2015年3月11日水曜日

カメ五郎の獣道




普通の登山シーンでは「登頂した山の数」が勲章になる。

ところが、カメ五郎は違う。

「同じ山に運んだ足の数」が彼の自慢だ。”自分の山”を決めて、そのエリアと深く関わっていく。地図は持たず、行ける範囲で下見、野営(ゴロ寝)を繰り返し、少しずつ地形を覚えて行動範囲を広げていく。それがカメ五郎流なのだ。







カメ五郎はまったくの独学だ。自らの一歩一歩が、そのサバイバルスタイルの基礎となっている。

まず下見であるが、普通に登山道もしくは林道から山に入る。そして”アシ”の濃い獣道を見つけたら、そこが未開エリアへの入り口となる。もし獣道が見つからないなら、無理して藪には入らない。山のプロフェッショナルである獣が寄り付かない場所には、何か危険があるということなのだ。かつてカメ五郎は、前方が見えない藪を漕いでいたら突然、崖っぷちに出てしまったという恐ろしい体験もしているという。



基本的に探索は登って行う。下ることには滑落の危険などが付きまとうからだ。

自ら「臆病だ」と語るカメ五郎。奥地へと分け入りながら、何度となく振り返る。引き返さなければならなくなった時、少しでも往路の風景を覚えていたほうが有利だからだ。

それでも道に迷ったら、とりあえず頂上など高いところへ登り、そこから開けたところを優先的に下っていく。そうすると自然と獣道や林道に当たることが多い。獣もやはり、楽な道、安全な道、そして人里の方へ向かう場合が多いのだという。



獣こそ山のプロフェッショナル。

それに従い歩けば、間違いはない。



カメ五郎が獣を敬えば、獣の方とて彼を無視できない。

かつてカメ五郎が何度も歩いて濃くした道を、次のシーズン、獣がさらに歩いて濃くしていたことがあったという。

獣も認めるカメ五郎の「道なき道」。彼が山に入るのは、登るのが目的というよりも、野生と一つになるためなのだ。










(了)






ソース:Fielder vol.20 道なき道を行く (SAKURA・MOOK 66)
カメ五郎「動物とともに」




最強アイシールド ESS CrossBow




メガネは視力を補うばかりでない。

ときには眼球を守ってくれる。







サングラスというよりも「アイ・シールド」というほうが的確な、ESSの「クロスボウ(CrossBow)」。

ESSというのは、あのオークリー(OAKLEY)の軍事用ブランドだ。その実力に疑いはない。その証拠に、数々の軍隊で正式標準装備品となっている。防弾性能、光学性能、曇り防止機能など申し分ない性能が備わっている。







アウトドアシーンにおいても、このアイシールドは常備しておきたい逸品だ。

藪の中で不意に枝ビンタを食らったとき、はたまた先行者の弾いた小枝が眼前に襲ってきたとき、きっとこのアイシールドが大切な眼球を保護してくれることだろう。







ソース:Fielder vol.20 道なき道を行く (SAKURA・MOOK 66)
ESS CROSSBOW 「躊躇なく頭から突っ込める防弾アイシールド」




自分で決める山登り [打田鍈一]




きっかけは「遭難」だった。



打田鍈一氏は語る。

「若い頃に旅行のノリで秩父へ行ったんです。駅前の観光地図で、熊倉山という温泉と山歩きが楽しめそうな場所を見つけて。そのまま地図も水も食料も持たず、街を歩くような格好で向かいました。そうしたら案の定、本当は沢沿いの道から左の山腹へ上がるところを、まっすぐ行っちゃったんですね」

道迷い遭難だ。

打田氏は続ける。

「滝場に行き当たったので登ってみると、その途中でにっちもさっちも行かなくなって。そこの岩棚で遺書まで書きましたよ。でもまあ、遺書まで書いたら落ち着いてきて、結局なんとか戻ることができたんですけどね」



