2015年2月18日水曜日

セルフレスキューのための装備






セルフレスキューのための装備
山と溪谷2015年3月号 特集「セルフレスキュー講座」




エマージェンシーブランケット



ツェルト


ヘッドランプ




クッカーセット




ホイッスル




発煙筒




モバイルバッテリー




絆創膏(パッドタイプ)




防水フィルム&パッド




三角巾




テーピング2種(非伸縮・伸縮)38mm






ソウンスリング(60cmと120cm)






ロープ(8mm×30m)
















2015年2月8日日曜日

ヘリスキー in Last Frontier


「ようこそ! Last Frontierへ!」

スキーヤーなら誰しも憧れる「ヘリスキーの聖地」ラスト・フロンティア。世界各地からここカナダ北西部の奥地に人が集まってくる。なぜ、それほどまでに人々を魅了するのか?

体験するしかない。



テレマークスキーヤー、上野岳光は言う。

「まず、ヘリスキーと言われれば、どんなことをイメージするだろうか? パウダー、ノートラック、オープンバーン...、いろんなイメージが言葉となって出てくるが、確かに全てがここにある。むしろ、それ以上に、だ。私自身もさまざまなイメージを膨らませていたが、Last Frontierは、思い描いていたイメージを気持ち良いぐらい呆気なく超えていった」

上野は続ける。

「鼓膜が痛くなるほどのエンジン音。そのマシーンが目の前から去っていったあとには静けさが訪れ、遠くには山々が連なり、眼下にはノートラックの雪面が唐突にあらわれる。ピークに立つと、数百メートルも続くオープンバーンが広がっている。森林限界を超えているがゆえに対象物が周囲にはなく、距離感やスピード感がつかめない。そんな中を単独で滑るとなると、少し恐怖すら感じてしまう」



カナダとアラスカの国境にまたがるラスト・フロンティア。ヘリスキーエリアとしては世界最大の広さを誇る。バンクーバーからスミサーズへ飛行機で飛び、そこから専用バスに乗り換えておよそ4時間。最寄りの町までは180km。まさに辺境の地。ラスト・フロンティアの名にふさわしい。

上野は言う。

「地図を見ると、すべての滑走ラインに名前が付けられている。おもしろいライン名やへんてこなライン名がたくさん書かれている。ラインの数を数えてみようと思ったが、あまりのラインの多さにすぐ諦めた。相当ヒマでなければ、そんなことは到底できない。目の前には真っ白なノートラックが延々と続いている。自分の思いのままにターンを刻むことができる。惜しげものなく雪を蹴散らしてどんどん滑る。どこまでも滑る。後に自分のヘッドカメラの映像を確認したところ、口笛を吹きながら滑っていた自分自身がいた」

Last Frontier Heliskiing社は、ほかのヘリ会社とは大きく違うという。

「まず、ひとつのグループがわずか5人と少人数であること。したがって、まず間違いなく毎回ノートラックの斜面が待っている。かつ飛ぶ回数は多いときで20回にも及ぶ。パウダーの海を延々と滑り、深い充足感と疲労感に包まれてロッジに戻れば、バーで一杯ひっかけるのも、ジャグジーやサウナで疲れを癒すのもお好きにどうぞ。世界中から集まったパウダーフリークたちと一緒にすごす時間は、まさに大人の社交場。食事も驚くほど美味しい」



柳沢純は、ラスト・フロンティアのヘリスキー・ガイドとして14年のキャリアをもつ。

柳沢は言う。

「ヘリスキーは日本人の感覚からすると”遠いおとぎ話の世界”という感覚ですよね。僕自身、世界の主だったヘリスキーの記事を何度も雑誌に書いてきましたけど、実感を伴って伝えることには、つねに歯がゆさがつきまとってしまいます。だからもう諦めました(笑)。これは本当に、”やってもらわないと理解してもらえない世界です」

