2015年3月4日水曜日
初めてのスキーと大山 [藤木高嶺]
話:藤木高嶺
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小学校時代の、山で強烈な忘れられない思い出がある。
それは小学二年生の正月休みのこと。父に連れられて鳥取県の大山に行った。標高1,729mの中国地方の最高峰だ。生まれて初めてスキーをはいたのがこの時で、いきなり大山山頂へスキー登山をさせられたのであった。
スキーの滑走面にシール(アザラシ皮で登高用)をつけて、ストックで体重を支えながら登るのだが、雪が固くなって、あと滑りしたり、シールがはずれたり、何度もひっくり返ったりしてべそをかくが、「がんばれ、がんばれ」と父は情け容赦もない。
猛烈なしごきに耐えてがんばり通し、六合目でスキーをデポし、そこからアイゼンをつけて無我夢中で登頂した。頂上から見た眼下の日本海と弓ヶ浜の海岸線の眺望がすばらしく、目に焼きついて、登りの苦しさもすっかり忘れて、涙を流して感激したことが、生涯忘れられない思い出となった。
小学二年生の厳冬期の登頂は、当時の最年少記録で、朝日新聞の紙面にも写真入りで掲載されたとか(朝日新聞神戸支局長だった父が書いたのだとか)。凍りついた岩室のような小屋が御殿に見えて、中に飛び込んでテルモスのお茶を飲んだときのうまさと満足感。これらが私を山に熱中させるきっかけになったと思う。
六合目から下りは急斜面が続き、北側は氷壁が切り立っている。スキーをかついで降りようとすると、父は「男ならスキーで滑って降りろ」と私をどなりつけた。スキーをはいて歯を食いしばり、滑るというよりも転がるようにして、元谷コースを下った。
数年後、父はある雑誌にその時のことを「心の中で残酷だとは思ったが、ライオンが子を訓練するのに、崖から突き落とす、ということわざに倣った」と書いていた。私は「ライオン扱いだったのか」と苦笑した。やがて私は、父がしごきによって、私に冒険心、チャレンジ精神の大切さを教えてくれたのだと感謝するようになった。
藤木家の家族は、両親と、子供が男3人女3人の計8人で、私は6人中の5番目で下には妹がいる。私を除く5人の兄や姉、妹らは音楽関係の趣味にすぐれ、ピアノ、バイオリン、チェロ、琴などの演奏やコーラス、日本舞踊、謡曲などに長じていて、私には近づきがたいような存在に感じられた。また、5人ともハイキングやゲレンデスキーは好んでいたが、父の跡をつぐような岩登りや本格的登山には興味がなかったようなので、私の負けず嫌いの性格が、本格的な登山家への道に進ませたのだと思う。
私にとっては大山こそ私を育ててくれた恩人のような山と信じるようになって、これまで四季を通じて数え切れないくらい登ることになった。
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ソース:岳人 2015年 02月号 [雑誌]
藤木高嶺「山に生きる父と子の170年 4」
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