2014年10月29日水曜日

シェルパと石川直樹



〜石川直樹「シェルパの魅力に取り付かれて」〜




 …

 それにしても、それほどまでに石川さんが惹かれる「シェルパ(※1)」の魅力とは、何なのだろうか?

石川「カッコいいな、と。たとえばマカルーに登ったときに、頂上直下で日の出を待っているとき、一緒にいたシェルパが『ちょっとタバコ吸っていい?』ってぼくに聞くんですね。自分は、サミットプッシュ(※2)の日に食糧は何を持っていくか、どのポケットに何を入れるか、もちろん重さのことも気にして細心の注意を払って緊張していくわけです。なのに、彼らの胸のポケットにはタバコが入っていて、頂上直下で一服する。タバコは持ってきているのに、水は凍らせて飲めなくなってしまって、『ナオキ、ノドが渇いたから水をくれないか』なんて言われたり。僕はそれを見て、この人たちは8,500mでも村で暮らしているときも同じ感覚なのかな、と思った」

 山に登る動機そのものが、一般の登山者とはまったく異なるシェルパたち。そんな屈強なシェルパが、ぽろりと「エヴェレストに登頂することなんかより、冬場のヤクの世話のほうが、ずっと大変なんだ」と話すとき、石川さんの心はグッと彼らに惹きつけられる。そして、彼らの生活のようすや、彼らの文化をもっと知りたいという気持ちが、ヒマラヤの山嶺へと向わせる。



 世界のことを知るために、山に登ったり川を下ったりしているだけだと言い切る石川さんだが、そうは言いつつも、8,000m級の登山の楽しさは、もちろん感じている。体をぜんぶ使い果たすというこの感覚は、水平方向の旅では得られない充実感に満ちているという。

石川「暑かったら冷房をつけて、寒かったら暖房をつけて、というように、周りの環境を変えることはできない。高所順応なんていう行為を考えてもわかるように、自分が変わっていかないと前に進めないっていうのは、独特の旅のありかたです。そして、自分の弱いところも強いところも全部わかる。そんなことは、登山でしか体験できませんよね」




 …

 来年(2015)は、8,000m峰の5座目となるK2への遠征を計画中の石川さんだが、予定では知り合いのシェルパたちも同行するという。

石川「ネパールの自分たちの住んでいるクーンブ地方の山ばかり登っていたシェルパたちが、パスポートを取得してパキスタンの山まで仕事をしに行くわけですから、それはちょっと興味深いですよね。果たして、知らない山でしかも異なる宗教の国で、彼らはそのこと自体をどれだけ楽しんだり、実力を発揮できるのか。チベット仏教の土地からイスラム教の国へ行くわけですから、地元の人々とどんなふうに交流するのかな、とか」



 石川さんにとって初めての一人旅は、高校生のときに訪れたインドだった。読書が好きだった石川さんは、そのころ読んだ本に影響を受けて、旅に憧れる少年だったという。

石川「植村直己の『青春を山に賭けて』や、小澤征爾の『ボクの音楽武者修行』などを読んで、自分もいろいろなところへ行って、いろいろな人に会って、いろいろな景色を見てみたいと思っていました。たぶんその頃から、未知のものに出会える『旅』というものに惹かれていったんだと思います」

 自分を何かに例えるならば、「獲物を狙って撃ち落とすハンターではなく、池に釣り糸を垂らして待っている釣り人タイプ」なのだそうだ。

石川「水の中は見えなくて、デッカイ魚が釣れるかもしれないし、メダカが釣れちゃうかもしれない。はたまた空き缶が引っかかるかもしれない。でも、もしかしたらその缶が200年前の珍しい缶かもしれない、みたいに思っています。何が飛び込んできても、興味がないと切り捨ててしまわないで、ぜんぶに扉を開いていると、向こうからいろいろやってくるんです。逆に、これしかないって思いつめていると、結局そこにたどり着けなかったりするんですよ」








