2015年3月23日月曜日

近所の気のいい大阿闍梨 [藤波源信]




昨年11月、俳優の高倉健さんが亡くなられた折に、その座右の銘

「行く道は精進にして忍びて終わり悔いなし」

という言葉を贈った人が、比叡山の高僧、酒井雄哉だった。







藤波源信さんがその酒井さんに出会ったのは19歳のときだった。

藤波さんは言う。

「僕は普通のサラリーマンの家庭に育ちましたから、仏教に縁があったとか、興味があったわけではなくて。高校を卒業して、普通に進学する、就職する、そういうのではなくって、生き方をちょっと変えてみたいっていうのがあって、それにはお坊さんもいいかなって。その程度でした」

一年目は寮生活、二年目に寺の小僧になってみるかと勧められ、酒井さんと出会った。

「無知っていうのは怖いですよね。4年ぐらいいて、(飯室)不動堂を飛び出しました。掃除、洗濯、食事の用意。ただそれだけの淡々とした毎日です。それが修行だって言われるとそうかもしれないけど、何年続ければどうなるって決まってるわけでもない。永平寺なんかでしたら、それは修行と認められるんですが、僕らはそうではないんです。小僧さんはずっと小僧さんのままってこともありうる。食事の用意をずっとしてましたけど、調理師の免許がとれて料理人になれるわけではない、掃除がうまくなったからって掃除屋になれるわけではない。そんな生活が嫌になって」







飛び出した藤波さんは、小遣いのもらえる京都の寺院に入った。そして3年、今度は故郷の三重で寺の住み込みをした。

33〜34歳の頃、人生の先行きに不安を募らせた藤波さんは再び比叡山に足をむけた。酒井師のいる飯室谷へと。しかし門前払いにあってしまう。一度飛び出した人間に、酒井師は会おうともしなかった。

藤波さんは言う。

「こちらもしぶといから1年くらい通いました。でも、そろそろ諦めて、何か別の仕事を考えなければというときに、たまたま外に出てこられた酒井阿闍梨さんと出会ったんです。『いま何してる』と言われて、『あれこれバイトなんかもして過ごしてる 』なんて話しました。『修行をしたい』って言うと、『すぐには無理だ』と。そして、『サラリーマンになれ、東京に知り合いの会社があるからそこで働け』って。『わかりました』って僕は答えて、東京に行きました」

藤波さんは酒井阿闍梨の指示通り、東京の会社に入った。給料をたっぷりもらい、自分の時間もたっぷりあった。しかし、物質的な虚しさを感じるのにそう時間はかからなかった。

そんな折、酒井阿闍梨から連絡がはいった、「すぐに帰ってこい」と。







そしてはじまった十二年籠山。藤波さんは比叡山の千日回峰行へと向かっていった。

回峰行者の朝は早い。午前1時は、朝というより深夜である。浄衣とよばれる白装束を身にまとい、腰には「死出ひも」と「降魔の剣」をさす。白装束は死装束、腰の装備は行が途絶えたときの自害用である。

千日回峰行は満行まで7年を費やす修行で、およそ地球一周するほどの距離をめぐる。最初の3年は年間100日、1日約30kmを歩く。台風だろうが風邪をひこうが、1日とて休むことは許されない。行が途絶えれば即、死が待ち構えている。







雨の日は蓑(みの)、あるいは着茣蓙(ござ)を着用する。それでも「中はずぶ濡れ」になってしまう。滑落しそうな危険箇所もある。朝日が昇るまでは、そんな場所を提灯ひとつだけを頼りに歩く。「どこに段差があるとか、石があるとか覚えておかないと、暗闇の中では歩けない」。崖の近くで灯が消えてしまったこともあるという。

