2015年6月19日金曜日
「今日は厄日だ」[マタギのなかのマタギ]
話:米田一彦
数あるマタギのうちでも、”マタギのなかのマタギ”と誉れ高い、秋田県阿仁(あに)町の打当(うつとう)マタギと比立内(ひたちない)マタギのクマの巻き狩りについていった。
…
金池森の頂上を超えると天狗ノ又沢が深く大きな口を開けていた。マチバ(射手)は5kmを越える長い尾根に散らばり、勢子(せこ)がクマを追い上げてくるのを待った。待つこと2時間、太陽は真上に来て、紫外線に満ちた光線を降り注いでいる。
ついに300mほど離れたヤセ尾根の頂上にクマが現れた。その100m下にもう一頭が斜面を登ってくる。どちらのクマも越冬中に体の脂肪を使いつくし、黒光りする皮がたるんで、ぶよんぶよんと走っている。
「まるでクマのアパートだんべ」
ふつうマタギは猟の間は寡黙を通すが、隣りにいたマタギは珍しく愛想がよい。マチバ(射手)が鉄砲を撃ち始めた。だが転ぶクマはおらず、右往左往して走り回っている。結局、夕方までに5頭のクマが追い出されたのに、一頭も収穫がなかった。マタギたちは、見たことがないほどしょげ返っていた。
「今日は厄日だ、街で祝儀(結婚式)があったがらな」
と嘆いた。
四月の終わりに、打当(うつとう)マタギたちと彼らの最大の猟場である岩井ノ又沢でのクマ狩りに行った。
10時20分。ズッバーンと銃声が響いた。シカリ(頭領)が追い出されたクマを撃ったのだ。クマは猛然と振りかぶり、自分の腰のあたりにかみついた。クマは打撃を受けた箇所にかみつく習性があるのだ。腰はすでに血で赤く染まっている。やがてくるくると赤い円を描きながら、斜面を滑り落ちていった。
シカリが靴のかかとを堅雪に滑らせて、猛烈な速さで下りていった。谷底でクマはおびただしい血の上に横たわっていた。シカリは体を傾(かし)げてクマをのぞき込んだ。
「もはや、コド切れている」
その声に、ほかのマタギたちも手に持った木の枝を雪に突き刺しながら斜面を滑り、集まってきた。マタギたちは、このときに至っても言葉は発しない。しかし彼らが喜んでいることは充分伝わってきた。
「二十五 貫(94kg)はあるべぉ」
と、これから儀式を行う長老が言った。四人の男がクマの両手足を持って頭を北に向けた。長老が姿勢を正す。彼は右手にクロモジの小枝を持ち、クマの魂を鎮める言葉を唱えた。そして貴重な授かり物であるクマノイ(胆嚢のこと)を切り取ると、天に捧げ持った。
「米田さん、見なせ、あれがお宝様だ」
シカリ(頭領)は厳粛な眼差しを私に向け、話を続けた」
「おらドたくさんはいらね。毎年三頭もあればエエ。クマがいねぐなったら寂しいし、クマ狩りはおらドの最高の楽しみだ」
「おらドは脳ミソも内臓も食うし、血も干して食う。おらドはクマに生かされでいると思う。ありがてごどだ。ほら、アンダさも肉の分け前だ」
と私にもふたつかみほどの肉片をくれた。
…
縁起を担ぐマタギたちはたくさんのタブーをいまも守っている。結婚や出産などの祝い事はだめで、当事者はしばらく狩りに参加できない。とくに女性とかかわる内容は嫌われる。山の神様は女性で、嫉妬するからだそうだ。反対に法事は縁起がよいとされている。日々の行動にもさまざまな戒め事があり、なかには「留守中に豆を煎ってはいけない、はじけて雪崩になる」などというものもある。
いまでも掟を守って狩りをしている彼らを、古くさいと笑うのは簡単だが、
「逃げたものは追うな」
「クマは授かり物だ」
などという素朴な考え方は、獲物は毎年少しずつしか捕らないという保護思想でもあるのだ。私の心にはやさしく響く言葉だ。
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引用:米田一彦『山でクマに会う方法 (ヤマケイ文庫) 』
クマ撃退スプレーのトウガラシ臭 [米田一彦]
話:米田一彦
私はこれまでに1,000回以上クマに会っている。そして8回襲われた。いずれも重大事故にはならなかったのは、経験によってクマの動きが読めたからだ。クマはむやみに人を襲うことはないが、さりとてカワイイぬいぐるみでもない。