※1「シェルパ」:
シェルパとは、現在はヒマラヤ登頂を目指す登山隊の登山ガイドという意味で使われている。シェルパとは、本来はシェルパ族のことである。彼らはチベット語で「東」という意味があるように、もともとチベットに居住していたが17~18世紀頃にネパールに移住してきている。今はネパールでは少数民族の1つとされている。シェルパ族の人々は高地という過酷な環境に住んでいるため体が高地に順応していることもあり、彼らの身体能力を生かして荷物運びとして外国人登山隊に雇われるようになり、現在では、ヒマラヤ登頂を目指す、登山隊の登山案内や荷物を運んだりしている。この登山ガイドの仕事はシェルパ族の人々にとっては高収入であり、
生活のために登山ガイドを目指す人々が多いが、ヒマラヤ登頂や下山途中で命を落とす人も少なくない。命を落としたシェルパには残された家族もいて、彼らをサポートすることも課題になってきている。なお最近はシェルパ族以外の他民族の登山ガイドもシェルパと呼ぶようになってきている(初心者のための登山用語)。

※2「サミットプッシュ」:
アタック(英語:attack)とは、ヒマラヤなどの高峰などで最終キャンプ地から頂上を目指して行動することをいう。または、困難な登攀を伴う登頂のことを指す場合もある。ただ、アタック(attack)は、本来は「攻撃する」という意味であり、近代登山がアルピニズム精神論とともに日本にはいってきたときは、イギリスでもアタックを使っていたが、現在ではイギリスでもアタックという言葉は使われなくなっており、世界では「サミット・プッシュ(Summit Push)」が使われている。サミット・プッシュとは、自分の体を自分で頂上まで押し上げる、という意味である。自然の象徴である山に対して攻撃を意味するアタックを使用するのは、自然に行かされている人間のおごりであると、みなされているのである。実際に名だたる登山家の中には、アタックという言葉はあたかも山を征服しにいくかのようであり、ふさわしい言葉づかいではないと考える人も多い(初心者のための登山用語)。



出典:岳人 2014年 11月号




2014年10月14日火曜日

時間を飛び越えた「無我」 [執行一利]



〜執行一利「本州分水嶺大縦走」より(抜粋引用)〜


 空から降った雨水が「太平洋」に注ぐのか、それとも「日本海」に流れ落ちるのか。水系を太平洋側と日本海側に分つのが、日本の背骨ともいうべき「本州分水嶺」。全長2,000kmを超える「道なき道」。


 私が分水嶺縦走を思いついたのは、関東地方州境一周歩きを目指していたことに関係がある。湯河原(神奈川県と静岡県の県境)から北上し、山行日数延べ85日、およそ6年をかけてすべての区間を歩き、1985年6月に鵜ノ子岬(茨城・福島の県境終了点)まで踏破することができた。

 長年の目標を達成することができた感慨もひとしおであったが、目標を達成するということは、逆にいえば「目標がなくなる」ということでもある。目標を亡くして、しばらくは山に対する情熱を失ったまま漫然と過ごしていたが、そのとき、ふと地図をながめていて閃いたのが、本州の分水嶺山脈(脊梁山脈)の全山リレー縦走であった。

 北は青森県から、南は山口県まで、太平洋側と日本海側を分ける大分水嶺山脈は、全長2,000kmという長大なスケールである。しかもルート上の大部分には登山道がない。これをすべて歩こうというのは、はたして一生かかっても完遂できるかどうかわからない大計画であるが、やってみる価値はあると思ったのである。ライフワークとして取り組むには、まことに希有壮大で、できるかできないか分からないところが、なんともまた良い。


 いま振り返ると、途中であきらめないで全行程を踏破できたことが、自分でも不思議でしかたがない。ヤブこぎは辛くて、あまりの苦しさに泣きたくなるときが何度もあった。しかし、いつの頃かわからないが、私のなかで分水嶺歩きは一種の「修行」のようなものへと変化していったような気がする。日本には山岳修験道が1,000年以上前から存在する。修行のために山へ入る、というスタイルはずいぶん昔から脈々と人々の精神のなかに埋め込まれてきたようである。

 私は修験道を体験したり、あるいは勉強したりしたわけではない。しかし何となくその精神は私のなかにも知らず知らずに深く埋め込まれていたような気がする。ヤブこぎをしていると、いつの間にか気がつかないうちに、何も考えず無意識に黙々と手足を動かし続けている瞬間がある。ハッと我に帰るのだが、自分が何も意識せず何も考えずに、数分か数十分かわからないが「時間を飛び越えていた」ことに気づくのである。もしこのような状態を「無我の境地」というのであれば、まさしく私はそんな感覚の鱗片を体験することになったわけだ。残念ながら私は凡人なので、この感覚も山から下りてくれば元の木阿弥で、普段の生活には役に立たなかったが…。


