2014年8月29日金曜日

海に「鉄」をはこぶ川 [畠山重篤]




「東京湾と鹿児島湾、お魚が捕れるのはどっちだと思いますか?」

そう聞かれ、ほとんどの子供たちは「鹿児島湾」と答えた。赤く濁った東京湾と、青く澄んだ鹿児島湾。お魚はやはり青い海のほうにいるような気がしたのだ。



しかし答えは「東京湾」。

「赤茶けた東京湾のほうが、鹿児島湾より30倍もお魚が捕れるんですよ」

「ウッソー」

子供たちは一斉に驚きの声。



——なぜかと言うと、鹿児島湾は霧島の爆発でできた湾なので、大きな川が流入していない。それに比べて東京湾は、あの巨大な湾が2年で真水になってしまうほどの川が流れ込んでいる(江戸時代以前は、利根川も東京湾に流入していた)。じつは同じ海といっても、塩水だけの海と、川の水が入る海では、海の生物生産の底辺を支える、植物プランクトンの発生量が格段に違う。九州は真珠の養殖が盛んだが、鹿児島湾にはアコヤ貝(真珠の母貝)の養殖イカダは浮かんでいない。エサとなる植物プランクトンが少ないからだ(畠山重篤)。






宮城・気仙沼(けせんぬま)では、漁師たちは昔から海辺の森を「魚付(うおつき)林」と呼んで大切にしてきた。森が消えると魚が寄り付かなくなることを知っていたからである。

この辺り(三陸)はリアス式海岸と呼ばれ、カキ、ホタテ、ホヤ、ワカメ、コンブなどの養殖業が盛んなところである。それらの餌となる植物プランクトンが豊富にいるからである。「リアス」の語源は「川(スペイン語でリオ)」。ノコギリのようにギザギザに削られた海岸線は、海の波ではなく川の流れによって形づくられたことを意味する。そしてスペイン語の「リア」は「潮入り川」と訳される。

——縄文時代より前、地球は寒く氷河期といわれる時代であった。その頃、海の水位は現代と比べおよそ150mほど退いていた。それでも夏は雨が降るので、海辺まで川が削った谷が続いていた。つづく縄文時代は、いまより温暖な気候であったことが知られている。海の水位が上昇するとともに、川に削られた谷に海がゆっくりと侵入してきたのである。縄文海進と呼ばれる所以である。この縄文時代は1万年もつづき、谷は深く削られていった(畠山重篤)。






なぜ川の水が、海に豊かな恵みをもたらすのか?

川からは、いったい何が流れてくるのか?



答えは「鉄」。

しかし、ただの鉄ではない。森の落ち葉、腐葉土の生み出す特別な鉄、「フルボ酸鉄」。普通の鉄と違うのは、水に浮かぶということ。川の流れに浮遊できるフルボ酸鉄は、川底に沈殿することなく海にまで流れていける。

じつは現在の海は貧血状態であり、鉄分が不足している。だから植物プランクトンが少なくなりがちだ。しかし河川から鉄分が補給される海ならば、植物プランクトンが多く棲まえる。東京湾がそうであるように。



地球は「鉄の惑星」である。そもそも太陽系には鉄とニッケルが最も多量にある。地球はその質量から憶測すると、その目方の3分の1は鉄の重さなのだという。

その多量の鉄を利用して、植物は光合成を開始した。鉄を利用して葉緑素(クロロフィル)を作りだしたのである。それは36億年も前の話。その元祖がシアノバクテリアと呼ばれる細菌である。

知ってのとおり、光合成は酸素を生み出す。そして酸素は鉄を酸化(サビ)させる。すると、錆びた鉄(酸化鉄)は海底に沈む。そのサイクルが15億年もつづくと、海からは鉄が取り除かれてしまった。その結果、植物プランクトンが頼れるのは、川から流れ落ちてきてくれるフルボ酸鉄だけになってしまった。気仙沼の漁師たちは、こうした科学的なことを体験的に知っていた。だから川上の森を大事にしたのである。