この遭難という非日常的なスリルが、打田氏の山魂に火をつけた。

名山と呼ばれる山々を、次々と制覇していった。

「でも、どこの名山も混んでいて、”東京をそのまま山の上に持ってきたようなもの”じゃないかって。人様の手が入っていない自然を求めているのに、これじゃあ意味がない」

もはや、大勢で既存ルート(登山道)をトレースするという登山に興味を失ってしまった。

「登山道を歩くぶんには、”人に言われた通りに歩くようなもの”で、自分の独創性なんかまったく感じないんですよ。ましてや山小屋があるような場所は特にね」







登山道に背を向けた打田氏が向かった先は「道なき道」、藪(やぶ)だった。

「地形図を駆使しながら、ほとんど人跡のない場所を進み、複雑な岩場はロープを持ち出して乗り越える。すべてを自分で決めるような山登りです」

打田氏は言う。

「いまは、道具がなければ登れないという風潮がありますが、”できるだけ道具に頼らずに登るべき”です。スニーカーで登って不便を感じたら、ちゃんとした靴を買えばいい。雨に降られて惨めな思いをしたら、雨具を揃えればいい。とにかく”自分で体験してみること”が重要です」



ちなみに打田氏は「山頂で饅頭を食う」という嗜みをもつ。

藪山の山頂で、饅頭で一息つく。

そんな乙な風景が、藪山には似合っている。







打田氏いわく

「登山の真の面白さは、標高とは無関係です」






(了)






ソース:Fielder vol.20 道なき道を行く (SAKURA・MOOK 66)
打田鍈一「道なき道を行く理由」




2015年3月10日火曜日

世界最強の軍が認める「Gショック」






アメリカ兵の装備は「ミルスペック」という厳格な基準がある。この基準をもとに軍の支給品は開発されている。

民生品にも同様、「AMU(Authorized for Military Use)」という規定があり、それに合格した製品だけが、軍の作戦での使用を許される。そうして民間企業の優れた技術を取り入れることで、軍には開発費を削減できるという大きなメリットがある。

さて、アメリカ海軍の特殊部隊「ネイビーシールズ」において、最も着用率が高いといわれる腕時計がカシオの「Gショック」だ。





アメリカ軍がWeb上で公開している民生品の腕時計リストには「Various」とだけ記され、具体的なメーカー名は伏せられている。

だがアメリカ海軍の公開している広報写真を見ると、ネイビーシールズの腕元には明らかにカシオのGショックが見え隠れしている。訓練生のおよそ半数以上がGショックを使用しているのだとか。






ソース:Fielder vol.20 道なき道を行く (SAKURA・MOOK 66)
世界最強の男たちを支えるタフウォッチの金字塔



2015年3月4日水曜日

初めてのスキーと大山 [藤木高嶺]


話:藤木高嶺





 小学校時代の、山で強烈な忘れられない思い出がある。

 それは小学二年生の正月休みのこと。父に連れられて鳥取県の大山に行った。標高1,729mの中国地方の最高峰だ。生まれて初めてスキーをはいたのがこの時で、いきなり大山山頂へスキー登山をさせられたのであった。

 スキーの滑走面にシール(アザラシ皮で登高用)をつけて、ストックで体重を支えながら登るのだが、雪が固くなって、あと滑りしたり、シールがはずれたり、何度もひっくり返ったりしてべそをかくが、「がんばれ、がんばれ」と父は情け容赦もない。

 猛烈なしごきに耐えてがんばり通し、六合目でスキーをデポし、そこからアイゼンをつけて無我夢中で登頂した。頂上から見た眼下の日本海と弓ヶ浜の海岸線の眺望がすばらしく、目に焼きついて、登りの苦しさもすっかり忘れて、涙を流して感激したことが、生涯忘れられない思い出となった。

 小学二年生の厳冬期の登頂は、当時の最年少記録で、朝日新聞の紙面にも写真入りで掲載されたとか(朝日新聞神戸支局長だった父が書いたのだとか)。凍りついた岩室のような小屋が御殿に見えて、中に飛び込んでテルモスのお茶を飲んだときのうまさと満足感。これらが私を山に熱中させるきっかけになったと思う。

 六合目から下りは急斜面が続き、北側は氷壁が切り立っている。スキーをかついで降りようとすると、父は「男ならスキーで滑って降りろ」と私をどなりつけた。スキーをはいて歯を食いしばり、滑るというよりも転がるようにして、元谷コースを下った。







 数年後、父はある雑誌にその時のことを「心の中で残酷だとは思ったが、ライオンが子を訓練するのに、崖から突き落とす、ということわざに倣った」と書いていた。私は「ライオン扱いだったのか」と苦笑した。やがて私は、父がしごきによって、私に冒険心、チャレンジ精神の大切さを教えてくれたのだと感謝するようになった。