「酒井阿闍梨から『道は自分でつくるもんだ』と言われました。歩いてできていく道は、確かに雨とかに強いんです。鉈(なた)とかノコギリをもって歩いたこともありますよ」

ひたすらに歩けど、無心の境地には至れない。

「無心というのは脳の停止状態です。脳が動いていると何か考えていますよね。僕の場合は、ただ灯りをじいっと見つめて黙々と歩きながら、いろいろなことに思考をめぐらしていました。回峰行の立場から言うと、100日間歩いてあとの250日はオフですから、最初のうちはその間に読んだ本とか勉強したことについて。それに飽きてしまうと、人とお話ししたことなんかをくどくどと。あいつ、ああいうことを言ってたよなあとか。それに飽きると、次に新しく入ってきた情報、ホントに些細なことをああでもないこうでもない、そういうことの堂々めぐりです。仏さんは何かとか、仏教の無常とは何かとかね、そんなんは考えませんよ。人間、心の中に溜め込んだものがあります。時々それを外に出して空っぽにしてやらなきゃいけませんね。でないと考えもどんどん飛躍していってしまいます。僕らは自然の中でそれを出していく。登りになれば呼吸も苦しくなって疲れますから、そんなことも考えていられなくなります」

1年分の回峰行が終わったあとは「テレビを見ながらジュースでも飲むこと」が一番の楽しみだったという。

「記録をつくったスポーツ選手に『おめでとうございます、次の目標は?』って記者が質問してたりするでしょ。あれなんか、酷なこと聞くなぁって思いますよね。そのシーズン、その記録をつくるのにどれだけ神経を尖らしてすり減らして自分を律してきたのか、わかってるのか。こっちは命かけてやってるんだよって。やっと終わってホッとしているところに、次のこと聞くなよって」







5年目には、不眠不臥の荒業があった。9日間の断食断水、不眠不臥。

「お堂に籠るのは、じっとしているだけ。あとは『おなか減ったなあ』とか思いながら我慢すればいいんです。歩いているほうが怖い。外に出るということは危険が伴います。常に緊張感が漂うし、神経を尖らしてなきゃいけない。石が飛んでくるかもしれない、足を踏み外すかもしれない。台風のときはドーンと木が倒れてきた。行く手がふさがれたので崖をよじ登りました」

6年目は、最初の30kmにプラス60km。これを100日間。7年目には、さらに84kmが加えられて100日間。

「でもね、みなさん思っておられるほど重労働じゃないですよ。(最初の30kmは)急げば4時間、お参りしながらだと6時間ぐらい。帰ってきたら1時間ほどお勤めをして、読書して食事して。労働時間で考えれば、会社勤めしてその後に皇居を走ってるような人たちと比べたら楽なもんですよ。僕らはちょっとした運動をして、体の調子がよくなって健康体になって百日間を終わらせればいいんですから。上司のように怒る人もいないし…、いいんじゃないですかねえ、一周してきたらその日は終わりなんですよ(笑)」



厳密にいうと、千日回峰行は満行まで975日間。1,000日間に25日足らないが、残りの日数には「一生をかけて行じる」という意味が込められている。

満行をはたした藤波さんは「大阿闍梨」の称号を得た。大阿闍梨には「土足が禁じられている御所に土足で参内する」。比叡山延暦寺に残る大阿闍梨は48人。戦後は13人、藤波さんはその12人目であった。

だが、その大阿闍梨の称号を得てなお、藤波さんは「近所の気のいいおっちゃん」のままだった。







「自然はいろんなことを教えてくれます。でも、それは自分で感じなければいけません。受け入れる心が必要だと思うんです。そうすると、喉が渇けばどこに水があったかとか、そういうことが自然にわかってくる。また、大きな木が倒れるとそこに光が差し込んで草が生えてくるとか、草が生えてくると水が湧き出てくるとか、そういう調和のとれた自然の営みも見えてきます。ある先生が教えてくれました。『木は宇宙なんだよ、大きな生命体なんだよ』って。一本の木にはいろんな虫がいます。それを食べにくる鳥も寄ってきます。そこには営みがあるっていうんですね」

「毎日歩いていると、ものの見方が変わってきます。自然の流れの中では奇跡のようなことは起こらない。たえば木にしても、種が落ちて小さな新芽が芽吹き、徐々に成長していく。いきなり木にはならない。そして木にしろ草にしろそれぞれ役割があって、支え合って森になるんですね。そうやってできた森は強い。植林はやっぱり弱いですよね。そういったことも自然は教えてくれる」