 ヤブこぎでは散々苦労したが、不思議な体験もあった。紹介したいのは中国山地(山口県)の野道山だろう。吉和冠山から縦走して5日目、野道山に向けてササヤブの尾根を必死でヤブこぎしているときだった。

 いきなり遥か下のほうから「ボーーッ」という腹にしみわたるような、なんだか物悲しいような音が聞こえてきた。最初は不意打ちを食らって何の音なのかまったく分からなかった。そちらの方を見ても、ヤブに隠れて何も見えない。そのときもう一度、少し違う場所から同じ音が聞こえた。気を取り直して思い返し、ようやくそれがSLの汽笛の音であることを認識できた。そうか、下にはJR山口線の線路が走っている。そこを今、蒸気機関車が通過しているのだ。まさか山の中で、しかも登山道もない密ヤブの中で汽笛の音を聞くとは夢にも思わなかったので、脳がこの体験を正しく認めることができなかったのだ。

 このとき経験した感覚を文字にすることは不可能である。耳から入ってくる情報を推測・判断する脳の働きについてのあやふやさのことなのだろうか、今まで体験したことのない感覚、決していやな感覚ではなく、うれしい感覚だった。









ソース:山と溪谷 2014年9月号




2014 寝袋3選

正直に告白しよう。じつは今回、「このモデルをエントリーするのはやめよう」と考えていた。なぜか。それはもしエントリーしたらベストバイは当確だからだ。戦う前から勝負はついている。あぁ困った、困った…というのが偽らざる心境だった。

 すでに各国メディアに激賞されているが、これは同社(モンベル)のベストセラー寝袋「ダウンハガー」の最上位モデルだ。保温力と寝心地を両立させた「スパイラル・ストレッチシステム」や、水を寄せ付けない「ポルカテックス加工」などの人気ファクターに、世界最高峰レベルの900FPダウンを組み合わせた。筆者(HOBOJUN)は春からこれをプライベートで使っているが、軽くコンパクトで充分に暖かく、たちまちメインで使うようになった。

註:
ダウン自体の性能は「フィルパワー(FP)」という単位で表される。標準的なものは「650FP」程度だが、登山用モデルでは「700〜800FP」、極地用モデルでは「850FP以上」の高級ダウンが使われることもある。今年(2014)から日本のモンベルが「900FP」という超高級ダウンを一般登山用モデルに採用し、大きな話題になっている。









山と溪谷 2014年9月号より〜


実力は文句なしの満点だ。これが「BEST BUY」でもおかしくない。

 特にダウンの品質がすばらしく、光に透かすとダウンボールの一つひとつが満遍なくバルクしていて、コールドスポットが見当たらない。構造もよい。上面はボックス構造にしてたっぷり羽毛を封入し、逆に背面はシングルキルトで薄く、軽くしてある。ファスナーの操作もしやすく、緊急時にはズバッと開けられるようにロックなしの仕様になっているのも感心した(ファスナーの操作性はテストした全モデルで最もよかった)。このクオリティでなんと2万8,080円なのだ!









山と溪谷 2014年9月号より〜

 初めて「ファイン・ポリゴン」素材を見たときには衝撃を受けた。まるでクシャクシャにしたティッシュペーパーかガーゼのような頼りない素材なのだ。それをシュラフの中綿に使おうという発想がまずスゴイと思った。

 この素材の良いところは、水没などで完全に濡れてしまっても、絞って吊るせばすぐに乾くこと。今回、試しに風呂に漬けてみたが、眠れる程度に乾くまで、快晴の天日干しで4時間ほどしかかからなかった。もしこれがダウンだったら丸3日干しても膨らみは元に戻らないだろう。暖かさはそこそこだったが、荒天時の頼りがいは抜群なのだ。






ソース:山と溪谷 2014年9月号「新機軸3シーズンシュラフ」




2014年10月10日金曜日

夏こそ出番、象潟のイワガキ。 [畠山重篤]




〜畠山重篤「山と海の出逢い」より(抜粋引用)〜


 出羽富士「鳥海山(ちょうかいさん)」は姿のいいきれいな山だ。最高峰は新山で標高2,236m、古くから山岳信仰の対象とされ、山頂に大物忌(おおものいみ)神社がある。