気仙沼の沖からは、室根山という独立峰がのぞめる。

——その地質は花崗岩系で鉄分が多いという。それでも山が荒れればフルボ酸は生まれない。漁民はこの山から木を植えはじめた。牡蠣の養殖を生業をとする彼らは、海からはるか離れた山に登り、落葉広葉樹の森づくりをはじめたのだ。室根山に登り、足下に鉄を感じたことはなかったが、このメカニズムを知るにつけ、いまでは足裏に鉄を感じてならない。岩を踏むと、”フルボ酸鉄”と聞こえてくるから不思議である(畠山重篤)。






出典:岳人 2014年 09月号
畠山重篤「山と海の出逢い」



2014年8月28日木曜日

文明と犬と [南極点]




「南極点はイギリス人が制服せよ」

イギリスの権威、王立地理学会は「スコット」にそう命じた。

時を同じくしてノルウェーでも、「アムンセン」が南極に旅立っていた。



——2つの隊の違いは、ノルウェーのアムンセン隊が「犬ゾリ」を使ったのに対して、イギリスのスコット隊は「エンジン付きのソリ」と蒙古馬を使おうとした点にある(『岳人 2014年 09月号』)。

18世紀初頭という時代、産業革命を遂げて世界に躍進していたイギリスは、「文明の力で南極点へ」と先進工業国の技術の粋をスコット隊に注ぎ込んだ。軍人スコットは「犬の力を借りるのは紳士的でない」と言った。

一方のノルウェー、昔ながらの「イヌイットの知恵や技術」で、犬とともに南極点へ挑んだ。ヴァイキング発祥の地であるノルウェーでは、極地を旅する際、「その土地の優れた文化を取り入れる」のは当たり前だった。



2隊の結果は?

アムンセン隊(ノルウェー)がまず人類初の南極点を踏んだ(1911)。犬を機動力兼食料として、スキーを足回りとして駆使した成果だった。






イギリスのスコット隊は遅れること1ヶ月。南極点に到達した。しかしその帰路、吹雪に閉じ込められて全員が遭難、死亡。

——アムンセン隊が多少苦労しつつも、全員無傷かつ楽しそうに南極点を往復したのに比べ、スコット隊は少しずつ痛めつけられるように潰れていった(『岳人 2014年 09月号』)。






出典:岳人 2014年 09月号

2014年8月27日水曜日

金と登山と [7大陸最高峰]




地球には7つの大陸があって

それぞれに一番高いところがある



7大陸、7つの最高峰

セブン・サミッツ



アジア大陸 エヴェレスト(8,848m)
ヨーロッパ大陸 エルブルース(5,642m)
北アメリカ大陸 マッキンリー(6,168m)
南アメリカ大陸 アコンカグア(6,959m)
アフリカ大陸 キリマンジャロ(5,895m)
オーストラリア大陸 カルステンツ・ピラミッド(4,884m)
南極大陸 ヴィンソン・マシフ(4,892m)



現在、7大陸最高峰の頂に立つのは「お金と時間さえあれば可能(石川直樹)」である。ただ、「莫大なお金と膨大な時間がかかる(倉岡裕之)」。

——そもそもセブン・サミッツという概念は、アメリカの石油王、ディック・バスがつくりあげたもの。であるから、限られた人だけに許された「近づき難い領域」ではない(『山と溪谷 2014年9月号』)。



ならば一体、どれほどのお金がかかるのか?

「気になるセブンサミッツの料金は『1,800万円〜3,580万円』。プラス装備代、現地での宿泊費、食費となる。意外とかかるのが、シェルパやガイドへのチップ代。これも30万円くらいみたほうがよいだろう(倉岡裕之)」

アジア大陸 エヴェレスト(500〜1,000万円)
ヨーロッパ大陸 エルブルース(80〜130万円)
北アメリカ大陸 マッキンリー(7〜400万円)
南アメリカ大陸 アコンカグア(100〜150万円)
アフリカ大陸 キリマンジャロ(50〜100万円)
オーストラリア大陸 カルステンツ・ピラミッド(300〜1,000万円)
南極大陸 ヴィンソン・マシフ(500〜600万円)