アメリカやヨーロッパの広大なスキー場を滑ったことがある人ですら、「ヘリスキーの感覚の1割もわからないだろう」、と柳沢は言う。

「ヘリコプターを気軽に遊びで使ってしまう、その感覚も理解しにくいし、ましてエンジンものを自然の中に持ち込んで遊ぶということに抵抗感をもつ人もいるでしょう。でも北米では、”自然の中にエンジンものでガンガン攻め入って行く”というマッチョな遊び方に躊躇しない。それに、それをやっていい場所、権利というのはきちんと用意されているんです」

そうしたメンタリティは、日本人には稀薄であろう。日本人のなかには、ヘリスキーと聞いただけで眉をひそめる人たちもいる。「自分の足で登ったぶんだけ滑る」という楽しみ方のほうが、日本人の根底にはある。

柳沢は言う。

「日本の人は”自然に対するモラル”があるのだと思います。そのモラルのスケールの基準が違うんでしょうね。僕はヨーロッパに行ったときに、日本や北米のスキー場とは違うなと感じました。日本と北米のスキー場は規模が違うだけで一緒なんですよ。基本的にはスキー場という場所を造成してそこを滑る。ところがヨーロッパのスキー場は山にゴンドラをかけて『はい、どうぞ』。誰でも行っていいですよ、と。でもそっちに行くと危ないですからね、一応マークはしますよ、と。行っていけないわけではないけれど、行ったら死ぬかもしれませんよ。それでも滑りたいならガイドを雇いなさいよ、と。何かあったら救助もしますけど、保険に入っていたほうがいいですよ。そういう明確な放任主義です」

北米や日本のスキー場は”囲われている”。だがヨーロッパの自然環境では、とてもスキーヤーの行動を囲いきれないという。



柳沢は言う。

「もともとヘリスキーを考えたのはオーストリアのガイドが、カナダでスキーのツーリングをやっているときに、ヘリを利用して木の伐採をやっているのを見て、あれを使って山の上に自分たちを落としてくれたら随分いっぱい滑れるよね。そうだね、じゃあやろうか。というところから始まったわけです。それはもう、ヨーロッパの”なんでもあり”の発想なんですよ」

そうしてカナダの山々を、ヨーロッパ・アルプスのガイドたちが開拓していったという。

「もともとヨーロッパ・アルプスはそんなに雪の降らないところだから、パウダーを滑れるということはかなりラッキーなこと。クレバスもありますから、3~4kmという距離をずーっと何も考えずにパウダーを滑るなんてことはあり得ません。だから、このカナダのヘリスキーを覚えてしまったら、もう夢の世界なんですよね。パウダーを嫌というほど滑れる。もう無理だ!というほど滑れる」



ヨーロッパの人はパウダーに飢えている。モンテローザからヘリで降りてきても、パウダーを滑る時間はさほどではない。クレパスに注意しながらトラバースを延々とやって、降りてきてみたらパウダーを滑っていた時間はごくわずか。

一転、カナダには広大なパウダーがあふれている。

柳沢は言う。「山の奥のほうにヘリで降ろしてもらったとき、ひとつのピークに登って360°眺めると、『うわ、まだこんなにあるんだ...』って。今からいくら頑張って滑ったとしても、『人生を3回くらい使わなければ、いま見えている範囲を滑るのは無理だよね』っていう感じですよね。もう無力感しか感じられなくなってしまう」



とはいえ、ヘリスキーへと踏み出す、その一歩の敷居はとても高い。

柳沢は言う。

「口で『いいですよ』と言っても、実際に動いてくれる人はそういません。でも1回に払うお金は確かに高いかもしれないけど、足で登っていたのでは一生すべれない距離を軽く滑れてしまうんです。たとえばウィスラーで一日3本滑るとして、いま900ドル。1本あたりの単価は300ドル。だけどラスト・フロンティアだと一週間で10万フィート。平均で50本。豪華な宿と食事つき。そう考えると、一本あたりの単価は遥かに安くなります」

柳沢は続ける。

「僕が一番日本の人に伝えたいのは、ヘリスキーというアクティビティだけではなくて、そういう時間の使い方。一週間という時間を同じ空間で過ごすという時間の共有みたいな感覚はなかなか味わえません。そこで流れる時間を楽しむ。それは日本の中では体験できない世界だと思います。僕が初めてやったときは、感動を超えて腹立たしさを感じました。『どうして今まで誰もこういう世界があることを教えてくれなかったんだ!』って。だから、一回は体験してみて欲しいなと思います。スキーにはこういう世界もあるのだということを、体験してもらいたいですね」













