2015年2月6日金曜日

殺生と登山 [服部文祥]


〜話:服部文祥〜


 殺生の感覚は殺生でしかわからない。毛バリで釣り上げたイワナの頭を木の棒で叩く。そのとき、暗く濁った影が心をかすめ、キュッと心臓が縮むような感じがする。

 「殺しの感情」は簡単に言えば気持ちのいいものではない。だからだろう、我々は「殺し」を日常から遠ざけてきた。だが、遠ざけても、隠しても、食べ物の源は”いのち”である。塩と水以外の食べ物はほとんど”いのち”だ。光合成ができない生物は、”いのち”を食べることでしか、持続しえない。


 


 「殺し」を体験してわかったのは、殺しが興味深いということだ。殴られ、手の中でぐったりしたイワナを見て、私はこっちの方が”正しい”と思う。ペレットで育った養殖魚の死体をスーパーで購入して食べるより、自分で釣り上げて殺す方が”正しい”と思う。そして考える。私はなぜ、その正しいと思う体験をせずに生きてくることができたのだろう? 用意されたものを、なんとなくこなしていれば、とりあえず近未来に苦しんだり、死んだりすることはない、そんな人生だ。

 登山を始めることで、私はそこから一線を画するようになった。登山の衝撃とは「生き物が生きる上で経るべき経験の多くが、自分には欠如している」と気づくことだった。体験がなければ、それにともなう感情もない。環境が厳しく自分の体を激しく動かさないと生命が維持できなかった時代は、たぶん、それにともなう感情も豊富で激しかったはずだ。行為しなくても生きているということは、昔に比べて喜怒哀楽が少ない、平坦で面白みのない人生を送っているということだと思う。私は「体験がたりない」という恐怖に突き動かされて、登山を続けてきたのだ。科学がひとびとの世界観を変えても、それで人間の行為が消えるわけではない。いのちがいのちを食べることが変わるわけではない。

 「気づき」という言葉は、最近ではうさん臭くなってしまったが、仏教系の重要思想である「悟り」や「念」といった概念に近いと思う。意識を経ずにやってくる「気がつく」という事象は、感情に近い心の動きではないかと私は考えている。


 


 話をわかりやすく、かつ挑発的にするため、ネタに「殺し」を選んだが、別に殺しでなくてもかまわない。収穫の喜びでもいい。行為の喜びでもいい。本来自分の肉体を動かしてすべきことを、お金を払って済ましたら、その人は「ゲスト(お客さん)」である。現代都市文明とは、ひとつの小さなジャンルでプロフェッショナルになり、残りのすべてでゲストになるというシステムだと言えるかもしれない。

 その中で登山とは、「生きるための具体的な手応え」を取り戻そうというムーブメントなのではないかと私は考えている。現代文明人でありながら、ゲストになることにあらがおうとしている思想集団が登山者なのではないか。自分のことを自分でやって自分で責任をとる。少なくとも自分のフィールドにおいて、そうしようとする。そんな仲間たちは世界中にたくさんいると信じたい。

...




ソース:岳人 2015年 01月号 [雑誌]
服部文祥「収穫の喜びをかえしてください」




0 件のコメント:

コメントを投稿