中国の「ジン・ワン」という2児の母は、7大陸最高峰に2極(北極・南極)をくわえた「7+2プロジェクト」という挑戦をおこない、そして完遂した。

気になるお値段は「1億5,000万円」。これほど額が跳ね上がったのは、彼女が「世界最速」を目指したことと、セブンサミッツに「コジオスコ(オーストラリア大陸)」と「モンブラン(ヨーロッパ大陸)」を加えて、9つの頂を登ったためだった。



じつはセブンサミッツの定義には2種類あり、一つが石油王ディックのもので、オーストラリア大陸の最高峰は「コジオスコ(2,228m)」となり、もう一つが登山家ラインホルト・メスナーのもので、同大陸の最高峰は「カルステンツ・ピラミッド(4,884m)」となる。というのもオーストラリア大陸に関しては、狭義にはオーストラリア一国、広義にはニュージーランドやニューギニアを含めた「オーストラーシア大陸」という2つの考え方があるためだ。

またヨーロッパ大陸の最高峰に関しても、かつて「モンブラン(4,810m)」が数えられていたが、後年、ロシアの「エルブルース(5,642m)」に置き換えられた歴史がある。冒険家・植村直己も最初はモンブランに登頂して「世界5大陸最高峰」の初登頂を成し遂げたが、エルブルースが最高峰とされると、1976年に登り直している。



いずれにせよ、いまやお金さえあれば達成できるセブンサミッツ全登頂。それゆえ、中国のジン・ワンは「最速」を目指した。しかし残念ながら、彼女は世界記録に3日及ばなかったようだ(現在の最短記録は6ヶ月と11日らしい)。

さらに彼女は物議をかもしだした。すでに閉山されていたエヴェレストに無理やり登ったり、その際、ヘリコプターで上まで行き過ぎたりしたからだ。そのためネパール政府は彼女に「登頂証明書」を発行することを躊躇しているという。



「7大陸最高峰の頂と2つの極点に、半年以内に立つということは、お金と時間さえあれば可能なので、『冒険的な意味』は皆無にちかい。これはジンへの皮肉ではない。2児の母である彼女が、セブンサミッツをわずか半年でさらっとやってのけたとすれば、その行為自体よりも、そうした行為が可能である今の世界の変貌に驚かされるばかりだ(石川直樹)」

「セブンサミッツは、近年ブームとなった日本百名山と同様に、『ピーク・バッガー(頂稼ぎ)』たちの目標となって久しい(池田常道)」






そんな金権的な時代の流れに、あえて逆らおうとする登山家もいる。

キム・チャンホ(韓国)

——エフェレスト登頂のスタート地点は、なんと海(ベンガル湾)。標高0mからカヤックを漕ぎ出し(156km)、サイクリング(893km)、トレッキング(162km)を経て、無酸素でエヴェレスト山頂を目指した。水平距離1,211km、標高差8,848mの長大な旅である(『山と溪谷 2014年9月号』)。



キム・チャンホは言う。

「海で生まれた雲がインドの平原を通過して、ヒマラヤ山脈で雪を降らせ、その雪はやがてガンジス川になりふたたび海へと流れ込みます。このような自然の循環を『人力』でたどり、肌で感じることがこの旅の醍醐味でした」

カヤックでは蚊の来襲をうけ、サイクリングでは尻の痛みに耐え、エヴェレストのベースキャンプまで着くのに約40日も要した。



彼にとって2度目であったエヴェレストへの挑戦、成功すれば「8,000m峰、全14座、無酸素登頂」の偉業も同時に達成されることになる。

しかしなぜ、彼はそのような大事なチャレンジに、必要以上に困難な道を選んだのか? そこにはエヴェレスト初挑戦のときに失った2人の仲間への思いがあった。

「かけがえのない仲間でした…。悲しみのなかベースキャンプを離れて帰国する途中、私は決心しました。次にエヴェレスト山頂を目指すときは、『通常ではない特別な登り方』で挑戦しなければならない、と」