 イワガキを採っている漁師仲間から、興味ある話を聞いた。イワガキ漁は素潜りで行なわれるのだが、その漁場は「鳥海山の影が海にうつる範囲」に限られているというのだ。じっさい潜ってみると海底から伏流水が湧き上がっていて、その近くの岩礁にイワガキが育っているという。海辺を歩いてみても、そこここから伏流水がほとばしっている光景が見られる。鳥海山のブナ林の腐葉土がスポンジの役目をはたし、雪解け水を地下に浸透させているのである。


 


 鳥海山の標高700mくらいからブナ林が広がっている。樹齢100年のブナには葉が約30万枚ついていて、毎年落ちる。「ブナ一石、水一斗」という例えがあり、水を蓄える木なのだ。イワガキの餌は主に植物プランクトンであるが、海の水だけではイワガキの漁場は形成されない。森の腐葉土中の養分が海に注ぎ、汽水域が形成されるからイワガキの漁場となるのである。また伏流水は水温の上昇を抑え、イワガキの産卵を抑制する。だから夏に食べても旨いということになる。秋田県の象潟(きさかた)では、イワガキの旬は夏である。

 一方、西洋には「Rシーズン」という言葉がある。Rがつかない月、5月(May)から8月(August)は牡蠣のシーズンではないという意味である。北半球では5〜8月が牡蠣の産卵期でもあり、気温・水温もあがり食中毒のおそれがあるので理に適っている。産卵期のマガキは軟体部のほとんど全部が卵になるので、ドロドロした状態になってとても食べられない。ところが、象潟のイワガキにとっては「Rシーズン(5〜8月)こそ出番」ということになる。イワガキは部分的にしか卵を形成せず、産卵も何回かに分けて行う。また旨味成分であるグリコーゲンをこの時期でもかなり蓄えているのだ。

 また、牡蠣を食べてあたる、という問題もある。昔は細菌と思われていたが、じつは真冬の最も寒い時期にあたる人が多いのだ。原因はノロウイルスであることが判ったのは最近のことである。ご存知の通り、ノロウイルスは寒い時期に繁殖するからだ。夏にイワガキを食べてあたったという話をまず聞かないのは、そのためだったのである。





 曽良の作品に次のような句がある。

 「象潟や 料理何くふ(食う) 神祭」

 元禄二年(1689)六月十八日、松尾芭蕉と弟子の曽良は、憧憬の歌枕の地、雨にけぶる象潟に着く。暑いこの季節、百日以上歩くとすると、道すがらどんな食べ物を食べたのか。牡蠣が滋養強壮の食物であることは昔から知られている。象潟の古老に聞くと、夏の御馳走はなんといってもイワガキだという。昔は長持ちさせるため縁の下に置いた。そこが最も涼しいところだからだ。客人が来るとなると、縁の下は冷蔵庫代わりとなり、山海の珍味が蓄えられていたのだ。

 だが残念ながら、奥の細道にはイワガキを食する描写はない。牡蠣の字が入った俳句はないかと私もずっと探しているのだが、いまだに見つかっていない。それは牡蠣の季語が冬だからではないか。季語を大切にする俳諧の世界で、俳聖芭蕉がそれを破るわけにはゆかなかったのだろう。














ソース:岳人 2014年 10月号 [雑誌]




「食は権利、ウンコは責任」 [伊沢正名]




〜三宅岳評:「くう・ねる・のぐそ」より(抜粋引用)〜


 山小屋のトイレ問題は登山者に身近である。かつて小屋閉めの頃には、糞尿を野に還す黄金祭りなども行なわれていたが、最近はどうだろう。人気の山域では従来のボットン式は嫌われ、水洗化が進む。またバイオトイレの導入や、ヘリによる搬出も行なわれている。多大な労力とエネルギーが糞尿処理に使われている現実。

 本書『くう・ねる・のぐそ』には、伊沢正名さんが糞土師を名乗るにいたる経緯がまとめられている。きっかけは屎尿処理場「建設反対運動」の矛盾から。自分のウンコに責任をもたず遠くで処理してくれという運動に、伊沢さんはエコではなくエゴを嗅いだ。それが出発点になった。

