2015年3月23日月曜日

「オイ、俺はちょっと旅行してくるよ」 [若山牧水]



若山牧水「山上湖」より





 穏やかな酔(よい)が次第に身内に廻ってくると、うつらうつらと或る事を考え始めていた。昨日東京堂から受け取って来た雑誌代が、まだそのまま財布の中に残っている事も頭に浮かんで来て、とうとう切り出した。

「オイ、俺はちょっと旅行してくるよ」

 ちょっと驚いたらしかったが、また癖だ、という風で、

「何処(どこ)に…何日(いつ)から?」

 妻はにやにや笑いながら言った。

「今から行って来る、上州がいいと思うがネ、…」

 実はまだ行先は自分でもきまらなかったのである。印旛沼から霞ヶ浦の方を廻ってみたいというのと、赤城(あかぎ)から榛名(はるな)へ登って来たいというのと、この二つの願いは四辺(あたり)の若葉が次第に濃くなると共に、私の心の底に深く根ざしていたのだが、サテいよいよそれを実行するというのは今のところちょっと困難らしく思われて、妻にも言いはしなかったのであった。

「Y-さんを訪ねるの?」

「ウム、Y-にも逢って来るが、赤城に登りたいのだ、それから榛名へ」

 と言ってるうちに急に心がせき立って来た。もうちびちびなどやっていられない気で、惶(あわ)てて食事をも片附けた。

「それで…幾日位(くら)い?」

 為方(しかた)なしという風に立ち上がった妻は、いつも旅に出る時に持って行く小さな合財(がっさい)袋を箪笥(たんす)から取り出しながら、立ったままで訊いた。

 「そうさネ、二日か三日、永くて四日だろうよ、大急ぎだ」

 そう言ってる間にいよいよ上州行に心が決って、汽車の時刻表を黒い布の合財袋から取り出した。上野発午後二時のに辛うじて間に合いそうだ。袴(はかま)も穿(は)かずに飛び出した。









引用:新編 みなかみ紀行 (岩波文庫) 「山上湖へ」より




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