エヴェレストでは、海抜0mと比べて酸素の量が3分の1に落ちる。

「零下30℃を下回る低温で、酸素を満足に取り入れることができない状態では、やがて指を切らなければならないのではないかと不安を感じる時がよくありました。わたしたちの身体は極限の環境で生き残るために、身体の器官を一つ一つ捨ててゆきます。動いてはいるが、死にむかっていくのです。しかし、私はどんな苦痛でも、すべて『自分自身の力』で山に登りたいのです。登山家としてもっている探検本能がそのように思わせるのではないでしょうか」



——ベンガル湾をスタートしてから70日後、長大な旅の完結とともに、キム・チャンホは8,000峰14座、無酸素登頂を世界最短記録(7年10ヶ月)で成功させたのだった(『山と溪谷 2014年9月号』)。

しかしその栄光の影で、また一人の仲間が逝った。

——無酸素登頂に成功した翌朝、メンバーのソ・ソンホがテント内にて死亡しているのが発見された。試飲は高度障害と極度の疲労と推定された(『山と溪谷 2014年9月号』)。



ふたたび悲しみの淵に立たされたキム。

「ソンホは、ただ血がつながっていないという事実以外は、私にとって実の弟です。ほかに言葉はありません…」







7つの頂に登るということに関して、かつて登山家パトリック・モローはこう言った。

「まずクライマーたれ。次にコレクターになれ」






(了)






出典:岳人 2014年 09月号 [雑誌]
「世界の最高峰 7つの物語」



2014年8月26日火曜日

天塩川と野田知佑




〜話:野田知佑(のだ・ともすけ)〜



天塩(てしお)川を下った。日本で最北を流れる川だ。150km連続して漕行可能な川は、日本では天塩川だけだ。一番長いのは信濃川(367km)だが、この川にはダムが2つあって分断されている。

天塩川は特別に思いの深い川だ。30数年前、会社勤めを辞め、離婚して、折りたたみカヤックとキャンプ道具一式をもって、北海道でひと夏をすごした。その時の解放感は忘れられない。あまりに自由すぎて、ときどき理由もなく不安になることがあった。自由というのは、それを支える力がなければ不安なものだ。



中流域のある所で、川沿いに小さな牧場があって、ぼくはその家に行き、「あの草原の片隅にテントを張らせてください」といった。50半ばの主人が出てきて、ぼくをしばらく見つめていたが、「今夜、晩ご飯を食べにおいで」といい、これを持っていけと一升瓶に入った牛乳をくれた。

この頃の日本にはまだ民宿というものが少なく、ヒッチハイクやカヌーの旅をすると、必ずこういった他人の好意にぶつかった。友人でも知り合いでもない赤の他人の、こういうもてなしほど嬉しいものはない。

夕方家にいくと、ビールを出され、風呂に入れといわれた。そこには25歳の娘が一人いた。娘さんは気性のいい人で、話をするとぼくは大いに癒された。彼女と結婚すれば、8割は幸福になれるだろうと思った。しかし残りの2割が問題だ。それがなんだか分からないが、その2割のものを探して、その頃のぼくは生きていた。「明日発ちます」というと、両親はとても悲しそうな顔をし、娘は目に涙を浮かべていた。

あの娘は今ごろ、どうしているのだろう。まだあの牧場はあるのか。それとも潰れたのか。



陽射しが強くなると地上の空気が温められ上昇し、そこから海に冷たい空気が流れ込む。だから川下りの午後は、いつも海から吹く向かい風になる。長い川を下るときは午前中に出発するのがコツだ。

北海道の夏は朝3時すぎに空が明るくなる。すると、川の周辺の小鳥たちが一斉に鳴きはじめ、目が覚める。起床してまず川に入り、冷たい水の中で泳ぎ、イスに座ってアイリッシュコーヒーを飲む。それから、折りたたみの机の前で原稿書きか読書をする。