「人間社会は歪んでますよね。草鞋(わらじ)を履きますでしょ。土の感触がわかるのはいいですね。ツボも刺激されるし(笑)。人間は多少刺激があるほうがいいんじゃないでしょうか。過保護すぎると退化して、やがて本能が失われていくような気がします。いろんなものが発明されてどんどん便利になっていくとね。でも一方で、発明する能力も人間には大切です。単純に原点に、昔に戻ればいいっていうことでもありません。だから接し方ですよね。自然や山に入るという行為は、自分を原点に戻すにはいいことかもしれません」

「そういう意味では、道具がそろい過ぎるのも問題がありますよね。富士山なんかは典型的。道も含めていろんなものが整い過ぎて、多くの人が行く。多くの人が行けばさらに設備を整えなければならない。設備が整えばさらに…。そうやって自然が汚れていく。あれこれ造んなかったら人も行きませんよね」

「人が歩くと自然に道ができる。それでいいはずなのに、人為的に道を造るとそれに合わせなければならない。階段を考えるとわかりやすい。こちらが元気なときはいいが、疲れていたり怪我をしているときにはそれが辛い。そういう誰かが造った『型』に人間が当てはまっていくというのが今の世の中なのではないでしょうか。そして、それについていけない人が増えているのも現代社会の一面。人はみな、それぞれに生き方があるのにね」











ソース:岳人 2015年 04 月号 [雑誌]
藤波源信「山の中を歩き、祈ること、一千日」




「オイ、俺はちょっと旅行してくるよ」 [若山牧水]



若山牧水「山上湖」より





 穏やかな酔(よい)が次第に身内に廻ってくると、うつらうつらと或る事を考え始めていた。昨日東京堂から受け取って来た雑誌代が、まだそのまま財布の中に残っている事も頭に浮かんで来て、とうとう切り出した。

「オイ、俺はちょっと旅行してくるよ」

 ちょっと驚いたらしかったが、また癖だ、という風で、

「何処(どこ)に…何日(いつ)から?」

 妻はにやにや笑いながら言った。

「今から行って来る、上州がいいと思うがネ、…」

 実はまだ行先は自分でもきまらなかったのである。印旛沼から霞ヶ浦の方を廻ってみたいというのと、赤城(あかぎ)から榛名(はるな)へ登って来たいというのと、この二つの願いは四辺(あたり)の若葉が次第に濃くなると共に、私の心の底に深く根ざしていたのだが、サテいよいよそれを実行するというのは今のところちょっと困難らしく思われて、妻にも言いはしなかったのであった。

「Y-さんを訪ねるの?」

「ウム、Y-にも逢って来るが、赤城に登りたいのだ、それから榛名へ」

 と言ってるうちに急に心がせき立って来た。もうちびちびなどやっていられない気で、惶(あわ)てて食事をも片附けた。

「それで…幾日位(くら)い?」

 為方(しかた)なしという風に立ち上がった妻は、いつも旅に出る時に持って行く小さな合財(がっさい)袋を箪笥(たんす)から取り出しながら、立ったままで訊いた。

 「そうさネ、二日か三日、永くて四日だろうよ、大急ぎだ」

 そう言ってる間にいよいよ上州行に心が決って、汽車の時刻表を黒い布の合財袋から取り出した。上野発午後二時のに辛うじて間に合いそうだ。袴(はかま)も穿(は)かずに飛び出した。









引用:新編 みなかみ紀行 (岩波文庫) 「山上湖へ」より




2015年3月21日土曜日

「狩猟をして思ったこと」 [瑛太]








瑛太「目の前で鹿が死んでいくのを見たときは、正直言葉にならなかった。感覚としてはショッキングだった。頭の整理が全然つかなくて、それは今もあまりついていないです」

服部文祥「そんなに?」

瑛太「まず一頭目を服部さんが撃ったとき、一歳半って聞いて自分の娘の顔が浮かびました。それから今まで普通にスーパーでかっていた肉のこととか、焼肉屋で食べているハツって、目の前にある心臓だよなとか、これまで何気なく見てきた光景がものすごい速さで頭の中を巡るのに、答えがみつからない」

服部「確かに”今まで食ってた肉は何だったんだろう”って思うよね、誰が殺した肉なんだって気づかされる。俺はそれを自分でやったらどう感じるのか知りたくて狩猟を始めたんだけど、一頭目は同じように結構ブルーになったよ。結局どう肯定しようと思っても”殺し”だからさ、100%の肯定はできない」