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今年は暖冬だった。クマたちはすでに動きが活発になっているはずだ。雄グマのアトラスの越冬場所の記録を取るためひとりで山に入った。雪は暖かさでざくざくに腐り、足を取られる。ヤブも難儀だ。
受信音を頼りに越冬穴を探す。雪のない小さな尾根からひょいと顔を出すと、5mほど先の切り株の下からアトラスが顔を出していた。足音や受信音ですでに私の接近に気がついていたらしい。アトラスは私をにらんでいた。しまった、近すぎた。
私はずるっと転げ逃げたが、ヤブのつる植物に体を巻かれてクモの網にかかった虫同然である。意を決してクマ撃退スプレーをアトラスに向けた。アトラスが、フオーと息を荒げて向かってきた。あと3mだ。一瞬、アトラスを捕まえるときに手こずった記憶がよみがえった。
スプレーのレバーを押した。黄色い液がほとばしり、アトラスの顔を直撃する。彼のスピードが少し落ちた。私はそのとき不思議なくらい落ち着いていた。スプレーを両手で固定し、噴射を続けた。残雪もアトラスも黄色に染まっていく。周囲はトウガラシの匂いで満ち、私ののど、鼻、目など、あらゆる粘膜が悲鳴を上げた。
アトラスが攻撃を止めた。絞り出すようにウッオーンと叫び、前足で顔をぬぐった。そして、くるりと体をひねると、残雪をけ散らしながら、斜面を走り去った。
しばらくすると足ががたがた震え出した。のども目も鼻もひりひりする。ヤブを抜けると、私はアトラスに負けないほどの速さで斜面を転げ走った(1990年4月5日 秋田県大平山)
引用:米田一彦『山でクマに会う方法 (ヤマケイ文庫)』
2015年6月18日木曜日
フランスの国立スキー登山学校 [ブリュノ・スーザック]
〜『岳人』2015年6月号より〜
近代アルピニズム発祥の地、フランス・シャモニから、ENSA(ECOLE NATIONAL DE SKI ET D'ALPINISME)の現役教官、ブリュノ・スーザック氏が来日した。ENSAとは、フランスの国立スキー登山学校のことであり、山岳ガイドやスキーパトロールといった山岳スポーツのプロフェッショナルを育成する機関だ。
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ブリュノ・スーザック氏は、20年余りにわたって、ENSA(フランス国立スキー登山学校)の教官として数多くのガイドを育て、かつアルピニストとしてパタゴニアなどで多くの先鋭的な登攀に成功してきた。
そもそもENSAとは一体どのような組織なのだろうか。
ブリュノ「フランスには国立のスポーツ学校が4つあります。乗馬、ダイビング、ヨット、そしてスキー登山学校(ENSA)です」
国の機関がスポーツの振興のために学校を運営することは、日本人には馴染みがないだろう。フランスには世界各国の中で、スポーツ政策をリードしている国である。1963年に青少年・スポーツ庁ができ、2010年にはスポーツ省として独立し、国民のスポーツ振興を司っている。ENSA(スキー登山学校)もスポーツ省管轄の団体になる。しかしこの4つのスポーツはいわゆる代表的な競技スポーツでないところが面白い。
ブリュノ「ENSAは山岳スポーツを教える機関ではありません。山岳スポーツのプロフェッショナルを育成し審査する機関です。生徒たちは入学する時点で、すでに様々なスキルを身につけていなければなりません。入校するには、厳しい基準の山行記録審査を通過し、入学テストに合格しなければなりません。事前にテストを設けることにより、私たちは生徒に対し、プロフェッショナルとして要求される技術、すなわちガイディング技術から教えることができるのです」
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人生の大半を、一貫して山と向き合い仕事としてきたブリュノ氏。フランスで山岳ガイドになるということは、”趣味が高じて”などという生易しいものではない。あくまでもプロフェッショナルとして仕事をこなす態度がうかがえる。