『クマにあったらどうするか』を読む。北海道のクマは内地と違ってすべてヒグマだ。グリズリーと同種である。体重は200〜300kgが普通で、大きいものになると400kgになる。この本に興味深いエピソードがある。数人の村の男たちが山奥を歩いていると、ヒグマが出た。元気な青年たちはすっ飛んで逃げ、年寄りたちは腰を抜かしてへたり込んだ。このとき襲われて殺されたのは、一番早く逃げた青年たちであった。



川幅いっぱいに流れる水はときどき浅くなっており、ふいに岩にぶつかったり、浅瀬をこすって横を向いたりした。そのたびに、デッキの上に乗っているアレックスとハナが川に落ちた。

犬の遊泳能力は人間より優れているのではないか。少なくとも、ぼくがこれまで飼った犬はみんなそうだった。球磨川最大の難所、二股の瀬で、ぼくはこれまで10回以上”沈”している。初代カヌー犬のガクはその激流のなかを何度も泳ぎ、川岸を走ってぼくを追ったものだ。

岩に当たった衝撃で川に落ちたハナが、ぼくのフネに寄ってきて、上げてくれといった。犬はカヌーに自分では上がれない。首輪をつかんで引き上げてやらねばならない。知らん顔をしていると、ハナはそのまま次の荒瀬に入り、フウフウいいながら波に揉まれていた。視線が合うと上げろというので、ぼくは彼女から目を逸らし、気づかぬふりをしてビールを飲んだ。お前はもっと世の荒波にもまれろ。そして強くなれ。








出典:BE-PAL (ビーパル) 2014年 09月号 [雑誌]
野田知佑「8割の幸福と、人生の残りの2割」




なぜ犬はウンコを食うのか? [角幡唯介]




〜話:角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)〜



今年のグリーンランド行は犬を一匹連れて行った。犬を連れて行ったのは、白熊が現れたときに番犬として働いてもらうためである。以前、北極圏を2ヶ月ほど歩いたとき、白熊が二回ほど就寝中のテントにやって来て、嫌な思いをしたことがあった。犬ならきっと吠えてくれるだろう。

犬と長い時間を共にしていると、思わぬことが次から次へと起こって面白かった。旅をはじめてホームシックにかかったり、その日の気分によって全然働かなかったり、明らかに私のことをナメているとしか思えない顔をしたり。



犬を見ていちばん不思議だったのは、「どうしてあいつらはあんなにウンコを食べたがるのだろう」ということである。

出発してしばらくの間、とにかく犬は私のウンコを食べたがった。朝食の後に便所穴で用を足し、上から雪をかぶせて穴を閉じるのだが、犬は必ず撤収作業中にその場所を嗅ぎつけ、猛烈な勢いで掘り返してバクバクと食べてしまうのだ。

ドッグフードには見向きもせずに、私のウンコには物凄い勢いで興奮して駆け寄ってくるのである。これは困る。ウンコに味をしめてそのままドッグフードを食べなくなると、荷物が全然軽くならないからだ(橇には40kgものドッグフードを積んでいた)。



不思議なことにこの犬、私のウンコはバクバクと食べようとするくせに、自分のウンコに対しては非常に潔癖だった。普段はなるべく自分の寝場所から離れたところにウンコをしようとする。自分のウンコを食べないところを見ると、自他に関して何らかの区別はつけているらしいのだが、その基準がよく分からない。

そんな犬の姿を見ているとどうしても、ウンコっておいしんだろうか…という疑問がわいてくる。そこで試しに私もスプーンですくって食べてみたのだが…、というのはさすがに嘘だが、ウンコを食べられたら北極を歩くのは楽になるだろうなあ、ということは実際に思ったりした。

自分のウンコは無理にしても、北極を歩いているとカリブーや麝香(じゃこう)牛や白熊のウンコがごろごろしているのである。白熊のウンコが大量に落ちている場所に出くわしたことがあったが、近づいてみるとウンコはすでにカピカピに完全に乾燥しており、臭いを臭いでみると中華料理の乾物みたいでそれほど嫌な臭いはしなかった。そのとき私たちは猛烈な空腹に苦しんでおり、このウンコも食えるんじゃないかと正直少し悩んだ。



