〜小林秀雄「カヤの平」より抜粋引用〜
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発哺(ほっぽ)は大雪だった。サラサラした粉雪が毎日降りつづいた。雲の切れ間、凍る様な夜空に、星と一緒になって長野の灯が見えた。
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着いた翌日、温泉の登り口の谷川の近所で、白樺に貼りつけたビラをみつけた。「発哺毛無間山越スキー淑女コース」とある。奮って参加されたい。但し山スキーに自信あるもの、と書いてある。淑女コースたあなんだろう、いずれそこらに手をつけたのが居ないわけではないという意味かな、と言って笑ったのはいいが、山スキーに自信あるもの、は穏やかでない。天狗の湯主催とある。天狗の湯といえば俺達のいる家だろう、だから、今に勧誘に来るさ、と深田(久弥)は言うが、僕は但し書きが面白くないから黙っていた。
おい、行ってみるかい、と彼は言う。先だってスキーを始めた許りの僕が行ってみるもみないもないものである。一体深田は僕にスキーを教えているみたいな顔をしているが、決して教えた事はない。そもそもの初めが湯沢に連れて行かれたが、朝まだまっ暗のうちに停車場につくとそのまま宿屋に行かずに、ゲレンデにひっぱられた。はじめはスキーをつけて板を登るのは難しいから、と言って山の上までスキーを担がせ、上で提灯(ちょうちん)の火で、スキーをつける事を教えると、あとは自然の成行きにまかせろ、と言って一人で滑って行って見えなくなった。翌日は岩原のコチコチの雪の山の一番上まで連れて行き、やっぱり自然の成行きにまかせられた。成行き上、自分のスキーで頭に大きな瘤(こぶ)をこしらえ、左の肩を捻挫した。
深田は「淑女コース」の地図をしらべて喜んでいる。僕は地図をしらべたって始まらぬから、傍でビールを飲み飲み観念していた。吹雪は止まない。止んだら出掛けるらしいが、其後さっぱり勧誘に来ない。それは来ない筈(はず)で、ついた二日目雪の降るなかを焼額山に登った時、天狗の番頭さんが案内してくれたが、その番頭さんが、僕のスキー術を観察してしまったからである。番頭は小林というほうは話にならぬと天狗に言い附けたに決まっている。
こうなると僕から切り出さないと妙な具合になるから、出発するという前の晩、炉端(ろばた)で話を持ち出すと、案の定天狗は渋った。何しろ淑女コースの事だから、と言った。貴方は曲がれるかねと訊くのである。右なら曲れると僕は答えた。谷川まで降るのに何遍ころぶと訊く。無論何遍などと数え切れるものでないから、今日は四度ころんだと答えた。天狗は最後に千七百米級の山を七つ越えるんだからと脅かした。幸いそんな雪山の概念がこっちにないから一向驚かなかった。部屋に帰ると深田は呆(あき)れた顔をして、図々しい奴だ、と言った。図々しいも糞もない、相手はたかが山だとあきらめているのだ。
明日出発だというので、土地の青年達が夕方から宿に集って来た。長い間吹雪いたので、大分中止するものも出来たらしい、これくらいの雪でへこたれるんなら、スキーを、へえ、やめなせえ、などと怒鳴って天狗は昂奮していた。屈強な青年達が、大声で話し合い乍ら、薄暗い乾燥室でスキーの手入れに忙しい様をみると、何んとなくこれは大変な事になって了った、と僕は思った。ワックスって奴は要らないかねえ、と心配そうに深田は言うと、アザラシで沢山だ。もし附ける暇もなかったら縄で沢山だ、と取合わない。もうこうなればワックスなど利いた処で大した助けにもなるまいと思って早く寝て了った。
翌日暗いうちにすっかり仕度をする、主人は背広を着て鳥打(とりうち)などをかぶっている。この爺さんに仲々よく似合う。団体行動について訓示を一席、小便なども勝手にひられては困るから、と念を押した。一行は十三人であった。一列に並んで先発にカンテラをつけ、動き出した。天狗の娘さんが一行に交っていたので大いに意を強くしたが、これは全く誤算で、彼女は番頭なみの腕前で何んの頼みにもならなかった。
ここで雑魚川を渡りまあす、と天狗の主人が怒鳴る、よく見ると雪の間を川らしいのがチョロチョロ流れている。そこら辺りですさまじい雪のなかの夜明けが来た。見る見る空は青く澄んで来て、雪は潔らかに白くなって行った。岩菅山が全山樹氷に包まれて、桃色の東の空を負って輝やきはじめた。尤(もっと)も、いい景色どころの騒ぎでもなかったのである。