(了)






ソース:ソウルスライド2015 (SJセレクトムック)
至福のスキー「ラスト・フロンティア、ヘリスキー」



2015年2月6日金曜日

殺生と登山 [服部文祥]


〜話:服部文祥〜


 殺生の感覚は殺生でしかわからない。毛バリで釣り上げたイワナの頭を木の棒で叩く。そのとき、暗く濁った影が心をかすめ、キュッと心臓が縮むような感じがする。

 「殺しの感情」は簡単に言えば気持ちのいいものではない。だからだろう、我々は「殺し」を日常から遠ざけてきた。だが、遠ざけても、隠しても、食べ物の源は”いのち”である。塩と水以外の食べ物はほとんど”いのち”だ。光合成ができない生物は、”いのち”を食べることでしか、持続しえない。


 


 「殺し」を体験してわかったのは、殺しが興味深いということだ。殴られ、手の中でぐったりしたイワナを見て、私はこっちの方が”正しい”と思う。ペレットで育った養殖魚の死体をスーパーで購入して食べるより、自分で釣り上げて殺す方が”正しい”と思う。そして考える。私はなぜ、その正しいと思う体験をせずに生きてくることができたのだろう? 用意されたものを、なんとなくこなしていれば、とりあえず近未来に苦しんだり、死んだりすることはない、そんな人生だ。

 登山を始めることで、私はそこから一線を画するようになった。登山の衝撃とは「生き物が生きる上で経るべき経験の多くが、自分には欠如している」と気づくことだった。体験がなければ、それにともなう感情もない。環境が厳しく自分の体を激しく動かさないと生命が維持できなかった時代は、たぶん、それにともなう感情も豊富で激しかったはずだ。行為しなくても生きているということは、昔に比べて喜怒哀楽が少ない、平坦で面白みのない人生を送っているということだと思う。私は「体験がたりない」という恐怖に突き動かされて、登山を続けてきたのだ。科学がひとびとの世界観を変えても、それで人間の行為が消えるわけではない。いのちがいのちを食べることが変わるわけではない。

 「気づき」という言葉は、最近ではうさん臭くなってしまったが、仏教系の重要思想である「悟り」や「念」といった概念に近いと思う。意識を経ずにやってくる「気がつく」という事象は、感情に近い心の動きではないかと私は考えている。


 


 話をわかりやすく、かつ挑発的にするため、ネタに「殺し」を選んだが、別に殺しでなくてもかまわない。収穫の喜びでもいい。行為の喜びでもいい。本来自分の肉体を動かしてすべきことを、お金を払って済ましたら、その人は「ゲスト(お客さん)」である。現代都市文明とは、ひとつの小さなジャンルでプロフェッショナルになり、残りのすべてでゲストになるというシステムだと言えるかもしれない。

 その中で登山とは、「生きるための具体的な手応え」を取り戻そうというムーブメントなのではないかと私は考えている。現代文明人でありながら、ゲストになることにあらがおうとしている思想集団が登山者なのではないか。自分のことを自分でやって自分で責任をとる。少なくとも自分のフィールドにおいて、そうしようとする。そんな仲間たちは世界中にたくさんいると信じたい。

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ソース:岳人 2015年 01月号 [雑誌]
服部文祥「収穫の喜びをかえしてください」




2015年2月3日火曜日

着た瞬間から湿気を逃がす、初の素材 [マウンテン・ハードウェア]


Seraction Jacket
セラクション・ジャケット

Mountain Hardwear
マウンテン・ハードウェア





〜話:加藤雅明〜

 たとえマイナス20℃であろうとも、運動をすれば汗をかく。そのかいた汗がウェアの内部に水滴となって凍り付くと、まるで”氷のウェア”を着ているような状態になる。大汗かきの僕は、それで過去二回、ひどい目に遭っている。