ウンコを食料にできる動物は、究極のリサイクル動物である。出しては食って、出しては食ってできるのだから、持っていく食料は一回あたりに消化して漸減するカロリーや栄養分だけでいいことになる。

犬や豚のように人間にもウンコをおいしいと思える味覚があれば、世界的な食料問題も解決し、地球平和にもつながるのに、なぜ人間はウンコを食べることができないのだろう。









出典:BE-PAL (ビーパル) 2014年 09月号 [雑誌]
角幡唯介「ウンコについて今、悩んでいること」




世界の果て、黒部渓谷 『黒部の山賊』より




定本 黒部の山賊より〜



北アルプス最奥の地、黒部源流(この本の舞台)とはどんなところか



黒部は地形がけわしいばかりでなく、水の流れ方にも想像を絶するものがある。幾多の支流を合わせ、広い流域の水を集めているこの流れは、ひとたび天候がくずれると川幅の狭い廊下の中では、あッというまに水面が10〜20mも上がってしまうのである(白馬、立山二大山脈の地底深く挟まれたこの流れは、ところによっては幅数メートルにまで狭められ、両岸は文字どおり廊下状に切り立った断崖となっている)。またその場所は晴れていても、上流のどこかで夕立があっただけで、そうなることがある。

そればかりではない。黒部ではいたるところに鉄砲水というのが出る。ここでは両岸の枝沢はほとんどが瀑布状となって落ちこんでいるが、枝沢のどこかで大木などが倒れて水がせき止められ、それがなにかのひょうしにくずれると、小さなダムが決壊したように水がどっと飛び出してくる。とくに黒部のように急峻な地形のところでは、そのいきおいは猛烈で、水は同時に突風を起こし、大木を吹き飛ばし、ときには小さな尾根さえ乗り越える。その跡を見ると、押し出された岩石に混じって、大木が40〜50cmほどの長さにザクザクに粉砕されてちらばっている。

これらのことを知らない登山者が黒部に入り、充分に高い場所だから大丈夫だと思ってキャンプをしていると、増水や鉄砲水のために、夜中にテントごともっていかれてしまうことがある。しかも一度黒部の流れに飲み込まれると、死体はおろか遺留品などもなったくどこかへ消えてしまうのである。



そればかりでなく、問題なのは3,000mの高所における気象条件である。ここでは真夏に凍死するおそれがあると考えていただきたい。北アルプスの尾根筋の真夏の気温は最高でも14〜18℃、朝などはどうかすると氷が張ることがある。

人体に感ずる温度は風速1mにつき、1℃下がったのと同じになる。雨で身体が濡れているときなどは、気化熱(液体が蒸発するときに必要とする熱)で体温がうばわれるので、その何倍にも影響する。こうして体温が28℃ぐらいに下がって凍死するのである。



とにかく黒部渓谷といい三俣といい、それは遠く、けわしく、荒れくるう、いわば世界の果てともいうべきところだった。

しかし天気のよいときには、色あざやかな高山植物が咲き乱れ、熊、カモシカ、兎、雷鳥などが遊び、黒部の清流には岩魚(いわな)が群れている、天国のようなところである。

ここを舞台に、これからの物語は始まる。時代は昭和20年(1945)、終戦直後の混乱期であった。











氷のお餅、南極大陸 [岩野祥子]




「南極は、お餅のような形をした氷の大陸だ」

岩野祥子(いわの・さちこ)は言う。

「直径が約4,000kmもあるのに、大陸の平均標高は約2kmしかないので、相当のっぺりした平らなお餅。とはいえ平均標高2,209mというのは、他の大陸の平均標高900mと比べるとかなり高い」



第42次、第48次日本南極地域観測隊として、彼女は約2年4ヶ月間、南極の越冬観測に従事した経験をもつ。

「南極の平均氷厚は2,126m。最も厚いところは4,776mもある。4,776mといえば、富士山の上にさらに1kmの氷がのった高さだ。じつは南極氷床下の大陸基盤は、この氷の荷重によって押し下げられている」