第一、ラッセルという奴は御免蒙(こうむ)ろうと思って、列のビリから二番目にはさまっていたが、飛んだ考え違いで、先頭がくたびれるとドン尻につくから、知らないうちに心太(ところてん)の様に押し出される仕掛けになって進むのだとは気がつかなかった。膝小僧くらいまでめり込む、二十間(約36m)も歩くと頭がくらくらして来る。下りになると、僕だけが雪の林の中にとり残されて七転八倒する。ラッセルの方がまだましみたいなものである。やっとの思いで林を抜けると、遥か遠くの一行に死にもの狂いで追いつくのだ。大きな山毛欅(ぶな)の木を、両股の間にしっかり抱え込んで、のけ様(ざま)にひっくり返り、僅(わず)かに顔だけが空気に曝(さら)されて、どう力を入れようにもびくとも手足が動かなかった時などは、あたりがしんかんとして来て、やれやれこれで死ぬのかと思った。
焼額の東側を巻いて熟平に出、カヤの平辺りに来た時には、ヌクヌクと立った山毛欅(ぶな)の肌が紫色に見えた。こいつはいけないと思って頭を振ってみるが、妙にあたりが気が遠くなる様に美しい。兎が方々から飛び出す毎に、一行は喚声をあげるが、こっちはもう兎もへちまもない夢見心地だ。カヤの平を出ると急に眼界が開けて、強い爽やかな風が吹き、まっ白い妙高の姿がくっきりと目の前に現れたが、これでまず半分、これから大次郎山にかかると言われて泣き度くなった。
大次郎山の手前で、例によって僕一人下りの遅れを取戻そうと泣きの涙で頑張って登って行くと、何処かの大学の山岳部の人だというブーさんとかいう人が、一人一行に遅れて地図を按(あん)じて景色を眺めている。声を掛ける元気もなく一行に追いつくと、これもとある山のてっぺんで行き悩んでいる様子である。ブーさんは道が違うと断定した。天狗主人のいう大次郎は城蔵とかいう山で、主人のいう毛無山というのは高社山だと断定した。高社山というのは確か上林に行く時電車から見えたのを覚えているから、随分馬鹿みたいな間違いだと僕はひそかに考えたが、兎も角評定(ひょうじょう)の間休めるのが何よりで、毛無に出ようが何処に出ようがこっちの能力外に属する事だから、僕は娘さんから飴チョコをもらって四方の景色を眺めた。ブーさんの毛無だというのは、まだ遠くの方で丸くなっていて毛が生えていた。夕暮はもう迫っていた。もう一ッ走りだ、やるべえ、やるべえ、などと青年達が言っている。覚悟はきめているもののいい気持ちではない。
やがてブーさんという人の主張で、馬曲という部落に下りる事に決った。もう薄闇で凸凹もわからない沢を少くとも僕だけは滅茶苦茶に転げ落ちた。一行からすっかり離れて了った僕に主人と番頭さんが附いていてくれたが五間(約10m)とは立ちつづけていない奴に附いているのだから、ずい分大変な事だったろうが、こっちは何んの因果でと思うとまるで護送でもされている様な気がして無性に腹が立って来て、感動の表情すら不可能なのである。
道らしいものに出た時にはもうすっかり夜であった。みんなは焚火(たきび)をして僕を待っていてくれた。カンテラの灯を頼りに馬曲について、腹わたに滲みる様な水を飲まされると、どうでももう勝手にしやがれと思った。中村の村についたのは十二時過ぎであった。飯山まで行くという一行にわかれて深田と二人で宿屋に行き、酒を呑み、いい修行になった、など減らず口をきいて寝て了った。
翌日は昼ごろまで寝て、性懲(しょうこ)りもなく高社山に登って湯田中に下ろうという深田の説に賛成した。スキーコースには赤い旗が立っているという、幸い行けども行けども赤旗が見附からないので、中途から引きかえして、木島の駅に出たから大事に至らずすんだ。上林の温泉につくと久米正雄などの一行がついていて、君達が行方不明になり、半鐘がなって消防が出ちまったと聞かされ、恐縮した。
翌日、丸池ヒュッテの裏山で滑っていて、エヤーシップの空缶を蹴っ飛ばそうと思い、したたか滑って来てスキーをぶつけたら、カーンと飛ぶどころか、大変な手応えで、もんどり打ってひっくり返った。スキーは折れてけし飛び、向う脛(ずね)を、こいつも折ったと思う程ぶっつけた。白樺の切株だったのである。宿屋に帰って見ると、足が二倍くらいに膨れ上っているのには驚いた。一緒に行った写真屋さんが、脱脂綿にザブザブにヨードチンキをかけて湿布してくれた。療治は少々荒いがこれが一番だという。しみるしみると思うのを荒療治というから仕方があるまいと我慢していたら、すっかり火ぶくれになった。
東京に帰ってすっかり上が潰れちまったひどい足を、友人の医者に見せたら、呆れ返って、ヨーチンの湿布だなんて非常識な奴だ、馬鹿といった、併しこれが一番だと言ったんだ、誰が言ったんだ、まさか写真屋がとは言い兼ねた。
(昭和九年十月号「山」。原題「志賀高原」)
ソース:小林秀雄「栗の樹」
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