瑛太「肉の背景を知ったという単純な話じゃない気もしますよね。だって、”牛肉おいしいな”って言ってる子供たちに、その前に生きている牛や屠殺現場を見せればいいってものでもない。自分自身も今はまだ道徳観とか秩序みたいなものに引っ張られているのかなとは思うけど、かといって本当の感覚が何なのかもわからない」



 



服部「うちの子供たちは結構ドライになったかな、狩猟者っぽいっていうか。家で飼ってるニワトリにも愛情はちゃんと注ぐけど、食べるときは食べる。そこは別に考えている感じがする」

瑛太「僕も小学校の頃から狩猟や解体を見ていたら、ドライになってたんですかね」

服部「どうだろうな、俺は30歳でサバイバル登山を始めて、35歳で狩猟を始めたけど、肉の背景を知らなかったっていうショックと同時に、間接的に殺しを買っていることをまったく疑問に思わなかった自分にもショックだった。”あぁ、俺こんなことも知らないで30歳になっちゃったのか”ってさ」

瑛太「魚とか鳥だったらここまでショックではなかったかも。でも鹿は身体の造りとか筋肉の付き方なんかが人間に近いから、感情に入り込んでくるものが大きい。そうやって理屈で自分に言い聞かせようとするんだけど、もう理屈ではないというか」

服部「狩猟免許に興味あるって言ってたじゃん?」

瑛太「あります。けど単純な憧れじゃ踏み込めない世界だと思いました」







 服部「それはなんでだろう。見た目? 匂い?」

瑛太「匂いに抵抗はなかったですね、なんというか、責任感…」

服部「追う撃つは面白い。でもそれで終わりじゃない」

瑛太「それは本当にそう思いました。自分で撃って、解体するところまで全部やらないと、結局重要な部分は見えてこない気がした。登山でもそうじゃないですか、キツイ場面で、もう帰りたい、なんでこんなところに来たんだろうって思うけど、いざ山頂に立って帰り道になると、また来たいなって考えてる。狩猟もそうなのかなって…。とくに解体はしっかりとした信念というか、ブレのない気持ちでやらなきゃなとは思いましたね。例えば曖昧な気持ちでナイフを持って、『え、次どうするんですか? この次はどうすればいいですか?』って、そんなじゃあ体を切り刻まれてる方はたまらないだろうなと」

服部「そういう気持ちがあるなら、それで充分でしょ。獲物に対して失礼ではないと思う。最初はみんな下手くそだから、自信を持ってやればいい。スポーツでも狩猟でも、自分ができることを100%出せば相手に対して敬意も伝わる。俺は鹿も弱い奴とかズルい奴に殺されたらなんとなく無念なんじゃないかなって思うから、獲物に恥じないように、いつも強くありたいと思ってる。まぁ、銃を使っている時点ですでにズルいし、鹿が無念だとかは考えてないかもしれないけど」

瑛太「それは俳優も一緒ですね。100人規模とか現場が大きくなっていくと、瑛太さん、瑛太さんって言ってくれる人もいるけど、どこかで自分は偽物なんじゃないかっていう心のしこりみたいなものは一時期ありました。でもそういう迷いを抱えてたら、結局自分の行為に自信が持てなくなるし、それは期待してくれる人に申し訳ないなって、最近はそういうのも全部自分で引っ張っていけると楽しいなと思うようになりましたね」



 



服部「そういえば、今日思ったけど、双眼鏡で鹿探したり、スリングで引き上げたり、様になってたな」

瑛太「『サバイバル登山入門』はかなり読みました。この本がきっかけで、サバイバル登山が流行ったら、どうします?」

服部「大丈夫、流行んないから」

瑛太「でも、このまま文明が行き過ぎたら、自然回帰みたいな流れもあるんじゃないですか?」

服部「流行っても、登山である限りは大丈夫だよ。人間が生物の力でできることは限られてるから。荷物背負って歩くということが、そのまま抑止力になる。しかも冬のサバイバル登山って想像以上に寒いから、みんなやらないよ。でも狩猟だけだとただの殺し屋みたいでそれも嫌だし、やっぱり登山がいいなぁ」







