2014年10月9日木曜日

登山と予定調和 [剣岳]



〜宮城公博「残された冒険の可能性を求めて 〜池ノ谷から劔尾根」より(抜粋引用)〜


 近代の登山は、西洋的な合理主義に基づくアルピニズムを中心として発達してきたとされている。わが国においては文明開化期に輸入され、日本の近代化とともに発展し広まっていくこととなるが、その過程はヨーロッパのそれとは趣きを異にする。それは日本と欧州の山岳そのものの違いもあるが、世界最古の歴史をもつといわれる我が国の伝統的登山の影響が大きい。

 日本には大きな壁や高山こそ存在しないものの、決して広いとはいえない国土のうち、7割を多様な山地が占めている。そこに四季の彩りと多雨多雪といった条件が掛け合わされることにより、世界にも類がないほどの複雑な自然環境が存在しているのだ。そこから生まれた多様な自然観こそが、自然崇拝やアニミズムといった文化を生み出し、それが反映された結果、信仰登山に代表される日本の伝統的登山が発展してきたといえるだろう。



「これは川ではない、滝だ」

 明治時代、砂防の父と呼ばれたオランダ人土木技師、ヨハネス・デ・レーケが言ったとされる言葉。立山連峰から富山湾までわずか56kmの間に、高差3,000mを流れ落ちる常願寺川を指して言ったといわれる。県の職員による発言ともされているが、ヨーロッパのなだらかな大河を観てきたデ・レーケが、日本の急峻な河川にそのような印象をもったとしても不思議ではない。

 そんな常願寺川に代表されるように、富山湾から糸魚川、上越にかけての地域には日本屈指の急峻な河川がいくつも流れ込んでいる。それらの水源の代表格をあげれるとすれば剣岳になるだろう。稜線をはさんで東西に二つの剣谷を存在させている剣岳、東には古くから幻の大滝として畏れられている世界屈指の大ゴルジュ剣沢大滝が、西には剣岳西面の静けさを象徴するように池ノ谷(いけのたん)ゴルジュが眠っている。水量豊富で豪奢な剣沢大滝に比べると、遅くまで雪の下に眠る池ノ谷ゴルジュは地味に映りがちである。だが、水と氷という二つの彫刻刀によって造型されたこの谷は、まさに日本的特徴と造形の美を有している。

 暗い印象の剣岳西面においても、池ノ谷ゴルジュはとりわけ暗い。狭い水路には有史以来、日の光が当たっていない場所も多いだろう。谷は出だしから連瀑で始まっており、決して難しい滝ではないが遡行者をふるいにかける。それを越えていくと、滝好きには目から鱗の代物、国内最大規模のCS(チョックストン)滝、池ノ谷大滝25mが現れる。垂直に立ち上がる側壁は光の侵入をこばみ、その地球離れした景観からスペースCS滝とも呼ばれており、おそらく人類が太陽系の外に出るような時代になってもこの滝の攻略はされないまま、谷の中で独特の宇宙を保っているのではないかと思われる。

 最後の大滝を越えるとゴルジュは終わりを告げ、見慣れた剣岳の岩峰群が目に入る。どこか夢の世界から現実に帰ってきたような気分になりながら、しばし悠久の時がつくりし自然の芸術を眺め、谷を後にした。



 2014年7月、ゴルジュから先の続きを歩くことになった。

 花や景色を愛でながら、のんびりと剣尾根末端まで歩いた。小窓尾根の薮伝いに手入れされた道があり、地元の人の、この地への愛を感じる。剣尾根は取付となる末端の岩場を10mほど登ると、ひたすら薮漕ぎとなる。獣たちの足跡や糞が道を示し、ときに獣のように這いつくばって2時間ほど薮を漕ぐと、薮の合間に小さな壁が現れる。その後はまたしばらく薮が続き、獣の気分で薮に没頭していると、ガスの合間に岩峰が現われた。この日も時間は早いが、雨に叩かれるのにも飽き飽きしており、ガレ場を整地して早々にテントに入り込んだ。

 翌朝、剣尾根のハイライトへ。Dフェースだ。ここから先が「門」をはじめとする剣尾根を代表する部分であるはずだが、久々に冴えない登山をしてしまった。下り坂の天気と、明るいうちに登山道に出たいという思いから、ろくに山を見ずに残置支点とトポの赤線を追う単調な運動で壁をこえてしまったのだ。今にして思えば、回り込んで側壁の大滝状態になったルンゼでも登れば楽しかったのではないかと思う。予定調和を優先させていては、何のための登山かわからなくなっていけない。

 情報やルートは予定調和をもたらすが、本来あるはずの山を小さくしてしまいがちだ。尾根にせよ谷にせよ、本来、一本の赤線と数字だけで表現しきれるものではない。岩と雪の殿堂である剣岳も、メジャーなラインを離れたら、冒険の余地がまだ残されているかもしれない。








ソース:岳人 2014年 10月号 [雑誌]




0 件のコメント:

コメントを投稿