 そして、まずは自分から「自然のサイクルに則したウンコを」という断を下したのだ。その後は実践あるのみ。執念としか言いようのない気力を絞り、野に糞を還しつづけてきた伊沢さん。大都会の片隅で、あるいは国外で、どこか笑いを誘いながらも、本人の涙ぐましい行為は切実以外の何物でもない。40年の野糞歴、13年と45日におよぶ野糞連続記録など、どう逆立ちしても追いつかない記録にはただただ恐れ入る。

「食は権利、ウンコは責任、野糞は命の返し方」

 読後、思わずウーンと唸るのは必然だ。







ソース:岳人 2014年 10月号 [雑誌]



自然保護と人間排除 [白神山地]




〜浦壮一郎「ユネスコ・エコパークがもたらす未来」より〜


 筆者は1993年12月、白神山地(青森・秋田両県)と屋久島(鹿児島県)が日本で初めて登録された当時から、世界自然遺産が抱える矛盾点に疑問を抱いてきた。

 たとえば世界最大級のブナ林である白神山地は、マタギたちが活躍することで山と森の文化が発展した地だ。山菜やキノコ採り、クマ撃ちなどが森の奥深くまで入り込み、森を守ることで人々の生活が成り立ってきたといえる。しかし、世界自然遺産の登録の後、青森では入山規制、秋田では入山禁止の措置がとられ、そうした森の文化の継承に支障をきたすようになった。

 そもそも白神山地が登録に至ったのは、林道建設の中止が発端だった。広大なブナ林を貫く青秋林道の建設が計画され、それを地元住民などが粘り強く反対運動を続けたことにより計画は白紙撤回。後に世界遺産登録へと登りつめた。ところが、森を守ってきた人たちは締め出されることになる。環境省は同地域を鳥獣保護区に指定し、生活を守るために奔走した人々は「自然保護という大義名分」の下に入山を規制された。そして目屋マタギを含む森の文化は衰退していったのだ。







 一方で、白神山地の登録以前からユネスコには複合遺産という考え方があった。これは人間の文化的営みと自然環境との関わりを重視するもので、日本の自然はその多くが複合遺産に相応しいとの説もある。ところが当時、自然保護といえば「囲いを作って保護するもの」「人間を排除するもの」と思い込む人々が存在し(今も?)、それが正論として一人歩きしてしまった。

「森に足を踏み入れない人が森を、山に登らない人が山を守ろうと思うのか?」

 人間排除の論理は、この根源的疑問が欠落した自然保護論といえるのではないか。気になる点をいくつか挙げるとすれば、世界自然遺産と類似し「核心地域」「緩衝地域」「移行地域」の3つに分類されていることだろうか。核心地域は原則立入り禁止。緩衝地域はAとBに分類され、Aは原則として調査研究とモニタリングのみ可能。Bは地元住民による伝統的な山菜・キノコ類の採取慣行も可能。意地の悪い言い方をすれば、核心地域は人間排除、緩衝地域Aは学者のための森となりかねない。







ソース:岳人 2014年 10月号 [雑誌]




登攀と友情と [ザイル仲間の二十年]




〜山岳書クラシックス「ザイル仲間の二十年 (1977年)」より(抜粋引用)〜


 ロベール・パラゴと聞いてピンと来る人は、相当なクライマーだ。日本での知名度は格段に低い。なんたって彼はアマチュア・クライマーだ。パリ市役所に勤める公務員。有給休暇しか山に行けない身の上で、アルプスの大岩壁だけでなく、アコンカグア南壁、ワスカラン北壁の初登攀、ジャヌー、マカルーにも登頂している。そして生涯アマチュアを貫いた。

 一方、共著のリュシャン・ベラルディニを知っている人はさらに少ないだろう。生来の風来坊で定職に就かず、酒と女と腕っぷしでは誰にも負けない、ちょっとピカレスクなクライミング・ヒーローだった。



「リュシャンの頑丈なこぶしで、クラック深く精いっぱい打ち込まれたしぶといピトンを引っこ抜く。その瞬間、私は読みとった。誰からも”気違い”呼ばわりされているこの男は、じつは人間の中で最も正常な男なのだ。山でピトンを打ち込むとき、この男はこれほど真剣に自分の生命を守っている。このピトンなら乳牛一頭はおろか、牛小屋だって確保しかねない」