ブリュノ「シャモニ谷でガイドとして暮らし、長いキャリアを築くのは容易なことではありません。4年前、私は兄を山で亡くしました。それ以来、山に対する考えが変わってきました。リスクというものに対する考えも変わりました。シャモニ谷では4ヶ月にひとりの割合で、ガイドが山で亡くなっていくのです。落石、滑落、雪崩など、原因は様々です」
フレンチ・アルプスでは毎年30人ほどの登山者が命を落とすという。
ブリュノ「自分の子供にガイドになってもらいたいか、と聞かれたら、ノーと答えますね」
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3度の来日を果たしているブリュノ氏に、日本と日本の山の印象についてうかがった。
ブリュノ「フランスと日本の国土は正反対です。フランスは国土の70%が平野で30%が山岳地帯です。アルプス山脈は国土の30%しかないのです。日本はどうでしょう。70%が山岳地帯だと聞いています。これは、山岳スポーツとそれを楽しむ登山者の潜在的な需要がもっとある、ということです」
訪日外国人がイメージする日本は、いかにも東南アジア的な水田地帯の風景だという。スキーのために白馬を訪れた外国人が発する代表的な言葉は「まさか日本にこんなに大きな山があるとは知らなかったよ」だ。
ブリュノ「私から見て、実にもったいないという思いがあります。一例をあげれば、スキーです。今回私は山岳スキーの技術と雪や雪崩の講習のために来ました。北海道ではミックスクライミングを、白馬では極上のスキーを楽しみました。しかし(日本人の)講習生のほとんどがクライマーだったためか、スキーの技術はクライミングの技術に比べて充実しているとは言えませんでした。それでも、日本の雪は世界で最高クラスといえるでしょう。フランスやカナダにも雪はあります。ただ、日本ほど質のよい雪が降るところは世界中をみても、多くはありません。そんな環境があるのに、それを十分に活かしきれていない、という感じがしました。私が接したのは日本のごく一部に過ぎませんが、日本の方々には、その素晴らしさと可能性に、もっと気づいてもらいたいと思いました」
抜粋引用:岳人 2015年 06 月号 [雑誌]
岳人プロファイル 山と生きる人の今
ENSA教官ブリュノ・スーザック(Bruno Sourzac)
2015年6月15日月曜日
山中の幻覚・幻視
〜2015『岳人』7月号より〜
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富山湾を出発し、北・中央・南アルプスの名だたるピークのほぼすべてをたどり、駿河湾に至る、日本アルプス縦走のフルコース。そんなコースを舞台に、2年に一度、日本一過酷といわれる山岳レース「トランス・ジャパン・アルプスレース」が開催される。移動総距離は415km、制限時間は8時間。
レース中の睡眠時間は毎日3時間程度といった選手も少なくない。3日目を過ぎると、かなり疲労が蓄積してくる。レースが後半に差し掛かり、疲労がピークに達すると、多くの出場者は幻聴や幻視に悩まされる。レースの名前はそちらの「トランス(変性意識状態)」の意味ではないかと口走る出場者もいるほどだ。具体的な体験では、
「女性パーティの話し声や、ラジオの野球中継が聞こえる」
といった比較的ライトなものから
「ないはずの山小屋」
「石や木に人の顔やお経が浮かんで見える」
「隣を女子高生が歩いている」
という重度のものまで、出場者たちの「あるある」として口々に語られている。こうした幻覚は、疲労が溜まる夕方や夜間、岩稜や樹林帯など単調な景色の中、会話もなく単独行に近い状態など、「脳にとって低刺激の環境下」で起きやすいという。脳科学の分野では、脳の防衛本能の働きとして知られている事例だ。脳は極度に疲労した状態になると、岩のくぼみや茂みの音といった小さな要素からも、自分の期待する架空の像や音を拾い出すと考えている。
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引用:『岳人』2015年7月号
「日本一過酷な山岳レース」出場者に学ぶ
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