「バックカントリースキーに何を着て行くのか?」

 その日の気温や工程、条件を考えて、どんなレアリングをするべきなのか、毎回頭をひねったが、なかなかこれと言った確信が得られなかった。けれども、この『ドライQ』を使用したマウンテンハードウェアのシェルを着用するようになってから、レイアリング(重ね着)に対しての迷いは払拭された。つまり、「運動しても汗がこもらない」という課題が解決すると、ほとんどの問題は消失してしまうのだ。





 驚くのは「内部の温度が上がる前から湿度を外に逃がしてくれる」という点だ。通常(ゴアテックスなどは)汗をかいて内部の温度が上がってから透湿されていく。それでは汗が汗をよび、不快感を回避することはできない。けれどもこのシェルはそうした不快感を感じることなく、着用したままハイクを続けることが容易にできる。

 このアウターシェルの性能が、内部のアンダーウェアやミッドウェアの機能性を100%引き出してくれるとも言えるだろう。細身のフィットながら、重ね着できやすい適度なゆったり感をもつ。





 『セラクション・ジャケット』は、アイスクライマーのティム・エメットとの共同開発モデルだと言う。

 寒さを感じる部分には保温性に優れた素材を使用し、熱を発する部位には通気性の良い素材が配置されている。腕を上げたり下げたりと忙しく動き回ってもストレスがないのも特徴の一つだ。脇下、サイド、頭頂部に完全防水のストレッチパネルを配し、アクロバティックなムーブも自由自在。冬季スポーツ全般で活躍するウェアであることは間違いない。

 細部に至るまで工夫が施された頼もしいジャケットが、これほど軽量にできているというのもまた別の驚きである。






ソース:ソウルスライド2015 (SJセレクトムック)
加藤雅明「新素材革命を体感してみた」Seraction Jacket




2015年2月2日月曜日

播隆上人と槍ヶ岳



〜話:梶原正〜


播隆(ばんりゅう)上人の開山

 槍ヶ岳の初登頂は1828年(文政11)、越中出身の念仏僧、播隆上人による。19歳で出家した播隆上人は進むべき道を模索していた。その時代の俗化した仏教界に疑問を抱き、山岳修験道のように深い山の中で難行苦行して自らを高める道を選んだ。


 


 1823年(文政6)、播隆上人はかつて円空上人が登頂したという笠 ヶ岳に登るが、登山道がないので人々が参拝登山できないことを残念に思った。それで、地元の寺や人々の協力を得て登山道を作る。その年には18名、翌年には66人の信者を連れて、笠ヶ岳へ登拝した。このとき、播隆上人は山頂より望む峻峰、槍ヶ岳に心引かれ、登ろうと決意する。

 北アルプス北部の峻峰、剣岳は修験者によって遥か昔の平安時代に登られていたのに、あれほど目立つ槍ヶ岳が、江戸時代後期になっても、登られていなかったのはなぜだろう? 槍ヶ岳は北アルプスの稜線から見れば一目でそれとわかるほど目立つが、山麓からだと信州側、飛騨側のどちらからも見えない。地元の猟師や杣人の中にはいたかもしれないが、その時代に槍ヶ岳を知る人はわずかだったはずだ。播隆上人も笠ヶ岳からその姿を目にするまでは、その存在さえ知らなかっただろう。

 1826年(文政9)、播隆上人は槍ヶ岳開山のため松本へ行き、安曇野の中田又重を紹介される。当時、松本から上高地を経て高山に抜ける飛騨街道が作られていた。又重はその工事に携わっていたので、槍ヶ岳方面の地理を知っていたのだ。この年、上人と又重は槍沢を偵察した。

 1828年(文政11)7月20日、播隆上人は念願の槍ヶ岳に登頂した。43歳のときである。そして、笠ヶ岳と同様、自分だけでなく多くの人々が槍ヶ岳へ登拝登山をできるように登山道を作りたいと考えた。その後数回、上人は又重や信者たちと共に槍ヶ岳に登り、槍の峻峰に鉄鎖を取り付けようと奔走し、ついに1840年(天保11)8月、槍ヶ岳に鉄鎖が取り付けられたが、そのとき上人は病の床にあった。その年の10月21日、播隆上人は55年の生涯を閉じた。