 この本の最終章で彼は、その登山歴を振り返りながら自らに問う。

「なぜ山を?」

 パゴラの答えは、皮肉屋のイギリス人が嘯(うそぶ)いた「そこにあるからだ」とはまったく違う。

「おそらく友情であろう」



 クライミングにおける友情とは、パートナーの打ったハーケンを信じられるかどうかだ、とパゴラは言う。しかし登攀史において友情ほど厄介なテーマはない。クライマーという自意識過剰な人種は、心情的に孤立することが多い。本質では友情を希求しているにもかかわらず、あえて孤高、夭折を辞さない。群れるのは弱い奴だ、そんな美学がひとかどのクライマーには求められる。なぜなら極限の登攀を求道するなら、ペアよりソロの方が価値あるからだ。偉大なソロ・クライマーに比べ、優れたペアは希少だ。

 そんな友情を捨てたような男たちが幅を利かせている登攀史の世界で、少年のような愚直さで紡がれた1本のザイル。その両端にロベールとリュシャンがいる。







ソース:岳人 2014年 10月号 [雑誌]




2014年10月9日木曜日

山に消されるもの [服部文祥]




〜服部文祥「南アルプス・大井川池ノ沢」より(抜粋引用)〜


 20年前に初めてここ大井川源流域を訪れたとき、私は生々しい開発の痕跡に顔をしかめていた。だが今は違う。人間の欲と蛮行の残骸を、南アルプスの自然が時間の力を借りて覆い尽くし、森の一部へと塗りつぶしているからだ。ケモノ道や古道は森にひっそりつづいているのに、車道やプレハブ小屋は崩れ落ちて自然に飲み込まれていく。時間が止まったような森の中につづく古道、朽ち果てた林業小屋。不自然なものは山に消されていく。

 上の息子が山に行きたいと言い出し、ならば人間社会の保護から離れた感覚を得られる山旅をしたいと思った。そして私たちは大井川の真ん中へ出発した。私はいつものように電気製品をもたず、食料も米と調味料だけ、宿泊はタープというサバイバル・スタイルだ。だが息子は時計、ヘッドランプ、携帯ゲーム機まで持っている。初日のおかずは内河内川沿いで捕獲したジムグリ(ヘビ)。古い機械油のような臭いを出す臭腺をもつが、肉に臭みはない。

 未整備の林道はカラ松の若木に覆われ、鹿が踏んでいるところだけに道が残る。いよいよ人間社会の管理が及ばない環境に入っていく。一歩ごとに山奥に踏み込む感覚が強まり、同時に社会のしがらみや約束事から解放されていく。自分の命が自分のものになって戻ってくるこの瞬間が私は好きだ。自分の命は自分で保つ、誰の手助けも受けないかわりに、野生動物のように自由に振る舞う。これこそが登山最大の魅力なのではないかと最近は思うほどだ。

 実はこの旅で、池ノ沢の「池」をもう一度見たいと思っていた。10年前に訪れたときに見た、エメラルドグリーンの水をたたえた妖精の棲家が、美しい記憶となって脳裏にこびりついていたからだ。池ノ沢出合の草原にタープを張り、せかされるように池ノ沢を詰め上がった。古い記憶を頼るように右岸をたどって高度をあげた。雨が降りだし、不安を振り払うように先をいそいだ。そこからひと頑張りで池ノ沢の池に出た。

 「あれ?」が正直な第一印象だった。妖精が棲むはずのエメラルドグリーンの水は土砂に埋まり、その神秘性までが埋まってしまったようだった。記憶に残る美しさは、意識して探さなければならなかった。無理を言って連れてきた息子は、タープで寝てればよかったという顔をしている。数枚の写真をとって、池ノ沢を下った。

 「いや、面白かったよ。うん」

 天気に恵まれなかった山旅を嘆く父親に、そう息子は言うのだった。









出典:岳人 2014年 10月号 [雑誌]




登山と予定調和 [剣岳]



〜宮城公博「残された冒険の可能性を求めて 〜池ノ谷から劔尾根」より(抜粋引用)〜


 近代の登山は、西洋的な合理主義に基づくアルピニズムを中心として発達してきたとされている。わが国においては文明開化期に輸入され、日本の近代化とともに発展し広まっていくこととなるが、その過程はヨーロッパのそれとは趣きを異にする。それは日本と欧州の山岳そのものの違いもあるが、世界最古の歴史をもつといわれる我が国の伝統的登山の影響が大きい。