それは「地殻均衡(アイソスタシー)」によるものだ、と地殻変動に関わる観測全般を担当していた彼女は言う。

「私たちの足元にある地球は、一見すると硬い。しかし同時に柔らかい性質も併せもっている。地球を『ゆで卵』のようなものと想像してもらうとわかりやすい。地表の固い部分(地殻)はゆで卵の殻。時にはバリっと割れて地震がおきたりする。その下に、ゆで卵の白身がある。白身は固体ではあるが、押せば凹む。地球でいうと、この部分がマントルに相当する。近くがマントルの上に浮かんでいて、地殻に働く荷重と浮力が釣り合う状態、それが地殻均衡(アイソスタシー)だ」



「もし南極大陸を覆う氷がすべて解けたとしたら…」

彼女は続ける。「氷の重みで押し下げられている大陸基盤も、氷床が解ければ重しが減って上昇する。重しから解き放たれた南極大陸は全体が上昇し、現在最高峰のヴィンソン・マシフ(標高4,892m)は5,000mを超える山になるかもしれない」



「地球は46億年の歴史をもつ。その間にはいろいろなことがあった。南極大陸が赤道直下にあった時代もある。その後、南極は現在の場所へ移動し、他の大陸から孤立した。それから南極大陸の周りを海流が回るようになり、中低緯度地域からの熱の流入が遮られた。そうして次第に寒冷化がすすみ、長い年月をかけて氷の大陸となった。南極氷床は、数万年にわたり雪が降り積もってできた。そしてこれからも、地球なりのタイムスケールでゆっくりゆっくり変動していくことだろう」

「広大なスケールの中に身を置くと、自分の存在そのものが奇跡だと思えてくる。人間の一生はとても短い。やりたいことはやった方がいい。南極で過ごすと、そんな気持ちになる」













(了)






出典:岳人 2014年 09月号




畦地梅太郎の「山男」




「わたしは、金のかからんやり方の山歩きを考えて、一人用の天幕をつくって山へ行った。山へ行っても写生はあまりしなかったものだ。眺め見つめて心にしみこませた。絵かきといいながら、まじめでない、だらしない絵かきであった(畦地梅太郎)」






山の版画家・畦地梅太郎(あぜち・うめたろう)

代表作は「山男」シリーズ。そのモデルは誰かと問われ、「山男はわたしなんです。モデルはいないんです」と答えた。



 



——畦地梅太郎は、山と人との関わりの象徴として「山男」を描いた。野鳥や山道具などのモチーフを、碧空や雪原、樹林を背景にたたずむヒゲ面の男と組み合わせ、シンプルさの中に独特の哀感を醸し出している。作品の根底にあるのは、自分の足で歩き登った山々と、出会った人々との交歓である(『岳人 2014年 09月号』)。



四国・南予(愛媛)に農家の三男として生まれた畦地梅太郎。

15歳にして故郷をあとに東京へ(1920)。折しも関東大震災からの復興で変貌する東京は、若き版画家にとって恰好の題材だった。

——畦地が山へ向かう契機となったのは、半年をかけて故郷・四国宇和島周辺を取材し制作した「伊豫風景(昭和11年)」。翌年、軽井沢に長逗留したおりに見た浅間山に心動かされ「火山」を発表。これ以降、畦地は山へ傾倒していく(『岳人 2014年 09月号』)。