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引用:日本百名山冬季登頂記「第一座 槍ヶ岳」梶山正
岳人 2015年 01月号 [雑誌]



2014年12月12日金曜日

スキーという空っぽの時間 [Fall Line]


話:石橋仁


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 月山エリアには数年前からキャットを使ったツアーが行われており、もちろん僕らもこの恩恵にあずかることにした。志津温泉五色沼のほとりから出発したキャットは、姥沢小屋まで標高差500mを約50分で運んでくれる。もしラッセルで歩けば、と考えるだけで太ももの筋肉がけいれんを起こしそうだ。

 今朝は放射冷却でぐっと冷え込んでいる。初めて月山上空が青空に包まれている。キャットがつづら折りの林道を走るごとに雪の締まった音がする。振動がくる。景色が揺れる。そして視界の正面に、初めて目にする月山のたおやかな山容が回り込む。ため息のような感嘆が自然と出てしまう。

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 姥沢小屋で降りると、正面に夏スキーで有名な月山スキー場のリフト架線がかろうじて見える。リフト支柱のほとんどは雪に埋もれているのだ。周囲を見渡すと足下に夏季の宿の屋根が覗いている。大げさではなく積雪が10m近くあるのではないだろうか。豪雪ぶりが半端ではない。

...

 やや視界が悪くなってきた斜面に、先ずは石沢さんがシュプールを刻む。月山を知るガイドらしくひょうひょうと小気味よいテレマークターンで斜面変化の向こうに消えていく。さすがに滑りが安定している。どっしりと、地元に腰を据えた姿を滑りに転写したようだ。すかさず無線が入る。

「視界は悪いけど雪は安定しています。いいですよ〜」

 いやはや、滑っていくときに「うひょうひょ」と奇声が聞こえていたので、雪が悪いはずはないとは判っていたが、無線連絡のお陰で確信が持てた。大きく滑ろう。先ずは一本、記念すべき月山の大斜面にターンだ。

 スキー場のリフト架線が遠く見え隠れしている。石沢さんのトレースを右に見ながら、少しでも斜度のありそうな左に寄って滑る。時折底に当たるのは硬く締まった雪だろうか。ゆるやかで広大、たおやかな肌を滑る。たまらない。雪は軽い。深い。スキーは走る。シャラシャラと音がしそうな雪質だ。思わず口元が緩む。

...

 滑り終えて振り返るとようやく気が付いた。明るい森の正体は、ブナの大木が連なる森だった。僕が月山で滑りたかったのは、まさしくこのブナの原生林だったのだ。

 遠くまで透き通るようなブナの大木、疎林。樹齢200〜300年くらい経っているだろうか。先日滑った杉の人工林が人間の営みを感じる林ならば、このブナの原生林は神のいぶきを感じる森だ。古(いにしえ)の人々が萬(よろず)の神を見出し、信仰し、畏れあがめたのは、きっとこのように深く、樹々が幾重にも重なったような森だったのだろう。

 僕ははっと息をのんで立ち止まらずにはいられなかった。美しい。

...

 ブナという樹は木材としての用途があまりなかったために、切られずに残されたともいわれている。もちろん人里近いブナ林は皆伐されて人工林に変えられたり、また宅地開発されたりして、人間が利用できるものに造り替えられた経緯はある。

 しかし今、目の前に広がるブナ原生林のように、利用価値がないとされ見放されたものが山に残り、森を育み野生動物を養っている。天然の貯水ダムとなり麓に豊かな湧水をもたらす。訪れる人には憩いの木陰を提供し、心落ち着かせ雄大深遠な気持ちにさせてくれる。人間にとって利用価値がなかったはずの森が、結果として人間の役に立っている。無用なものが用をなしている。

...