 日本には大きな壁や高山こそ存在しないものの、決して広いとはいえない国土のうち、7割を多様な山地が占めている。そこに四季の彩りと多雨多雪といった条件が掛け合わされることにより、世界にも類がないほどの複雑な自然環境が存在しているのだ。そこから生まれた多様な自然観こそが、自然崇拝やアニミズムといった文化を生み出し、それが反映された結果、信仰登山に代表される日本の伝統的登山が発展してきたといえるだろう。



「これは川ではない、滝だ」

 明治時代、砂防の父と呼ばれたオランダ人土木技師、ヨハネス・デ・レーケが言ったとされる言葉。立山連峰から富山湾までわずか56kmの間に、高差3,000mを流れ落ちる常願寺川を指して言ったといわれる。県の職員による発言ともされているが、ヨーロッパのなだらかな大河を観てきたデ・レーケが、日本の急峻な河川にそのような印象をもったとしても不思議ではない。

 そんな常願寺川に代表されるように、富山湾から糸魚川、上越にかけての地域には日本屈指の急峻な河川がいくつも流れ込んでいる。それらの水源の代表格をあげれるとすれば剣岳になるだろう。稜線をはさんで東西に二つの剣谷を存在させている剣岳、東には古くから幻の大滝として畏れられている世界屈指の大ゴルジュ剣沢大滝が、西には剣岳西面の静けさを象徴するように池ノ谷(いけのたん)ゴルジュが眠っている。水量豊富で豪奢な剣沢大滝に比べると、遅くまで雪の下に眠る池ノ谷ゴルジュは地味に映りがちである。だが、水と氷という二つの彫刻刀によって造型されたこの谷は、まさに日本的特徴と造形の美を有している。

 暗い印象の剣岳西面においても、池ノ谷ゴルジュはとりわけ暗い。狭い水路には有史以来、日の光が当たっていない場所も多いだろう。谷は出だしから連瀑で始まっており、決して難しい滝ではないが遡行者をふるいにかける。それを越えていくと、滝好きには目から鱗の代物、国内最大規模のCS(チョックストン)滝、池ノ谷大滝25mが現れる。垂直に立ち上がる側壁は光の侵入をこばみ、その地球離れした景観からスペースCS滝とも呼ばれており、おそらく人類が太陽系の外に出るような時代になってもこの滝の攻略はされないまま、谷の中で独特の宇宙を保っているのではないかと思われる。

 最後の大滝を越えるとゴルジュは終わりを告げ、見慣れた剣岳の岩峰群が目に入る。どこか夢の世界から現実に帰ってきたような気分になりながら、しばし悠久の時がつくりし自然の芸術を眺め、谷を後にした。



 2014年7月、ゴルジュから先の続きを歩くことになった。

 花や景色を愛でながら、のんびりと剣尾根末端まで歩いた。小窓尾根の薮伝いに手入れされた道があり、地元の人の、この地への愛を感じる。剣尾根は取付となる末端の岩場を10mほど登ると、ひたすら薮漕ぎとなる。獣たちの足跡や糞が道を示し、ときに獣のように這いつくばって2時間ほど薮を漕ぐと、薮の合間に小さな壁が現れる。その後はまたしばらく薮が続き、獣の気分で薮に没頭していると、ガスの合間に岩峰が現われた。この日も時間は早いが、雨に叩かれるのにも飽き飽きしており、ガレ場を整地して早々にテントに入り込んだ。

 翌朝、剣尾根のハイライトへ。Dフェースだ。ここから先が「門」をはじめとする剣尾根を代表する部分であるはずだが、久々に冴えない登山をしてしまった。下り坂の天気と、明るいうちに登山道に出たいという思いから、ろくに山を見ずに残置支点とトポの赤線を追う単調な運動で壁をこえてしまったのだ。今にして思えば、回り込んで側壁の大滝状態になったルンゼでも登れば楽しかったのではないかと思う。予定調和を優先させていては、何のための登山かわからなくなっていけない。

 情報やルートは予定調和をもたらすが、本来あるはずの山を小さくしてしまいがちだ。尾根にせよ谷にせよ、本来、一本の赤線と数字だけで表現しきれるものではない。岩と雪の殿堂である剣岳も、メジャーなラインを離れたら、冒険の余地がまだ残されているかもしれない。








ソース:岳人 2014年 10月号 [雑誌]