2014年8月26日火曜日

天塩川と野田知佑




〜話:野田知佑(のだ・ともすけ)〜



天塩(てしお)川を下った。日本で最北を流れる川だ。150km連続して漕行可能な川は、日本では天塩川だけだ。一番長いのは信濃川(367km)だが、この川にはダムが2つあって分断されている。

天塩川は特別に思いの深い川だ。30数年前、会社勤めを辞め、離婚して、折りたたみカヤックとキャンプ道具一式をもって、北海道でひと夏をすごした。その時の解放感は忘れられない。あまりに自由すぎて、ときどき理由もなく不安になることがあった。自由というのは、それを支える力がなければ不安なものだ。



中流域のある所で、川沿いに小さな牧場があって、ぼくはその家に行き、「あの草原の片隅にテントを張らせてください」といった。50半ばの主人が出てきて、ぼくをしばらく見つめていたが、「今夜、晩ご飯を食べにおいで」といい、これを持っていけと一升瓶に入った牛乳をくれた。

この頃の日本にはまだ民宿というものが少なく、ヒッチハイクやカヌーの旅をすると、必ずこういった他人の好意にぶつかった。友人でも知り合いでもない赤の他人の、こういうもてなしほど嬉しいものはない。

夕方家にいくと、ビールを出され、風呂に入れといわれた。そこには25歳の娘が一人いた。娘さんは気性のいい人で、話をするとぼくは大いに癒された。彼女と結婚すれば、8割は幸福になれるだろうと思った。しかし残りの2割が問題だ。それがなんだか分からないが、その2割のものを探して、その頃のぼくは生きていた。「明日発ちます」というと、両親はとても悲しそうな顔をし、娘は目に涙を浮かべていた。

あの娘は今ごろ、どうしているのだろう。まだあの牧場はあるのか。それとも潰れたのか。



陽射しが強くなると地上の空気が温められ上昇し、そこから海に冷たい空気が流れ込む。だから川下りの午後は、いつも海から吹く向かい風になる。長い川を下るときは午前中に出発するのがコツだ。

北海道の夏は朝3時すぎに空が明るくなる。すると、川の周辺の小鳥たちが一斉に鳴きはじめ、目が覚める。起床してまず川に入り、冷たい水の中で泳ぎ、イスに座ってアイリッシュコーヒーを飲む。それから、折りたたみの机の前で原稿書きか読書をする。

『クマにあったらどうするか』を読む。北海道のクマは内地と違ってすべてヒグマだ。グリズリーと同種である。体重は200〜300kgが普通で、大きいものになると400kgになる。この本に興味深いエピソードがある。数人の村の男たちが山奥を歩いていると、ヒグマが出た。元気な青年たちはすっ飛んで逃げ、年寄りたちは腰を抜かしてへたり込んだ。このとき襲われて殺されたのは、一番早く逃げた青年たちであった。



川幅いっぱいに流れる水はときどき浅くなっており、ふいに岩にぶつかったり、浅瀬をこすって横を向いたりした。そのたびに、デッキの上に乗っているアレックスとハナが川に落ちた。

犬の遊泳能力は人間より優れているのではないか。少なくとも、ぼくがこれまで飼った犬はみんなそうだった。球磨川最大の難所、二股の瀬で、ぼくはこれまで10回以上”沈”している。初代カヌー犬のガクはその激流のなかを何度も泳ぎ、川岸を走ってぼくを追ったものだ。

岩に当たった衝撃で川に落ちたハナが、ぼくのフネに寄ってきて、上げてくれといった。犬はカヌーに自分では上がれない。首輪をつかんで引き上げてやらねばならない。知らん顔をしていると、ハナはそのまま次の荒瀬に入り、フウフウいいながら波に揉まれていた。視線が合うと上げろというので、ぼくは彼女から目を逸らし、気づかぬふりをしてビールを飲んだ。お前はもっと世の荒波にもまれろ。そして強くなれ。








出典:BE-PAL (ビーパル) 2014年 09月号 [雑誌]
野田知佑「8割の幸福と、人生の残りの2割」




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