2014年8月26日火曜日

畦地梅太郎の「山男」




「わたしは、金のかからんやり方の山歩きを考えて、一人用の天幕をつくって山へ行った。山へ行っても写生はあまりしなかったものだ。眺め見つめて心にしみこませた。絵かきといいながら、まじめでない、だらしない絵かきであった(畦地梅太郎)」






山の版画家・畦地梅太郎(あぜち・うめたろう)

代表作は「山男」シリーズ。そのモデルは誰かと問われ、「山男はわたしなんです。モデルはいないんです」と答えた。



 



——畦地梅太郎は、山と人との関わりの象徴として「山男」を描いた。野鳥や山道具などのモチーフを、碧空や雪原、樹林を背景にたたずむヒゲ面の男と組み合わせ、シンプルさの中に独特の哀感を醸し出している。作品の根底にあるのは、自分の足で歩き登った山々と、出会った人々との交歓である(『岳人 2014年 09月号』)。



四国・南予(愛媛)に農家の三男として生まれた畦地梅太郎。

15歳にして故郷をあとに東京へ(1920)。折しも関東大震災からの復興で変貌する東京は、若き版画家にとって恰好の題材だった。

——畦地が山へ向かう契機となったのは、半年をかけて故郷・四国宇和島周辺を取材し制作した「伊豫風景(昭和11年)」。翌年、軽井沢に長逗留したおりに見た浅間山に心動かされ「火山」を発表。これ以降、畦地は山へ傾倒していく(『岳人 2014年 09月号』)。



「山男」が産声をあげたのは昭和27年(1952)。雪山を背景に、黒いアノラックを着てコンパスをもつ男を描いた(『登攀の前』)。

「その里の生活から抜け出して山のひとときを楽しんでいる人間の姿、それが『山男』じゃと思うてもえば一番いい(畦地梅太郎『わしの山男』)」



『登攀の前』


「目は作品ごとに違うんですよ」

娘・美江子さんは言う。

「海外では『畦地の山男の目がいい』と褒めてくれる方が多いんです」



孫・堅司さんは、思い出をこう語る。

「駅へ行くときに、舗装されていない細い道をわざわざ選んで私を連れて歩きました。山歩きはできなくなっていましたが、自然が好きだったのだと思います」






登山用品メーカー「モンベル」の代表、辰野勇氏は、同社で新装発刊することとなった山岳雑誌『岳人』の表紙に、『山男5(1956年)』を採用。

辰野氏は言う。「表紙には、私が愛してやまない版画家、畦地梅太郎さんの作品を使わせて頂くことにした。数ある彼の作品の多くは、山と人がテーマだ。時には厳しい雪山に生息する雷鳥や、彼の家族の笑顔あふれる温かい人物も描かれている。まさに山と人、『新生・岳人』のテーマとしてはうってつけのイメージだとひらめいた」








「そこに技術の差はあっても、山男の山に向かう精神の差があってはなるまいと思う(畦地梅太郎『山の出べそ』)






(了)






出典:岳人 2014年 09月号

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