2015年3月3日火曜日

「山を見る」 [白籏史朗]



「こんな写真を撮る仕事も、いいかもしれない…」

近所の写真館に飾られてあった”山の写真”を眺めながら、白籏少年は思ったという。



白籏志朗(しらはた・しろう)

昭和8年に山梨県の北都留郡広里村(現:大月市)に生まれた。昭和8年(1933)といえば、日本が国連から脱退し、ドイツにヒットラーのナチス政権が誕生した時。太平洋戦争が勃発したのは、白籏さんが6歳の年。終戦は中学一年生のときだった。



戦後、白籏さんは写真家・岡田紅陽に弟子入りした。

岡田紅陽といえば富士山。その雄大な写真は戦後復興の象徴とされ、岡田氏は時の人となっていた。







「写真は命を懸けなくては撮れない。君は命を懸けられるのか?」

岡田氏は白籏青年にそう問いかけた。

「ハイッ! 覚悟しておりますっ!」

頬を紅潮させながら、白籏青年は言い切った。



のちに白籏さんは当時のことをこう語っている。

「そりぁ、『懸けられません』とは答えられないですからね(笑)。でも、ずいぶん威張った人だなと思いましたよ」



その日から、三畳一間での丁稚奉公がはじまった。

白籏さんは語る。

「もう一人の弟子と住んでいたんですけど、先生の写真の引き伸ばし作業か、お客さんのDPE(フィルムの現像・プリント)をやるんですが、朝まで終わらないことだってよくありました。どんなに遅くまで仕事がかかっても、朝7時には叩き起こされました。そのころ現像をやりすぎて、薬品で爪が浸食されて、いまでも反り返ってペラペラになったままです」

あまりの厳しさに耐えかねて、ほかの弟子はみんな逃げてしまったという。最後まで残ったのは白籏さんのみ。仕事のすべてを白籏さんが背負うこととなった。



白籏さんは語る。

「先生と山へ撮影に行くときは、軍隊靴の古いのがあったからそれを履いてね。シャツは駐留軍の放出品を着て。秋とか冬は寒くて大変でした。当時は機材がフィルムではなくてガラスの乾板ですから、とても重いわけです。先生は何にも持ちませんから、ひとりで70~80kgは背負ってました。普通の山ヤには負けてませんでしたよ。先生にとって、山に強い私がいたことは都合がよかったんじゃないかな」

給料は毎月500円。夜鳴きソバが50円、コッペパンが10円という時代だった。

「カメラがないから、先生から一番安いマミヤのジュニアっていう二眼レフのカメラを貸してもらって、朝まだ暗いうちから、あちこちの山を歩き回って撮影しました。フィルムはくれないんですけど、自分で節約して買ってプリントするんです。でも、あんまりたくさん焼くと印画紙を使ったのがバレるから、気をつかって(笑)」



厳しい徒弟生活に白籏さんは体調を崩し、実家の山梨に帰ったことがあった。

「休んでいいって言ってくて、それで2、3日寝てたら、先生から電報が届いたんです。なんて書いてあったと思います? 『カメラカエセ オカダ』です。さすがに僕も考えました。こんな調子で働いていてもお金は貯まらないし、自分の写真も撮れない」

ついに白籏さんは決意した。

「まず『ありがとうございました。大切に使わせていただきました』って、カメラを返してね。『たいへん申し訳ありませんが、今日で辞めさせていただきます』と言いました。そしたら先生がビックリ仰天してました。でも、20歳過ぎたばかりの若造だってプライドってものがありますから。飛び出しちゃったわけです」



その後、人生で一番の試練がはじまった。

三畳の屋根裏部屋を借りて、昼間はカメラ店から請け負った出張撮影やバレエの撮影。夜は暗室のなかでDPE(現像・プリント)の下請けなどをした。少しお金が貯まると、カメラを借りて山へ行く生活が25歳頃までつづいた。

転機は、山と渓谷社が発行するカレンダーに自分の写真が採用されたことだった。

「それでようやくちょっと自信がついて、山の写真だけで食っていこうという踏ん切りがついたんです。”山岳写真家”っていう職業は日本にまだなかったけど、不安には思わなかったですね。不安になってるヒマなんてない、『やるしかないんだ』、それしか思わなかったです」







「まずは南アルプスを全部撮ってやろうと思った。僕はあの大きな山容が好きなんだな。南アルプスを全部きちんと撮影した人がそれまでいなかったことも幸いしました。だんだん定期的な収入を得られるようになってきて、こんどは友達から車を借りて北海道から九州まで、徹底的に撮って歩いたんです」

山の写真を撮ればとるほど、白籏さんは「山に行って何を見ているのか?」「何を撮っているのか?」、そうした自問が深まっていったという。

”山を見る”とは、どういうことか?



白籏さんは語る。

「”山を見る”ということは、山と私の関係なんです。相対するということ。山には何か隠されているものがあって、それを掘り起こして見つけて撮るんです。たとえば山に入って雨が降るとしますよね。その雨は止まないかもしれない。そしたら止んだときに、この山はどんな表情を見せるんだろうかと思うんです。山は”とてつもない変貌”を見せることがありますからね。私はそれが見たいから幾日でも待つのです」

山の写真は、ただ山の頂上に立つだけでは撮れない。重い荷物を背負って、いいアングルの場所を探して、そこにテントを張って、山がいい表情を見せてくれるまで何日でも粘る。しかし、どうしてそんな大変なことをするのか?

「どうしてって? だって、誰も見たことのない山を見たいじゃないですか! 山は、どこへ行っても、何度同じ山へ登っても、いつも新しいことがあるはずなんです」







82歳となった今、白籏さんは語る。

「山の姿というのは、ただ高いだけではない。ただ美しいだけでもない。山は”生きている”と僕は思っているんです。山は、行けば行くほどに、わからなかったことが理解できるようになる。その気持ちは今も変わりません」









ソース:岳人 2015年 02月号 [雑誌]
白籏史朗「誰も見たことのない山の姿に焦がれ続けて」




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