 藤木家の家族は、両親と、子供が男3人女3人の計8人で、私は6人中の5番目で下には妹がいる。私を除く5人の兄や姉、妹らは音楽関係の趣味にすぐれ、ピアノ、バイオリン、チェロ、琴などの演奏やコーラス、日本舞踊、謡曲などに長じていて、私には近づきがたいような存在に感じられた。また、5人ともハイキングやゲレンデスキーは好んでいたが、父の跡をつぐような岩登りや本格的登山には興味がなかったようなので、私の負けず嫌いの性格が、本格的な登山家への道に進ませたのだと思う。

 私にとっては大山こそ私を育ててくれた恩人のような山と信じるようになって、これまで四季を通じて数え切れないくらい登ることになった。














ソース:岳人 2015年 02月号 [雑誌]
藤木高嶺「山に生きる父と子の170年 4」




2015年3月3日火曜日

「山を見る」 [白籏史朗]



「こんな写真を撮る仕事も、いいかもしれない…」

近所の写真館に飾られてあった”山の写真”を眺めながら、白籏少年は思ったという。



白籏志朗(しらはた・しろう)

昭和8年に山梨県の北都留郡広里村(現:大月市)に生まれた。昭和8年(1933)といえば、日本が国連から脱退し、ドイツにヒットラーのナチス政権が誕生した時。太平洋戦争が勃発したのは、白籏さんが6歳の年。終戦は中学一年生のときだった。



戦後、白籏さんは写真家・岡田紅陽に弟子入りした。

岡田紅陽といえば富士山。その雄大な写真は戦後復興の象徴とされ、岡田氏は時の人となっていた。







「写真は命を懸けなくては撮れない。君は命を懸けられるのか?」

岡田氏は白籏青年にそう問いかけた。

「ハイッ! 覚悟しておりますっ!」

頬を紅潮させながら、白籏青年は言い切った。



のちに白籏さんは当時のことをこう語っている。

「そりぁ、『懸けられません』とは答えられないですからね(笑)。でも、ずいぶん威張った人だなと思いましたよ」



その日から、三畳一間での丁稚奉公がはじまった。

白籏さんは語る。

「もう一人の弟子と住んでいたんですけど、先生の写真の引き伸ばし作業か、お客さんのDPE(フィルムの現像・プリント)をやるんですが、朝まで終わらないことだってよくありました。どんなに遅くまで仕事がかかっても、朝7時には叩き起こされました。そのころ現像をやりすぎて、薬品で爪が浸食されて、いまでも反り返ってペラペラになったままです」

あまりの厳しさに耐えかねて、ほかの弟子はみんな逃げてしまったという。最後まで残ったのは白籏さんのみ。仕事のすべてを白籏さんが背負うこととなった。



白籏さんは語る。

「先生と山へ撮影に行くときは、軍隊靴の古いのがあったからそれを履いてね。シャツは駐留軍の放出品を着て。秋とか冬は寒くて大変でした。当時は機材がフィルムではなくてガラスの乾板ですから、とても重いわけです。先生は何にも持ちませんから、ひとりで70~80kgは背負ってました。普通の山ヤには負けてませんでしたよ。先生にとって、山に強い私がいたことは都合がよかったんじゃないかな」

給料は毎月500円。夜鳴きソバが50円、コッペパンが10円という時代だった。

「カメラがないから、先生から一番安いマミヤのジュニアっていう二眼レフのカメラを貸してもらって、朝まだ暗いうちから、あちこちの山を歩き回って撮影しました。フィルムはくれないんですけど、自分で節約して買ってプリントするんです。でも、あんまりたくさん焼くと印画紙を使ったのがバレるから、気をつかって(笑)」



厳しい徒弟生活に白籏さんは体調を崩し、実家の山梨に帰ったことがあった。

「休んでいいって言ってくて、それで2、3日寝てたら、先生から電報が届いたんです。なんて書いてあったと思います? 『カメラカエセ オカダ』です。さすがに僕も考えました。こんな調子で働いていてもお金は貯まらないし、自分の写真も撮れない」

ついに白籏さんは決意した。

「まず『ありがとうございました。大切に使わせていただきました』って、カメラを返してね。『たいへん申し訳ありませんが、今日で辞めさせていただきます』と言いました。そしたら先生がビックリ仰天してました。でも、20歳過ぎたばかりの若造だってプライドってものがありますから。飛び出しちゃったわけです」



その後、人生で一番の試練がはじまった。

三畳の屋根裏部屋を借りて、昼間はカメラ店から請け負った出張撮影やバレエの撮影。夜は暗室のなかでDPE(現像・プリント)の下請けなどをした。少しお金が貯まると、カメラを借りて山へ行く生活が25歳頃までつづいた。