 このブナの原生林に代表されるように、真の価値とは時代を越えて朴訥と存在し続けるものだろう。一見役立たずの無用なものが、巡り巡ってとても重要な役割を果たしている事実は往々にしてあるものだ。それを理解し、敬い、上手につき合ってきた先人の知恵と財産が、この原生林には詰まっている。

 いまここで自然保護を訴えているのでも、利潤追求を否定しているのでもないが、ただ事実としてブナの森はかつての姿のまま連綿とそこに息づいているということだ。その揺るぎない事実に僕は深く頭を垂れるしかない。

 神聖な信仰の山がそうさせたのか、はたまたブナの枝で頭でも打ったのか、日頃はいい加減で不真面目、スキーさえできれば満足なはずなのだが、いつになく謙虚になり畏敬の念が沸き起こったのだった。

...

 雄大なブナの原生林を目の当たりにして、僕はある自己矛盾を感じていた。用途のない木材は結果として人を豊かにしてくれている。しかしスキーは僕に何をもたらしてくれているのだろうか、と。スキーを滑ったからといって何が生まれるわけではない。何の利益もなければ、世の役に立つこともない。ましてや静かな森の動植物が喜ぶはずがない。むしろ迷惑なだけで無意味だ。

 しかし、無意味だからいいのだ。それが面白さの根源にあるのだ。自分自身にとって無用の用をなしているのは、スキーという無意味な行為なのだろう。自己満足で終わらせられるこの空虚があるからこそ、仕事にも打ち込める自分がいる。

 中国の諺にもあるように、器には何もない空間があるから水を注いで溜めることができる。家には空間があるから人が住むことができる。何もない空間があるからこそ、それを象(かたど)っている器や家が機能している。自分にはスキーという空っぽの時間があるから、自分自身でいられるのだ。

...

 登り返しては悶々として一本。

 トラバースして答えを捻ってまた一本。

 滑る意味を自問自答しては一本。

 意味はないと結論付けてはまた一本。

...

 汗にまみれた思考を巡らすばかりで、理屈も屁理屈も出尽くして、ついには直感的な答えのみが残されたようだ。しかし妙に腑に落ちた。

 石沢さんに声をかけられなければ、あるいは月山の一本の樹になるまで黙々と考えを巡らしながら、滑り続けていたかもしれない。脚はすでに棒になりそうだった。

...

 ブナの原生林を延々と降りていく。

 まだ西日は高く、樹々の陰影が進みにくい雪面にくっきりと現れる。影だけ見ていても森の様相が変わってきたことに気が付く。もうすぐ里に降りるのだ。



...








ソース:Fall Line 2015(2)




なぜ滑る? [Fall Line]


話:寺倉力


外は静かに小雪が舞っている。山はうっすら見えているが、上部は白い靄に包まれたまま。今日はオープンバーンまで登るより、樹林帯でいい雪を楽しんだ方が賢明そうだ。

そんな朝に思い出すのは一人のスキーヤーの顔。おそらく、彼なら迷いなく上部を目指すことだろう。そして、ホワイトアウトした中でバックルを締め、スキーのテールを雪に刺してフォールラインを向く。いつでもドロップできるその姿勢で、斜面に日が当たるのをひたすら待ち続けるのだ。そのまま2時間以上経過したこともあるという。

「氷像になるかと思った」

と笑うが、日が射すとは限らないのだから、なにも降雪の中を立ったまま待つ必要はない。だが

「日が射した瞬間を逃したくないから」

と彼は言う。冷凍保存されていた良質の粉雪は、日が当たった瞬間から劣化が始まる。滑るなら視界良好を求めたいし、光り輝く最高の状態で新雪を滑るには、そのタイミングしかないと彼は言う。

ご承知の通り、ハイシーズンの新雪は多少日が当たったところでさほどクオリティは変わらないし、太陽が出なくても光があれば滑るに支障ない。常人には理解し難い彼のこだわりは、けれども、滑り手の限りない欲求そのものにも思える。求める程度の違いこそあっても、1本のランにも最高の快楽を追い求める心は、滑り手の本質だ。



「なぜ、そこまでして滑りたいのですか?」

と問われても答える術がないだろう。

それは彼も私たちも同じだ。








ソース:Fall Line 2015(2)