 瑛太「今回の体験はまだうまく言葉にならないけど、それとは別に、肉は食べるとおいしいですね」

服部「そう、そこが重要。うまいから救われるし、許される」

瑛太「でもショッキングな光景はまたすぐ戻ってきたりして…、”いただきます”って、そういうことなのかなとも思いました」

服部「うまいことまとめるじゃん。でも、そのうちその”いただきます”も疑うようになる。いただきますって言えば獲物殺しは許されるのか。昼間の心臓の儀式といっしょ」

瑛太「難しいですね」

服部「難しいけど、肉はうまい。いろいろ考えるのが人間の特権かな。考えればそれだけ登山も深くなるし、何も考えないで登るよりは、格段に面白いと思う」

瑛太「また一緒に山に行きましょう」

服部「つぎは夏だな、次回イワナ釣り編。休みとれるの?」













(了)






引用:岳人 2015年 04 月号 [雑誌]
瑛太 × 服部文祥
対談「サバイバル登山、狩猟をして思ったこと」




浮氷の上の男たち [ナンセン]




”結局のところ、私たちは失敗を恐れる必要などあるのだろうか。6人の男が浮氷に乗って南へ流され、目指した場所とは違うどこかに上陸し、しかる後に目的地へとたどり着く。それなら不満を言う理由などない。仮に西岸に到着できなかったとしても、何だというのだろう。はかない希望がついえてしまう例など、歴史にはいくらでもある。今年は失敗したとしても、来年はうまくいくかもしれない”

”必要なぶんだけ先を見て、あとは成り行きにまかせよう”


”運命とは、こうも唐突に変わるものか。我々の足が、やがて岸を踏むことは明白となった。昨日そんなことを言われても、誰も信じなかっただろう”

”不確実さが確実さに道を譲り、願いの実現が可能であるとわかった瞬間ほど、明るい気持ちになることはないだろう。夜明けがもたらす震えるような喜びにも似ている。真昼よりも夜明けのほうが美しく、かつ光のありがたさを実感できるものだ”


フリチョフ・ナンセン『グリーンランド初横断』





2015年3月18日水曜日

ネイチャースキーのすすめ [橋本晃]




話:橋谷晃





 点々とキツネの足跡が続く雪原に、まるでカヌーを漕ぎ出すかのように、ゆっくりとスキーを滑らせる。この瞬間、とてつもない自由と、自然との一体感が、全身と突き抜ける。

 夏と違って、道にとらわれることはない。動きを妨げていた笹藪や潅木は、今はすべて雪の下。森の中を、そこに棲む動物に生まれ変わったかのように、どこへでもスイスイと自由に進んで行ける。道しか歩けなかった夏は、この森の”お客様”だったのが、今ではすっかり風景の一つとして融け込んでいる自分を感じる。



 スキーは私たちに自由をもたらす魔法の道具だ。雪の自然を五感で感じるために、かかとの上がるスキーを使って野山を楽しむ。そんなに技術がなくても、特別な体力がなくても、誰でも楽しめる。スキーを使った雪のハイキング、それがネイチャースキーだ。

 職業柄、四季を通して風光明媚なところばかり歩いているのだが、なかでも思わず息をのむような美しさに出会うのは、やはり雪の森がいちばんだと思う。雪の森は、訪れたことがない方が想像しているよりも、たぶん、ずっと明るい。雪の輝きとともに、樹々は葉を落とし、藪は雪の下に隠れるので、とても開放的だ。その中を自由自在に移動できる感覚には、独特の解放感がある。







 たとえばペンションや別荘が立ち並ぶすぐ裏の林でも、そこは普段は人が立ち入らない別世界。中へ分入れば、すぐに大自然に包まれた気持ちになる。平らな場所でも、スキーを使うと1歩の距離がスーッと伸びるので、動くことそのものが何とも楽しい。自分が雪上歩行に適した動物に生まれ変わったかのようなその感覚は、初めて自転車に乗れたときのワクワク感に似ているかもしれない。

 ネイチャースキーはゲレンデのスキーよりも、ずっと入りやすいと思う。歩くことができるので、まったく平坦な場所から始められる安心感がある。うまく滑ることが目的でなく、自然の風景に会いに行くことが目的なので、ブレッシャーもない。