転機は、山と渓谷社が発行するカレンダーに自分の写真が採用されたことだった。

「それでようやくちょっと自信がついて、山の写真だけで食っていこうという踏ん切りがついたんです。”山岳写真家”っていう職業は日本にまだなかったけど、不安には思わなかったですね。不安になってるヒマなんてない、『やるしかないんだ』、それしか思わなかったです」







「まずは南アルプスを全部撮ってやろうと思った。僕はあの大きな山容が好きなんだな。南アルプスを全部きちんと撮影した人がそれまでいなかったことも幸いしました。だんだん定期的な収入を得られるようになってきて、こんどは友達から車を借りて北海道から九州まで、徹底的に撮って歩いたんです」

山の写真を撮ればとるほど、白籏さんは「山に行って何を見ているのか?」「何を撮っているのか?」、そうした自問が深まっていったという。

”山を見る”とは、どういうことか?



白籏さんは語る。

「”山を見る”ということは、山と私の関係なんです。相対するということ。山には何か隠されているものがあって、それを掘り起こして見つけて撮るんです。たとえば山に入って雨が降るとしますよね。その雨は止まないかもしれない。そしたら止んだときに、この山はどんな表情を見せるんだろうかと思うんです。山は”とてつもない変貌”を見せることがありますからね。私はそれが見たいから幾日でも待つのです」

山の写真は、ただ山の頂上に立つだけでは撮れない。重い荷物を背負って、いいアングルの場所を探して、そこにテントを張って、山がいい表情を見せてくれるまで何日でも粘る。しかし、どうしてそんな大変なことをするのか?

「どうしてって? だって、誰も見たことのない山を見たいじゃないですか! 山は、どこへ行っても、何度同じ山へ登っても、いつも新しいことがあるはずなんです」







82歳となった今、白籏さんは語る。

「山の姿というのは、ただ高いだけではない。ただ美しいだけでもない。山は”生きている”と僕は思っているんです。山は、行けば行くほどに、わからなかったことが理解できるようになる。その気持ちは今も変わりません」









ソース:岳人 2015年 02月号 [雑誌]
白籏史朗「誰も見たことのない山の姿に焦がれ続けて」




「その先がどうなっているか」 [八方尾根]


話:廣田勇介





 白馬村では、山とスキーの関係は切っても切れないものだった。八方尾根の麓、白馬村に初めてスキーが伝わってから、今年で102年目だという。スキーに適した広大な斜面、地形の変化に富んだ3,000m級の山々、豪雪、といった稀有な条件が整ったこの一帯は、アルパイン・クライミングもこなし、なおかつスキーも上手い、というタイプのオールラウンダーを育ててくれる土壌があり、多くの登山家、スキーヤーを魅了する引力を持つ。

 八方尾根を安全に登るうえで、注意しなければいけないことがある。それは八方尾根の名の通り、四方八方に支尾根が延びていることである。視界があるときには簡単で快適な尾根歩きを楽しめるが、天候が一転してホワイトアウトになると、主尾根から派生する支尾根へと迷い込んでしまうことが多い。この尾根に建ついくつものケルンには、それぞれに悲しい記憶が刻まれているほど、悪天候時における遭難事故は絶えない。





 最後のまとまった樹林帯である上ノ樺を通り過ぎる際に、二郎さんが

「さっきのライチョウ見た?」

と尋ねてきた。慌ててカメラをもって戻ると、親子連れの真っ白なライチョウ三羽が仲よく尾根を歩いていた。11月の立山で見かけた時はまだ羽根の生え替わりの時期だったが、この辺りのライチョウはもう完全に冬支度を終えている。夢中でライチョウを撮影していると、西から回りこんでくる雲が気になってきた。

「ライチョウは悪天候の予兆である」

という言い伝えが頭をよぎり、先を急ぐことにする。







 …


 さて、今日の目的地はもう少し先だ。唐松沢へ張り出した雪庇に気をつけながら、最後の稜線を登る。黒部側から吹きつける風も、この程度なら気にならない。

 やがて山頂に立つと、また新たに見える世界が広がった。多くの登山家が口にするように、

「その先がどうなっているのか、確かめたい」

がために山に登る人は多い。頂だけが目標ではなく、その先に見える景色に夢を見て、憧れ、一歩一歩、体を持ち上げるのだ。













ソース:岳人 2015年 02月号 [雑誌]
廣田勇介「山頂の先に見える冬山の奥行き」