「山男」が産声をあげたのは昭和27年(1952)。雪山を背景に、黒いアノラックを着てコンパスをもつ男を描いた(『登攀の前』)。

「その里の生活から抜け出して山のひとときを楽しんでいる人間の姿、それが『山男』じゃと思うてもえば一番いい(畦地梅太郎『わしの山男』)」



『登攀の前』


「目は作品ごとに違うんですよ」

娘・美江子さんは言う。

「海外では『畦地の山男の目がいい』と褒めてくれる方が多いんです」



孫・堅司さんは、思い出をこう語る。

「駅へ行くときに、舗装されていない細い道をわざわざ選んで私を連れて歩きました。山歩きはできなくなっていましたが、自然が好きだったのだと思います」






登山用品メーカー「モンベル」の代表、辰野勇氏は、同社で新装発刊することとなった山岳雑誌『岳人』の表紙に、『山男5(1956年)』を採用。

辰野氏は言う。「表紙には、私が愛してやまない版画家、畦地梅太郎さんの作品を使わせて頂くことにした。数ある彼の作品の多くは、山と人がテーマだ。時には厳しい雪山に生息する雷鳥や、彼の家族の笑顔あふれる温かい人物も描かれている。まさに山と人、『新生・岳人』のテーマとしてはうってつけのイメージだとひらめいた」








「そこに技術の差はあっても、山男の山に向かう精神の差があってはなるまいと思う(畦地梅太郎『山の出べそ』)






(了)






出典:岳人 2014年 09月号

2014年8月24日日曜日

山と皇太子さま



山好きプリンスの皇太子さま

初登山は5歳。御用邸そばの離山(はなれやま・長野県軽井沢)を、皇太子時代の天皇陛下に連れられて登ったのだという。初めての山小屋泊は12歳のとき(燕山荘・燕岳)。オックスフォード大学に留学中にはベン・ネヴィスに登頂。

——初登山から現在まで170回以上の山行で、百名山を45座登頂。甲斐駒ケ岳では楽な北沢峠ルートではなく、日本屈指の難路、黒戸尾根(標高差2,000m)から登られている。伊吹山も頂上直下まで車で行けるのに麓から登山。楽をして数を稼ごうなんてことはされない。遠すぎて登りにいくのが大変な利尻山(北海道)まで含まれている(BE-PAL 2014年 09月号)。



皇太子さまは、こうおっしゃる。

「現在の私の登山の楽しみは、自分をゆっくりと大自然のなかにおき、動植物や地質を観察し、自然の恩恵に浴すこと。そして、個々の山の歴史に思いを致し、登山の行程全体を楽しむことである(『山と渓谷』1996年1月号)」



雅子さまとの初登山は高水三山(たかみずやま・東京奥多摩)。愛子さまと初めて登ったのは那須岳(栃木)。この那須連邦は登山回数が最も多く、15回以上登られている。

——皇太子さまご愛用の道具は、いずれも最新のものではない。良いモノを長く大切に使われるのが基本スタンスだ。モノを大切になさるのは皇室の伝統なのだ(BE-PAL 2014年 09月号














出典:BE-PAL (ビーパル) 2014年 09月号 [雑誌]




旅と時計と




「『時計なしの旅』というものは、一見自由を味わえそうな感じだが、じつは自由を失う結果になるのではないかと私は思っている(『遊歩大全』)」






かつて1953年のエベレスト初登頂のとき、ロレックスの「オイスター パーペチュアル」が使われたという。

世界14座の8,000m級の山々をすべて無酸素で登頂した「ラインホルト・メスナー」もまた、ロレックスの愛用者だった。




※ジョン・ハント卿の登山隊によるエベレスト登頂を記念して発売された「エクスプローラー」。自動巻きキャリバー3132を採用。



出典:BE-PAL (ビーパル) 2014年 09月号 [雑誌]




詩とズブロッカ [正津勉]




「山の詩を書くということは、山をもういちど登るということ。こんなに楽しいことはないよ」

詩人・正津勉(しょうづ・つとむ)








山には決まって、ポーランドのウォッカ、ズブロッカを持っていく。

「山で飲むならこれに限る。水割りかって? いやいやストレートで飲むよ。1泊の山行でも1本分くらい持っていくかな」

※バイソンが好んで食べるという「バイソン・グラス」という草に漬け込んでいる。アルコール度数は40度。





聞けば、高校時代は山岳部。地元から近い白山山系の山々歩き回っていたという。高校卒業後は、学生運動や詩、酒に熱中して山のことは忘れていたそうだ。山を再開したのは50歳を目前にした頃。

「山をはじめなかったら、飲み過ぎで死んでたね(笑)」







出典:BE-PAL (ビーパル) 2014年 09月号 [雑誌]