 そして少し慣れてきたら、歩くだけでなく滑ることも大きな喜びになる。丸ごとの自然の中を滑るのは、整地されたゲレンデでは味わえない、無条件の喜びがある。樹々の間を縫うときの踊るような喜びは、整備されたコースと違ってけっして飽きることがない。



 最近は”サイドカントリー”という言葉もある。リフトなどを使って少し高い場所へ行き、ゆっくり滑り降りたり、野山を横切ってハイキングしたり。

 ネイチャースキーに使う道具だが、私の場合は滑走面に登り用の刻み(ステップカット)の付いたテレマークスキーを使っている。ゆるい起伏が連続するような野山や森を歩き、滑り、旅を楽しむネイチャースキーには、シール(クライミングスキン)を貼ったり剥がしたりすることなく、いつでも登れて、いつでも滑れる、ステップカットの付いたテレマークスキーが、自由で使いやすい。

 活気づく春の森でスキーに乗れば、移動そのものが遊びになる。遊びながら経験や感動を積み重ねるほどに広がる、ネイチャースキーの世界。里はすっかり春めいてきたが、残雪の森はまだしばらく楽しめそうだ。







 …






ソース:岳人 2015年 04 月号 [雑誌]
橋谷晃「ネイチャースキーで残雪の山を歩く」




深田久弥と笈ヶ岳(おいずるがだけ)





 笈ヶ岳(おいずるがだけ)の名を知らしめたのは、『日本百名山』を著した深田久弥だった。

 地元の加賀市大聖寺から見えるこの山に、深田は中学生のころから憧れていた。百名山に選出したかったが、当時、深田は登頂の機会をつかむことができず、諦めざるを得なかったという。

「笈岳登山は多年の私の念願であった。しかしこの山には道がない。藪がひどいから残雪の頃を見計らって登るほかない。その残雪も少し時期が早いと深くもぐるし、少しおくれると雪の消えたところに厄介な藪がでてくる。ちょうどいい時分というのはわずかである。(中略)あれやこれやと考えると、なかなか一筋縄ではいかぬ山である(『百名山以外の名山50』)」



 深田久弥は65歳のとき、遂に50年来の憧れの山へ向かう。苦しいのは覚悟の上と、藪をこぎ、雪の急斜面を歩き、笈ヶ岳の頂上に立った。その文章からは、苦難と同時に、春を待ちきれない草木の躍動を感じた深田氏の喜びが伝わってくる。










引用:岳人 2015年 04 月号 [雑誌]
笈ヶ岳「春だからこそ登れる残雪の名峰へ」




季節を逆に






  北国の春の山

それは季節を逆にたどって

もう一度雪の中へ返ることである



深田久弥『百名山以外の名山50




いまから「猟師」になりたい人へ



千松信也「ぼくは猟師になった



「まえがき」より



 僕が猟師になりたいと漠然と思っていた頃、「実際に猟師になれるんだ」と思わせてくれるような本があれば、どれほどありがたかったか。確かに、世の中に狩猟の技術に関する本やベテラン猟師の聞き書きのような本はありますが、「実際に狩猟を始めてみました」という感じの本は見たことがありません。ましてやワナ猟に関する本は皆無に等しいです。実際の狩猟、猟師の生活をひとりでも多くの人に知ってもらえたら、と前々から思っていたことも本書の執筆の動機でした。

 狩猟というと「特殊な人がする残酷な趣味」といった偏見を持っている人が多いです。昔話でも主人公の動物をワナで獲る猟師はしばしば悪者として描かれます。また、狩猟をしていると言うと、エコっぽい人たちから「スローライフの究極ですね!」などと羨望の眼差しを向けられることもあります。でも、こういう人たちは僕が我が家で、大型液晶テレビをお笑い番組を見ながら、イノシシ肉をぶち込んだインスタントラーメンをガツガツ頬張っているのを見ると幻滅してしまうようです。僕を含め多くの猟師が実践している狩猟は、「自分で食べる肉は自分で責任を持って調達する」という生活のごく自然な営みなのですが…。いろいろな意味で、現代の日本において猟師は多くの人々にとって遠い存在であり、イメージばかりが先行しているようです。

