざやかな高山植物が咲き乱れ、熊、カモシカ、兎、雷鳥などが遊び、黒部の清流には岩魚(いわな)が群れている、天国のようなところである。

ここを舞台に、これからの物語は始まる。時代は昭和20年(1945)、終戦直後の混乱期であった。











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