 そこで本書では、具体的な動物の捕獲法だけでなく、僕がどういうきっかけで狩猟をしたいと思い、実際に猟師になるに至ったのかも詳しく書いています。また、獲物を獲ったり、その命を奪った時、そして解体して食べた時の状況をなるべく具体的に書き、その料理のレシピなども紹介しました。本書を読んで、少しでも現代の猟師の生身の考えや普段の生活の一端を感じていただけたらありがたいです。そして、僕より若い世代の人たちが狩猟に興味を持つきっかけになれば、これ以上うれしいことはありません。







「あとがき」より





 本書で紹介した狩猟の方法や鳥獣の解体の仕方、調理法などは、あくまでも僕が師匠から教わったことを参考にしながら実践している方法です。他の地域にはまた違った狩猟法や解体の仕方が伝わっていますし、様々な伝統もあります。僕自身もまだまだ修行中の身で、決してこれが正しい完成されたやり方というわけではありません。本書は僕が狩猟を学んでいくなかで試行錯誤しているその途中経過の報告ぐらいに考えていただけるとありがたいです。新米猟師の書いたことと、大目に見ていただければと思います。

 七度目の猟期を迎えて思ったのは、やはり狩猟というのは非常に原始的なレベルでの動物との対峙であるが故に、自分自身の存在自体が常に問われる行為であるということです。地球の裏側から輸送された食材がスーパーに並び、食品の偽装が蔓延するこの時代にあって、自分が暮らす土地で、他の動物を捕まえ、殺し、その肉を食べ、自分が生きていく。そのすべてに関して自分に責任があるということは、とても大変なことであると同時にとてもありがたいことだと思います。逆説的ですが、自分自身でその命を奪うからこそ、そのひとつひとつの命の大切さもわかるのが猟師だと思います。

 猟師という存在は、豊かな自然なくしては存在しえません。自然が破壊されれば、獲物のいなくなります。乱獲すれば生態系も乱れ、そのツケは直に猟師に跳ね返ってきます。狩猟をしているときは、僕は自分が自然によって生かされていると素直に実感できます。また、日々の雑念などからも解放され、非常にシンプルに生きていけている気がします。








ソース:千松信也「ぼくは猟師になった



2015年3月11日水曜日

カメ五郎の獣道




普通の登山シーンでは「登頂した山の数」が勲章になる。

ところが、カメ五郎は違う。

「同じ山に運んだ足の数」が彼の自慢だ。”自分の山”を決めて、そのエリアと深く関わっていく。地図は持たず、行ける範囲で下見、野営(ゴロ寝)を繰り返し、少しずつ地形を覚えて行動範囲を広げていく。それがカメ五郎流なのだ。







カメ五郎はまったくの独学だ。自らの一歩一歩が、そのサバイバルスタイルの基礎となっている。

まず下見であるが、普通に登山道もしくは林道から山に入る。そして”アシ”の濃い獣道を見つけたら、そこが未開エリアへの入り口となる。もし獣道が見つからないなら、無理して藪には入らない。山のプロフェッショナルである獣が寄り付かない場所には、何か危険があるということなのだ。かつてカメ五郎は、前方が見えない藪を漕いでいたら突然、崖っぷちに出てしまったという恐ろしい体験もしているという。



基本的に探索は登って行う。下ることには滑落の危険などが付きまとうからだ。

自ら「臆病だ」と語るカメ五郎。奥地へと分け入りながら、何度となく振り返る。引き返さなければならなくなった時、少しでも往路の風景を覚えていたほうが有利だからだ。

それでも道に迷ったら、とりあえず頂上など高いところへ登り、そこから開けたところを優先的に下っていく。そうすると自然と獣道や林道に当たることが多い。獣もやはり、楽な道、安全な道、そして人里の方へ向かう場合が多いのだという。



獣こそ山のプロフェッショナル。

それに従い歩けば、間違いはない。



カメ五郎が獣を敬えば、獣の方とて彼を無視できない。

かつてカメ五郎が何度も歩いて濃くした道を、次のシーズン、獣がさらに歩いて濃くしていたことがあったという。

獣も認めるカメ五郎の「道なき道」。彼が山に入るのは、登るのが目的というよりも、野生と一つになるためなのだ。










(了)






ソース:Fielder vol.20 道なき道を行く (SAKURA・MOOK 66)
カメ五郎「動物とともに」